花嫁
ウナクからの使いは、存外に早かった。
その日の夕刻前に、早々と六頭のパウテが花嫁を迎えにやって来たのだ。キハルがやった使いの帰りに、長く間を置かなかった。
普段したことも無い化粧をし、亜麻色の肩までの髪を梳かしつけられ、実に久しぶりに女の格好をした。
「変な感じがするよ、マァシル」
活動的ではない服装は、エナーリシャの好みではない。だが、輿入れしようと言うときに、男の装束に頭巾では、どんな誤解をされるか知れない。
「変なのは、あなたのいつもの格好よ。ほら、かがんで」
マァシルはエナーリシャの髪を整えながら、言葉もすくなだった。
「おい、もしかして、心配してくれてるのか」
そういうと、げんこつで軽くこづかれた。
「こんな軽口をあなたともう出来ないかと思うと、悲しいに決まってるじゃない。悪い?」
すかさず喧嘩腰に持っていくところが、彼女らしい。しかし、その大きな青い目は潤んでいた。
「じゃあ、悲しむことなんてない。またあえるんだから」
「いやよ、茶化さないで!」
マァシルが噛み付くみたいに叫んだ。・・・エナーリシャだって、マァシルと同じで悲しいにきまっている。ただ、それを認めたくないだけだ。認めれば、途端に弱くなって、二度と立ち上がれなくなるだろう。
アーレン・シンの、エナーリシャのものでもある精神のみが、彼女を支えている。
「マァシル、いいか?この世に絶対なんてあるもんか。絶対がないんなら、わたしとお前はまた会える。そうだろ」
最後は、そうであって欲しいという願いだ。絶対など、誰も言えはしない。自分の命が、風に飛ばされどこか知らない土地に運ばれるなんてあり得ない。すべて自分の両足で歩くのだ。そう、自分の意志で。アーレン・シンが死に、そしてこの時、部族が危険にさらされる。その諸悪のもとにエナーリシャは嫁ごうとしているのだ。・・・これが運命だというなら、それでもいい。
「運命なんてくそくらえだ」
(そんなもの、唾を吐きかけて、沓でめちゃめちゃに踏み潰してやる)
「エナーリシャ・・・」
鼻をすすりながら、マァシルは少しの間だけエナーリシャをかたく抱擁した。その後すぐにエナーリシャは背筋をぴしりと伸ばす。ウナクのパウテに向かおうとした彼女を、そのとき大きな影が遮った。
心臓が波立った。
「ィエン、どこ行ってたの?!」
マァシルの声が響いた。奴だ。
「エナーリシャ・・・」
ィエンは、息を切らして彼女の前に立っていた。酷く思い詰めた、傷ついた表情。いつもの軽薄さは少しもない。
(まるでわたしが、悪いことをしてるみたいだ)
苦笑を混ぜて、ィエンを見上げる。ィエンは彼女より頭ひとつ分大きいから、少しだけ見上げねばならなかった。「心配するな」彼女は優しく呟く。日も沈みかけ、黄昏が辺りを支配し始めていた。部族の者を宥め、それからマァシルに身の回りの支度を手伝ってもらっていたから、ィエンのことなどすっかり忘れていた。どこへ行っていた、と問うとどうでもいい、と答えがあった。
しばらくィエンの顔を真っすぐに見ていなかった。これで見納めだと思うと、やはり淋しさが訪れるのは否めない。つかの間、二つの青が鉢合わせする。
「行くのか」
喉に詰まった息苦しさを押し出して、ィエンはそうとだけ言った。やっとこの気持ちがわかった。家族とも思える人間を、帰ることの出来ない見えない場所にやるのが、どんなに辛いことか。
ィエンは拳を握った。自分はかつて、それをしようとしていたのだ。確かに、行く者より、残される者のほうがやりきれない。
「お前を一度はあきらめた。でも、お前をウナクの下種にやるために俺は諦めたんじゃない。それに、あいつが死んだのはウナクのせいだ。エナーリシャ、お前はあいつを殺したウナクに抱かれに行くんだぞ。いいのか」
「わかっているさ」
彼らしい物言いに、エナーリシャは笑いを漏らす。
ィエンの声音は、オアシスの湖面ほどにも波立ってはいなかった。そのことに力を得て、彼女も言葉を返す。
「わたしの身など、好きなようにさせてやる。だが、この心だけはアーレン・シンのものだ。誰にも汚させやしない」
ィエンの声が狼狽していたら、エナーリシャの決意も揺らいでしまうところだ。彼の淡々とした口調が、じっと注がれる灰青色の視線が、彼女を毅然とさせていたのに間違いなかった。
「すまない」
ィエンが、不意に近づいた。エナーリシャを腕の中に抱えるような格好になる。つまりは、抱き締めたのだ。きつい抱擁だった。息をすることすらままならない。
「ィエン」
彼女にそれは拒めなかった。これは別れの場面なのだから。
エナーリシャは、アーレン・シンを見送った時のことを思い出していた。みっともないほど涙を流していた自身。そして、優しすぎる目をした彼。
「リシャ、すまない」
耳朶に唇をよせ、言葉を吐く。苦しみをすべて込めたようなその言葉に、彼女の胸は痛む。
そっと力を込めて、不躾にならない程度にィエンを押しやる。エナーリシャは、彼女本来の輝きをすべて表にあらわしたかのような、極上の笑みをした。
「わたしは、アーレン・シンに嗤われないために、こうやって顔を上げて行くんだ。ィエン、わたしはお前にも嗤われたくなんかない」
何かを叫び出すのを懸命に堪えようとでもするように、ィエンは胸元を強く片手でかき寄せた。「行くよ」彼女は、ためらい無く歩を進めて、ウナクからの使いのパウテに乗った。そのうちの先頭の一騎が、それを見届けると緩くパウテを歩ませだした。数歩離れれば、もう相手の姿も識別できない時刻である。ウナクの捧げ持った松明の紅だけが、ィエンの目に焼き付いた。
「なんてこった」
完全に視界から松明の明かりが消えてしまったあと、ィエンは茫然とそれだけ呟いた。
「・・・俺は臆病者だ。軽蔑されるのが怖いのは俺のほうだ」
ィエンの名は何も無い空に浮かぶもので、アーレン・シンの名こそがこの身にあるべきなのに。
「ィエン・・・俺はお前を恨まずにはいられない。どうして俺をたばかった?血の報復は、俺の役目だった筈じゃないか。・・・お前は俺のアーレン・シンの名を持って、死んでしまった」
それが、真実。
あの旅立ちの日から、全てが歪んでしまったのだ。
ィエンがアーレン・シンの名で報復に旅立ち、アーレン・シンこそが、ねむりを深める薬でその日の昼過ぎまで眠らされていたこと。エナーリシャに言い出せなかったのは、一重に臆病から来るものだった。雄々しいこころを持つ男を彼女は愛する。それが、血の報復に旅立ったのがィエンだと知ったら、心はィエンに移るだろう。ならば、どうしてあいつはィエンを名乗らなかったのか。どうしてアーレン・シンのまま、旅立ったのだろう。
「もしかして、最初から死ぬ気で?」
自らに堅く戒めていた問いだった。そうだ、アーレンを捨て、ィエンを名乗ることを決めた日から。ィエンが死に、アーレンが彼の名を身に帯びてエナーリシャの側で暮らすことに、苦しみが無いわけはなかった。彼女はィエンの死に心を閉ざし、ィエンを思うが故にアーレン・シンを拒み、ィエンの雄々しい心を愛していると言う。つまりはそういうことなのだ。彼に嗤われぬように、顔を上げて行く、と。
アーレン・シンと呼ばれなくなって、どれくらい時がすぎたのだろう?
彼は、何かを思い立ったように歩きだした。その先は、カリアの天幕。エナーリシャは、行ってしまった。何の手立てもなく、悪魔に輿入れさせてしまった。こうなる前に、彼女に真実を話してさえいれば。事態は少なからず違っていたはずだ。
「間違いは、正すべきだったんだ」
遅すぎた。その言葉を苦いくらい噛み締め、アーレン・シンは天幕の布地をかき分けた。
「ィエン、俺が死んだら、エナーリシャをもらってくれよ」
それは、旅立ちの前夜に交わされた兄弟の言葉。自分は、そう言ったのではなかったか。
「ばか。あんなおんな、おまえ以外のだれが欲しがるんだよ。・・・おい、そんな話はなしだ。リシャは報復に行くと言ったおまえに・・・ほれ直したって言ってた。おまえしかいないよ、あんな暴れ馬を乗りこなせるのは」
苦笑まじりに、ィエンはそう言ったものだった。
「何があっても、エナーリシャはおまえを忘れないだろうから。あいつ、結構可愛いんだって。シンのことになると、すぐムキになってさぁ」
「ィエン、いいんだな?」
婚約者だという立場を利用して、ィエンのエナーリシャへの好意に気づかない振りをしているわけにはいかなかった。アーレンは、あくまでもエナーリシャに夫を選んで欲しかった。
「まぁな。シンだったらいいよ。二人ともあいつの夫になれるわけないし」
屈託なく笑った、ィエン。その笑顔の裏で、どんな決意をしていたかなんて、分かるはずもなかった。しかし、ィエンはその夜にいれてくれた乳酒に、マムルクという薬草を煎じてアーレンに飲ませたのだ。その薬草は血止めや強壮剤など、使い道は多岐にわたるが、量を間違えると強力な睡眠剤にもなる。
「すまない、シン」
枕元でそう聞こえたのは、幻聴ではなかったのだ。