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エナーリシャを連れたパウテの小団は、半時ほどでキハルの滅びた集落に着いた。
(ひどい)
集落に充満する、鉄臭い血のにおいと、いまだ燻る天幕の残骸。部族の証しであるキハルの砂竜は、土足で踏みしだかれたのだ。
こみあげる不快感と、いやな感じのする汗が噴きでるのを感じ、エナーリシャは唇をかんだ。だが、毅然と顔を上げる。
(父様はどこだ?姉様たちは?)
焦りと緊張が押さえられない。身体が震え出すのを、彼女は忌々しく思う。ところどころ積み重ねられた死体は見るだけで吐き気をもよおした。
今であれば静かなものだが、ほんの一時まえは目を覆わずにはいられないほどの惨状があったのだろう。
「わたしが、もう少し早くやってきていれば」 族長である父、ハルマの、真意はどうあれエナーリシャをウナクにやるのを拒んできた気持ちは嬉しい。だが、それ以上に彼女は憤ろしかった。ィエンと呑気に出掛けてさえいなければ、この集落は救われたのかもしれないのだから。ウナクが哀願を求めれば、民のために一時、膝を折りもしよう。
「シュリムシュさま」
やがて、一目でそれと分かる、黒髪のウナクの女が、エナーリシャを連れにやってきた。シュリムシュとは、主に族長の娘につかわれる尊称である。
「支度がございます。こちらへ」
肩を越す漆黒の髪と、双眸。底冷えがするような鋭い容姿の女だった。なにかしらこちらにたいして敵意があるような物腰だった。 それはともかくとして、おそらく男の戦に同行し、飯の用意や夜寝の相手をする女であろう。奇麗な女だから、おそらくウナクの長あたりが連れてきた者だろう。もしくは、この陣営にいるらしいその息子あたりが。
まるきり様子が変わってしまった、闇の中に沈んだ集落内を歩き、やがてエナーリシャはひとつの天幕のなかに案内された。こぎれいに整理された天幕の中には、やはり黒髪のウナクの女が一人。エナーリシャを案内してきた女ほど器量はよくないが、愛想は持ち合わせているようだった。
「ミキノ、この方のお化粧を直して差し上げて。衣装もね。それから」
早口で言い渡してから、鋭い黒の眼を柔らかくして、美しい女は緩く笑った。艶やかな微笑だ。
「何か軽い物を。シュリムシュさまのおくちに合うようなものをね」
「はい、おまかせを」
女は天幕から消えた。だが、いまだあの女の微笑が消えない。
「どうなされました?お気分が優れないのですか」
問いかけるミキノに、エナーリシャは納得行かないというように訊ねた。
「なぜおまえたちは、わたしに敬意を払うんだ。滅ぼした族の娘に、媚など要らないじゃないか」
ミキノは、花嫁の男のような言葉遣いに驚いたようだったが、それにそっと答えた。あくまで、失礼のないように、である。
「わたくしたちは、ヤエフアの命令に従うのが仕事でございます。ヤエフアはおっしゃいました。あなたさまを客人として、粗相の無いようお世話をするようにと。わたくしたちは、それに従うのみでございます」
「・・・・」
それ以上は聞いても無駄だった。ミキノは手早くエナーリシャの顔に落ちかけた白粉を塗りなおし、それから紅を唇にひく。化粧が終わってから、衣装を脱がされた。恥じる間もなく、着飾られる。
(また着替えるのか)
エナーリシャはいささか閉口した。
衣装はウナクの独特の正装らしい。着たこともないような体を締め付けるようなうすい衣装のうえに、肩や腰に金や銀の糸を交ぜた、むこうが透けてみえるほどの織物を幾重にも巻く。彼女の肩を少し越すぐらいの、女にしては短い亜麻色の髪は、器用にまとめられ、結い上げられた。花嫁の顔の線を露にするのだ。
「ひとつ聞いていいか」
今まで黙り込んでいた花嫁が、不意に喋った。ミキノは、ぱっと顔をあげ、何を喋るのかと興ぶかそうに見つめた。
「何なりと」
「わたしの夫殿は、どんな男だろうか」
興味が全くないわけではない。それに、心の準備もしておきたかった。
「レノ・ランセさまのことでございますか」 何げなく口にした一言だったが、ミキノははやくもうっとりと陶酔したように眼差しを遠くに投げた。一瞬作業の手が止まる。
「レノ・・・?」
「あの方は、お優しい方にございます。ヤエフアの息子さまがたのなかで、義理とはいえ一番・・・」
そこまで言ってから、突然ミキノがハッとしたかと思うと、不自然に言い繕う。
「お、お優しいことは勿論、聡明でいらっしゃいます」
「そう」
義理がどうしたというのか。エナーリシャはそれ以上の会話を止めた。うるさく囀るのを聞いていても、苛々するだけということに気づいたからだ。もともと、エナーリシャは女のおしゃべりというものが好きではない。 ひとをあげつらったような、部族のおんなたちの軽口の矢面に彼女自身が立たされていたせいかもしれなかった。
それにしても、レノ・ランセ。なんておかしな名だろう。「名を無くした者」がレノ・ランセの意味だ。名の無い男なんて、どんな奴なのか検討もつかない。ミキノの様子から、女の注目を集めるような男であるらしいが、優しいだけの軟弱な男なら、エナーリシャにとってしてみればクズだった。
用意も出来上がり、エナーリシャは別の天幕に通された。さっきの所とは、なにやら雰囲気が違う。地面は粗布だけではなく、触り心地が良い絨毯が敷いてある。手の込んだ模様が織り込まれていて、上手には主人のいないままの座がある。周りには、玻璃の水差しやら何やらが、きれいに並べられていた。それらは皆、この天幕が身分が上の者のそれだと知らせていた。
「ここでお待ちください。レノさまはすぐにいらっしゃいますので」
ここは夫婦の寝所なのだ。もともと、結婚の儀式などは存在しない。男は適齢になると、家族の天幕から離れ、自分の城を持つ。相愛の娘を招き、これが婚姻成立となる。
エナーリシャは知らぬうちにくちびるをかみしめていた。ウナクがいなければ、エナーリシャは愛する男の息子を産むことができたのだ。その想いが急に込み上げてきたのである。ウナクがいなければ、と。
ミキノが彼女を残して天幕から出て行ったあとに、エナーリシャは立っているのも何なので、絨毯の上にあぐらをかく。普段は男を意識して振る舞っていたから、女がどんなふうに振る舞うのかなんて、忘れてしまった。それにどうでもいい。
そもそも女や男なんて身体の違いのみで区別されるのはおかしい。こんなふうに、女が男の手駒のように扱われるなど、どう考えても不公平ではないか。
(どこが不公平なの?男は族を守って、女は天幕をまもるものじゃない)
マァシルの言葉が、思い出された。
(あなたも誰かの妻になれば、解るわよ)
わかるものか。わかりたくもない。父を殺した憎い男の妻になれと言われて、はいそうですかと、受け入れられるものか。
カリアの前で言ったのは、長の娘としてするべき当然の行動であり、死んだアーレンに嗤われないために、というのも間違いはない。ただ、父親の命を奪いとり、キハルの平和をも奪った者に愛を抱けというのだけは無理な相談だ。
エナーリシャはじっとして居るのがどうしてもできなかった。立ち上がりかける。だが、慣れない裾の長いスカートを踏み付け、よろけ、舌打ちする。
「くそ」
ちょうどそのときだった。天幕の入り口の布が、音もなくそっとかき分けられた。背の高い男が、身を縮めるようにして入ってくる。その男は、彼女の呟きを聞いて、驚いたように立ち止まり、凝視してきた。それは気配でわかった。
「お前、か?ヤエフアがわたしに寄越してくださったキハルの娘、というのは」
低いが、無骨なほどではない声。どこかで、聞き覚えがある。若い男らしい。天幕の中の灯火は油皿のみ。それも、入り口までにはあかりが届かないため、男の顔はよく見えない。エナーリシャは目を凝らしたが、丁度肩当たりまでが影になってしまっていて無理だった。 しかし、彼女のカンに触ったのは、「寄越してくださった」という、男の物言いだった。エナーリシャは腹の底が一瞬、炎のように熱くなったのを感じる。
「わたしは物ではない!それに、わたしは、わたしの意志でここに来たんだ」
(この男が、とうさまの命を奪ったウナクの男?)
もっと壮年の男かと思っていたエナーリシャは、にわかに信じられなかった。それに彼女が憎しみをこめ、勢いこんで言ったあと、すぐに男の笑い声が起こったのだ。嫌みでないさわやかな笑いであることに、エナーリシャは戸惑った。「何がおかしい」
こぶしを振り上げかけると、予期せぬ答えが返ってきた。
「いや、さっきのは聞き間違いではなかったと思って。・・・では、物ではないお前に聞く。自分の意思でここに来たと? 」
「そうだ」
決意してきたのだ。それに間違いはあるまい。・・・でもなにより、この男に弱みを見せたくなかったからかもしれなかった。
「それならば、もっと花嫁らしく、夫には従順でしおらしく振る舞ったらどうだ。男のような娘」
笑われたことだけでも許しがたいのに、奴は侮辱と取って他に何と取るという言葉を、彼女に投げつけた。
「キハルの女は皆、高慢で美しさを鼻にかけるというのは本当なのか?ああ、あの、カラという女はどうも違うようだが」
「なッ」
「キハルの女たちは、わたしが、ウナクに身をあずけよと言ったときに、ほとんどが自害をしたのだ。カラは死に臨もうとする姉たちを叱咤し、自分が妹の代わりにわたしに仕えるとも言ってきた」
「ばかな!」
「事実だよ。だが、ヤエフアがくださると言ったのは、おまえだからな。申し出は断っておいたが」
「ばかな・・・キハルの女は、二夫に交えぬという、掟があるのに」
いや、掟ばかりではないだろう。子まで成した夫を殺され、なのに、カラはそれを曲げてまで、妹を救おうとしたというのか。
愛するものを奪われた悲しみ、憎しみ。
その気持ちはエナーリシャとて知っている。だが、あの物静かなカラのそんな様子は考えにくかった。姉たちを叱咤した?滅多に大声を出さない人だというのに、そんな場面は考えられない。
まゆ根をよせるエナーリシャを眺めながら、男は呆れた風な声音で言った。
「二夫に交えず、か。随分と抑圧されているのだな。いくら愛しいといっても、死ぬときはどうせ別々なのだ。生きているうちは、好きな者と婚姻し、寝たい者と枕を交わせばいいではないか」
カラについてもっと問いただそうとしたとき、その台詞を耳に聞いた。頬に血が上るのを感じる。奴の口から出た奔放な言葉への、女らしい恥辱ではない。怒りのためだ。わずかの距離をあっと言う間にあゆみよると、エナーリシャは反射的に手を出していた。新婚の寝所から聞こえてくるとは思えない、威勢のいい、ぴしゃり、という音が響いた。
暗がりにいようと、男が打たれた頬を押さえるのが見えた。エナーリシャはすぐにはっとして、二・三歩後ずさる。
やってしまったのはどうしようもない。それに、悪い事だとは思えない。この男は、死んだ男たちを想って後を追った、キハルの女を侮辱したも同じなのだから。
高ぶりのためゆるんだ桃色の唇から、罵声が飛び出た。
「・・・わたしの父を殺し、わたしの幸せを奪ったウナクの男!寝たいものと寝るだと? 欲深な貴様ららしい物言いだな」
男が、ゆっくりとエナーリシャに近づいた。拳三つ分ほどの僅かな距離で立たれ、遠慮なく見つめられる。笑いを含んだ声がした。
「驚いたな」
明かりの下にその容姿が露になる。今度はエナーリシャが不意打ちをくらって驚く番だった。
「女に殴られるとは、思ってもみない」
「!」
ウナクの男である証し、黒髪はやや茶色がかって、短く刈られていた。頭布が片目を隠してはいるが、ただ、その眼だけが青。しかも青の中に灰色が込められている。髭も生えていない先の尖ったあごの線は、女の目を引くに十分すぎると言える。笑うと甘さを含む唇はやや薄い。
似ている。あの双子のいとこたちに。
「おまえ・・・」
驚きが、彼女を無防備にさせた。奴が手を上げかけるのにも、すぐには反応できない。(殴られる)
平手打ちは、殴られるのを覚悟でやったことだった。女が男に手をあげるなど、考えられないことだから。さっき奴が言ったとうり、女は従順が美徳なのだ。
しかし、彼女の上にはいつまでたってもこぶしは落ちてこなかった。ただ、夫の何かを探ろうとする青灰色の視線のみが、エナーリシャに注がれている。
「おまえ、おかしな女だな。男は何人も妻を持つのが普通なのだ。それに、子を増やすのは美徳でもある。お前はそれを欲深というのか」
レノ・ランセは、奇妙な気持ちに驚きながら、そう呟いた。そっと持ち上げた手は、娘の頬にかざす。これが本当に女なのか、疑いたい気分だった。レノ・ランセの知る女とは、なよなよとした色白の肌の、媚びた目で見つめてくる種類ばかりと思っていた。
それが、どうだろう。怒ったり、赤くなったり、こんないきいきと表情を変える生き物がいるとは。
「どこかで会ったか・・・?いや、一度でも会ったなら、お前のような女、忘れるはずない」 頭布のかげりから、二つの青い眼がエナーリシャを凝視した。彼女のほうが息苦しくなり、目をあわせていられなくなる。この男は、あの愛すべきいとこたちに似過ぎている。
エナーリシャはいよいよ強くレノを睨んだ。 決してこの男のせいではない、この、血が騒ぐ感じは。
「あいにく、ウナクなどの知り合いはいない」「今夜、できただろう。知り合いどころか、夫が」
「・・・ふざけるな」
彼女は動揺を隠すように素気なく言い放った。頬を触るレノ・ランセの手は、存外に大きかった。みかけは線が細いのに、近くで見下ろすように立たれると睨み上げるのも疲れる。
「おかしいのは、「名のない男」、お前の方だ。わたしはお前をぶったというのに」
レノの手を振りはらい、今度は彼女がレノを上から下まで眺め回した。彼は軽く両手を広げた。
「キハルの男は女に手をあげるのか。それとも、殴られたら、相手が女でも殴り返せという掟でもあるのか?」
レノは、会話を楽しんでいるように、青灰色の眼を細めた。
「あるかッ、そんなもの。真面目に答えろ」 ああ、もう、調子が狂う。まるでィエンを相手にからかわれているようなものだ。
そうだ、このレノという男が、ィエンとアーレン・シンに似ているから、こんなに堅く鎧った心が溶けていってしまうのだ。・・・しかし、憎しみを忘れそうになるのは恐ろしくて仕様がなかった。
(こいつは、黒い悪魔だ。父様を死に際に追いやったウナクの男だ)
それに、父だけではない。ウナクはアーレン・シンも殺した。優しげな物腰に騙されてはいけない。この親しみ易そうに装った裏では、何を考えているか。レノ・ランセの薄ら笑いをエナーリシャは睨んだ。
「わたしは真面目だ」
レノは、顔を見当違いの方向にむけた娘の肩を、その言葉と共にぐいと引き寄せた。
「だが、お前がどうしても殴って欲しいというのなら、かわりにこれをくれてやる」
近付いてくる、それはアーレンの顔。エナーリシャには、そのときィエンと真向かっているというよりは、アーレンと決別した朝のことが思い出されていた。
死んだアーレン・シンは、こんな黒茶の髪じゃない。きれいな朝焼けの砂漠のいろだ。でも、眼だけは同じ。その双眸も。こんな偶然が、あって良いのだろうか?
レノは、抗いさえしない娘から顔を離した。短い口づけだった。数刻前にも、ウナクのゲスにむりやり口づけされたが、同じ口づけでもどうしてこんなに違うのだろう。乱暴でもないレノの唇は、甘い果実酒の味がした。ここへ来る前に、軽くあおってきたのだろう。「いらないなら、いつでもいいから返してくれていい。それとも、女から口づけをするのはいけないという、掟でもあるのかな」
馬鹿らしい軽口を言う姿が、いとこたちと重なる。
「・・・レン・シンなのか」
一度胸に生まれた疑惑と期待を、エナーリシャは止められなかった。
「何と言った?」
「レノ・ランセ、お前はわたしの、アーレン・シンなのか」
ウナクへ血の報復に旅立った、アーレン・シン。あれから三年の月日が経つ。ウナクにて、父の汚名を相手の死によって雪ごうとしたのを失敗し、死んだと思い込んでいた。だが、確かな証拠・・・彼の死体を見たわけでは、ない。
もしかして。
この男が、アーレン・シン?
髪の色など、染めれば変わる。だが、目の色だけはごまかせない。あのアーレンの、灰色が混じった青き目は、変えられはしない。だが、レノの答えは冷たく突き放すそれであった。
「アーレン・・・?それがわたしだと」
冷笑をさえ浮かべる。
「そうだ、アーレン・シンだ。別人と言うには、おまえは似過ぎている」
「知らぬ」
レノは愛想のあの字も含めない、相手を小ばかにした笑いをしながら言った。
「キハルの娘、お前はアーレンとかの話をするときだけ、娘の目をするのだな」
あっさりと否定する。しかも揶揄に似た眼差しを向けられ、エナーリシャは恥じた。それは的外れな彼女の質問のせいだろう。
(ウナクの男として、アーレンが生きているはずはない。どうかしている)
部族の者たちは、アーレン・シンが報復に失敗したのだと噂しあった。そして、それを肯定する彼の剣が、訃報とともに部族に帰ってきたのだ。
(そうだ、こいつがアーレンのハズはない。たとえアーレンだったとしても、彼がキハルを裏切るはずない)
キハルを、そして何よりもエナーリシャを。彼女はそう堅く信じていた。
「・・・いい」
誓ったではないか。この身など、いくらでもくれてやると。だが、心だけはアーレン・シンに捧げられたものであると。
悲壮感など無しに、微笑みさえして、ウナクへ復讐に旅立った彼。
彼に嗤われないように、誇りある振る舞いをすると決めたではないか。
はじめは、ちいさな呟きでしかなかった。高ぶりのために声が掠れていて、うまく言葉が出てこない。エナーリシャは唇を湿らすと、レノ・ランセにはっきりと断言した。
「つべこべ言わずに早く抱けばいい。わたしは、そのためにここへ来たんだからな」
さっきまでの動揺は、彼女の顔からきれいに消えていた。後には、真の男かと見まごうほどの、凛々しさがあるのみ。ふとレノ・ランセは、この娘に興味がわいた。どんな味がするだろうか、と。いいや、はじめに目をあわせた一瞬に、いますぐ欲しい、寝てみたいと思ったのだ。それはもう理屈ではなかった。 ふたたびくちづけしようとしたレノを、エナーリシャは固い声と腕でおしとどめた。
「そのかわり、約束どおりキハルの人間には手を出すな。もし、ウナクがキハルの民を傷つけるようなことがあれば、従順な妻の振りをしていたわたしが、すぐにお前の阿呆な寝首をかいてやる」
エナーリシャはかみつくようにいまいちど言葉を吐いた。「すぐにだ」
レノは驚いた。
「心に決めた男がいるのではないのか」
灰色が混じった、青い目を瞬かせ、言う。「おかしな女」
ふたたびつぶやく。だが、その言葉に冷たい響きは聞こえなかった。むしろ、彼女の真意を探るような、視線を向けてくる。
「まあ、いい。従順とは言い難いが、わたしにはこれくらいがちょうど良いのかも知れぬしな」
レノ・ランセは、男よりもそれらしい誇り高い妻を、やさしい仕草で柔らかな絨毯に寝かせた。そこが夫婦の寝所であった。
「いたい・・・」
横たえられて、髪の結い上げが邪魔になった。顔をしかめ、甘さとはほど遠くうめく娘を見てレノはおかしそうに笑い、美しく見えるよう高く複雑に結い上げた彼女の髪を、苦労して解いた。それは手慣れた仕草だった。幾つもの花をやさしくつんでゆくような、手の動き。
父の仇のうでに抱かれる日がこようとは、夢にも思わなかった。それは奇妙な感慨ですらある。
レノ・ランセのくちびるがエナーリシャのおとがいをすべり、喉元を軽くこする。やがていつのまにかあらわにされた感じやすい胸のふくらみの先端を含んだ。
(ちがう、ちがう。この男はシンじゃない) この男に彼の姿をみるのは、エナーリシャの裏切りだ。エナーリシャははじめて味わう刺激とともに、じぶんが一体なにをしているのかわからなくなった。できることなら悲鳴をあげてしまいたかった。この場から、逃げ出してしまいたかった。しかしそれをすることは、負けをみとめること。エナーリシャの誇りがそれをゆるさなかった。
エナーリシャはかたく眼をつぶり、ただその行為がおわるのを待った。拒むでもなく、受け入れるでもない彼女の様子に、レノ・ランセは困惑した。
彼は片手を持ち上げると、エナーリシャの頬を触れるか触れない程度になでる。その動作には、壊れ物をあつかいかねるような躊躇があった。
「無理にするのは好きではない」
エナーリシャは聞こえてきた声にうっすらと目を開いた。長い睫からのぞくのは、青い瞳と、一粒の水滴だった。
「厭なら厭と、言ってくれ。今ならまだ止められる」
彼女の涙にレノ・ランセは明かに狼狽していた。それに自分がこんな言葉を言っているのも信じられない。
彼は欲しいときに女を抱く。そして、今はエナーリシャという女が欲しい。しかし、この女に泣かれると困るともおもっているのだ。 全くおかしなことだった。
エナーリシャのほうもそれを感じたのか、ふしぎそうにレノ・ランセをみつめた。
「わたしはおまえの持ち物だ。・・・わたしが泣こうとわめこうと、なにをためらうんだ」 エナーリシャの声はかすれていた。やり切れない、つらそうな表情で言う彼女をレノ・ランセはつよく抱き締めた。亜麻色をした髪に、顔をうずめる。エナーリシャはその腕の強さ、すきまなく触れ合った男のあつい胸板に息をつめた。
「それも、そうだ」
レノはくぐもった声でささやいた。すべすべとした瑞々しい肌の感触は、彼の心臓をいやというくらい高鳴らせる。・・・おかしなことだ。女をはじめて抱くわけでもあるまいし。 だがこんなふうに思うのは・・・その心とからだをすみずみまで触れたい、触れてもらいたいと思うほどのつよい衝動は、はじめてだった。まるで、腹の底に熱い炎の塊が沈んでいるようだ。
彼は軽く眉根をよせた。いつだったろう、せつなくていとしい、そんな感情を最後に覚えたのは?
彼の脳裏に、ちらりとだれかの面影が映った。しかしすぐに消え去ってしまう。それは忘れてしまった夢を思い出そうとする行為ににていた。
「レノ・ランセ、わたしはおまえを憎みたい。・・・下手にやさしくするのは、卑怯、だ」
運命に抗いきれないで、自らをレノ・ランセの持ち物だと認めていながら、エナーリシャの声には夫に対する媚がない。レノ・ランセは今度こそ、躊躇しなかった。
「そうだ。エナーリシャ、おまえはわたしのものだ」
・・・その夜、アーレンにもィエンにも許さなかった肌を、彼女は他部族の、それも父の敵に許したのだった。
(肌は許しても、心は彼のものだ)
全てが終わったあと、泥水にしずみこむような疲労を抱え、エナーリシャは夢と現実の間で、そう呟いた。
まるで、アーレン・シンに許しを請うように。