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いつ、だったろう。
太陽が砂漠を黄金いろに染め上げるときだった。
彼の、微笑む姿が涙で見えなくなったとき。
「泣くなよ、恥ずかしい。子供じゃないんだよ?」
ああ、そうだ。彼が旅立ってしまう日の思いでだ。残酷な事実しかないのに、なぜこんなにも、彼の笑顔は鮮明なんだろう?それに、この上なく優しい。
ィエンと良く似た、灰色がかかった青い眼。それに、砂避けの頭布を巻いた、やや短い亜麻色の髪。だが、顔が同じでも雰囲気はまるで違う。アーレンは穏やかと称せるそれなのに対し、ィエンはとくれば、何かと軽率なのだ。
「こ、子供ッ? 何言う、シンが悪いんだ、全部・・・!こんな時に、くだらな い軽口をたたくから」
涙腺が緩みきってしまったように、涙が止まらない。一番泣き顔を見られたくない奴の前に居るというのに。
「いい?叔父さんの仇を殺すまで帰ってくるんじゃないからね」
エナーリシャは、親しいいとこの前で恒例となっている毒舌を披露した。
「その前にノコノコ帰ってきたら、腰抜け呼ばわりしてわたしの天幕には入 れないから」
「怖いな、リシャ。もっと優しい言葉が掛けられるだろ?普通は」
彼。アーレン・シンは、そうおどけて見せた。
今から水源争いでウナクの男に殺された、父親の仇を取りに行く者だとは、どうやっても思えなかった。その時アーレンは、気負いするでもなく、高揚するでもなく、ただいつもの雰囲気を保っていた。だが、いつもの陽気さの中にもある種の厳粛な面持ちが覗くのも、エナーリシャには分かっていた。それは、彼の決意だ。
いつもの左目のみを幾度も瞬く癖も、今だけはしていない。
他部族の剣によって流された血は、キハルの汚名だ。その汚名は、相手の血で雪がなければ、消えはしない。
血の報復。
それを拒めば、嘲笑と侮蔑を身に纏うことになる。アーレンは自ら報復することを望んだ。同じように報復を望んだィエンを黙らせて。
「・・・帰って、くるよね?」
喉の奥が引き攣れて、うまく発声できない。エナーリシャは唇を噛む。
「信じてる」
(こいつのこと、好きなの? )
その想いを飲み込んで、それだけ呟く。婚約者だろうと、こんな感情を意識したのは初めてだった。
「待ってろって、すぐに帰るから。リシャみたいなお転婆は、誰も欲しがら ないだろうからな」
「余計な世話を焼かないで、さっさと行ってこいッ」
頬を朱に染めて、エナーリシャは怒鳴る。アーレンは、この上なく優しい笑いをしていた。
微笑みを、交わす。再び二人が笑いあえるのを信じて。
あれが最後だと知っていたら!
知っていたら?
(わたしは、行くなと言っていたのか)
・・・いいや、言わない。彼が部族で蔑まれるのは、見たくない。それに、彼が怖じけづく男だったら、エナーリシャは初めから好きにならなかったろう。 雄々しい砂漠の民の心を持つ男だから、愛したのだ。
「どうしたの、エナーリシャ?」
すぐ近くから、女の声が降った。現実に引き戻される。顔を上げると、キハルの特有、亜麻色の長い髪を緩く結った若い女が、エナーリシャの顔をのぞき込んでいた。大きな青の目が、揺れている。
「ううん、何でもないよ、マァシル」
「だけど、疲れてるみたい。顔が青いわ」
エナーリシャより一つ年下のマァシルは、心配げに小首を傾げた。天幕の隅に置いてある、井戸から汲んできたばかりの冷たい水を満たした水瓶。その中から木の椀に水を汲もうとするが、もういらない、とエナーリシャは首を振った。
「また、ィエンと砂漠にでてたのね? 熱にあてられたのよ。
いい、エナーリシャ。あなたは女なのよ?女は天幕と子供を守るべきなのよ」 マァシルは、カリアの妻。それまではエナーリシャと同じ集落に居たが、十五のとき彼と結婚し、ここへ移った。今では子もいる。生まれたばかりの赤子は、彼女の腕で寝息をたてている。小さな手が柔らかく握られている。
「だって、不公平じゃない」
エナーリシャは、思わず抗議する。しかも拗ねたような声音で。齢が下であるにもかかわらず、マァシルには頭が上がらなかった。
マァシルは、ほつれた後れ毛をそっと直しながら、なおも言い募る。
「なにが不公平なの? 男は族を守って、女は天幕を守るものよ。あなたはハルマさまに逆らってばかりで、夫を据えようともしないんですもの。誰かの妻になれば、そんな気持ちもなくなるわよ」
「・・・・」
唐突に黙ったエナーリシャを見て、マァシルは、ふうっと吐息をした。
「アーレン・シンの事は忘れろなんて、だれも言えやしないわ。でもね、エナーリシャ。彼のことを引きずって、そのまま行き遅れるつもり?」
「マァシル」
相変わらず、彼女の物言いには遠慮がない。だが、エナーリシャが裏表のない彼女の性格を慕わしく思っているのも確かだった。
「もう、ィエンと結婚しちゃったら?彼、いろんな娘を口説くけど、いつもそれだけ。あの調子じゃあ、寝たこともないかもね」
「なんで、お前がそんなこと・・・」
突然にィエンのことを持ち出され、エナーリシャは喘いだ。あいつが女を知らないとは、考えにくかった。
「わたしも彼に口説かれたから」
「えっ?!」
「ふふん、カリアと結婚する前にね、一度」
エナーリシャの表情を楽しんだ後、マァシルはでも、と付け足した。
「ィエンね、クーリト婆様を『もう三十年若かったら、絶対、求婚してた』なんてからかってたの。その後によ。嬉しくなんかないわ。他の娘にも、そんな調子」
「ふーん」
クーリト婆様とは、年齢不詳だが、とうに百歳は越えたような老女だ。唖なのではないかと思えるほど、普段は言葉を発しない。だが、喋ろうとすると途端に饒舌になる、変わった老婆だった。つかみ所が全く無い。
(口説いたことには変わりない。女たらしめ)
エナーリシャが心中で、そう呟いているのを見透かすように、マァシルは笑った。
「まだ分からない?ィエンは、エナーリシャと居るときだけ、冗談抜きなの。あなたを見るときの目が、一番優しいのよ、ィエンは」
「そんなこと、ないよ」
「いいえ、絶対そうよ。妬けたわー・・・本当言うとね、わたしィエンにちょっと惚れてたから。ま、結局カリアっていう妥当なとこで手を打ったわけだけど。彼、妻はわたし一人でいいって、言ってるし」
「マァシル・・・」
エナーリシャはやや呆れた。
「妥当なところ?それは初耳だな」
(え?)
エナーリシャは、天幕の外から聞こえた声に、振り返った。布を垂れ下げた作りの天幕の端をかき分け、足を踏み入れてきたのは、マァシルの夫、カリアだった。
ィエンと話し込んでいたようだったが、もう済んだのだろうか?
エナーリシャは、マァシルの話に耳を傾けながらも、父の集落の事が気になって仕様がなかったのだ。何か、胸を突く嫌な予感が、拭い切れなかったから。「やだ、カリア。聞いてたの」
「女の軽口は男を殺す、という諺をしらないのか?マァシル」
カリアは、切れ長の青の眼に、苦笑を滲ませながら言う。しかし、その表情は硬かった。
「ところであなた、エナーリシャから聞いたけれど、ハルマさまの天幕は大丈夫かしら。こんな日に火が出るなんて、信じられないけど」
エナーリシャより余程落ち着いた雰囲気の、色白の娘がそう問いかける。
「風が無いんですもの」
エナーリシャの小麦色を除き、外に出ない族の娘は、大抵肌が白い。白いとは言え、健康的な白さであるのだが。女の仕事は天幕の中で、絨毯や食事をつくることである為だ。普通なら、女はパウテに乗るなどもってのほか。エナーリシャは、族長の娘だから大目に見られているに過ぎない。
彼女の目からみても、軽口を叩いていたのを夫に聞かれ、その白い肌を僅かに紅潮させているマァシルは、奇麗だとおもった。
(ィエンも、こういう女が好みに決まってるのに)
ほんの一瞬、奴の顔が浮かんだ。だが、すぐに蹴散らす。こんなくだらないことを考えている場合では、無い。
エナーリシャは、カリアに視線を戻した。
「ィエンはどこ?わたしは早く戻って、父様や皆が安全か、知りたいんだ」
キハルに限らず、砂漠に住まう民は、天幕で寝食を行う。定住地を持たず、水源から水源へ渡り歩く者たちにとっての家である。
時折吹きすさぶ粗い砂の雨を凌ぐため、円形に組み立てた木軸の芯の上に、幾重にも布を垂れ下げるのである。材料は布と木であるため、火も容易く燃え移る。
「本当に、火事だけならいいんだ」
だが、燃え易いとは言え、たためば持ち運びもたやすい住居である。再び作り直すのは、そうむずかしいことではない。エナーリシャが案じているのは、火事のもたらす被害ではなく、人為的な被害のほうであった。
カリアは、彼女の様子を静かにみつめていた。ややあって、告げる。
「いいか、聞け。これは避けられないことだったんだ、エナーリシャ。お前は、長の娘として決断しなければならない。これはお前にしか出来ないことだ」
「何、言ってるの。あなた」
マァシルが、横から口を挟んだ。だが、それに答えはない。
「決断?」
「そうだ。・・・まず、長の集落は、襲われた。恐らくはウナクに。南の岩場にウナクの見張りがいたとなれば、そう考えるのが妥当だろうな」
エナーリシャは眼をこれ以上出来ないというほど大きく見開く。
「長の命は、無いものと考えていた方がいい」
「あなた、なんて事を・・・!」
悲鳴のようにかん高い、妻の声を聞きながらも、カリアはその意志を込めた眉を微かにも動かさなかった。
全ては、これから話すことに、どうエナーリシャが反応するか、だ。
「わかるか、エナーリシャ。ウナクは、南のアムナを滅ぼし、そして次はキハルが危うい」
「う」
衝撃を隠せないように、小麦色の肌をもつ少年のような娘は、呻いた。マァシルなどは、すでに蒼白と言っていい顔色だ。
キハルを総ているのは、齢も五十を迎えようとしているハルマ。彼は老境に差しかかっているとはいえ、老いの陰を微塵も表に見せはせず、まだまだわかわかしい。そのハルマが、エナーリシャにとっては父がいる集落が、よりにもよって襲われるとは。
先程、騎上で遠目に眺めていた父の集落。あの、妙な不安と忌むべき幻影は、現実だったのだ!
「そんな、ばかな」
力無くつぶやく。と、同時に押さえようも無い怒りが込み上げてくる。
「ィエンはわたしを騙したのか」
カリアがこの事を語っているということは、ィエンが話したことに違いはない。ィエンは、はっきりとエナーリシャに言った。
(心配するな、大丈夫)
と。そう確かに言ったではないか。
「エナーリシャ。ィエンがお前のためにやったことだ、奴を責めるな。
お前に無茶な行動をさせないために、やつはあえて嘘をついたんだ。・・・それに、お前は騙されたかったんじゃないのか?」
カリアは、裏の意味を含めて言った。
なぜ、すぐにわかるそんな嘘にだまされたのか、と。時刻は、太陽が真上に登り詰める時。その時、いや今日はと言った方が正確やも知れない。風はなかった。ィエンも語っていた。無風であったと。
風のない場所に、大きな火事など起こりはしまい。
カリアの冷舌を耳にしながらもエナーリシャは、雷に撃たれたように微動だにしない。火事などでないことに気づかぬ訳はないだろう、と彼は言っているのである。
「・・・」
そうなのかも、知れない。集落が灰色の煙を出し、空を不吉に染めていたのを見たとき、彼女はどうしようもなく狼狽した。だが、ィエンの動じない声音に、われにかえったのだ。ィエンが居なければ、あのまま燃え盛る集落に駆けつけていたのは間違いなかった。
「長をウナクが生かしておくはずはない。長がいるか居ないかで、こちらの士気はまるで違ってくるからな。黒き悪魔という悪名も高い。奴らがそれを行使しないとは考えにくい。
・・・キハルはウナクにとって、繁栄を与える絶好の獲物でしかないんだ」
なんて残酷な宣告だろう。この言葉は、カリアであるからこそ言えるのだ。冷静に物事をみつめ、正確な決断を下せる彼だから、こんな、恐れをいや増すような物言いも可能なのだ。
「ウナクは、キハルを食いつぶすだろう。さながら、死肉にたかる禿鷹のようにな。キハルは数のうえから言っても、勝ち目は無い」
ウナクは略奪を繰り返し、着実にその数を増やしている。
「・・・どうしろと?」
エナーリシャは、傷ついた眼をし、呻いた。彼女は、自分を激しく嫌悪していた。常に、である。
「わたしには、何の力もない。それに、まだ子供だ!」
女の身であることで、男の影に隠れていろと戒められること。それにアーレン・シンの死の証し、握りが血で染められた彼の剣を手にしたとき、怒りではなく、限りない脱力感と恐れが生まれたことに、嫌悪感は尽きなかった。
エナーリシャが男のなりをしている理由は、自身が女であることから眼を背けたいから。
いっそ、男であったなら。
何度そう思ったことか。男なら、アーレン・シンの死にウナクを倒すことを誓い、ィエンとも幼馴染みとして屈託なく笑い合う事が出来たはずだ。
「どうしろと・・・いうんだッ」
とても、怖い。誰かをまた失うのが。父が、姉が、部族の者が、悲鳴の中に飲み込まれるのはもう耐えられない。
怒りを覚える前に、畏怖がこみあげることで、エナーリシャは自身が女であることを思い知った。守られるべき女の弱さが現れたようで、その不甲斐なさに歯がみする。
(雄々しいこころが欲しい)
アーレン・シンのような。たとえ死地に赴く時でさえ、笑顔をする強靭な意志が欲しい。
エナーリシャはアーレン・シンを半ば崇拝していた。雄々しい、何物にも怖じけづかない心が、エナーリシャの愛するものである。あの日、日の昇ろうとする砂漠で見つめた背中の持ち主が、彼女の愛した者。
「エナーリシャ、お前は皆を救いたいか」
「ああ」
アーレン・シンに近づくには、自分を殺してでも誇りある振る舞いをすることだ。そう彼女は信じていた。
キハルの民を救う術があるなら、自身の身など禿鷹にくれてやっても構わない。アーレン・シンは褒めてくれるだろうから、おそらくは。
「ウナクの族長は、お前を息子の嫁によこせと言ってきている。和議の証しに、ハルマの未婚の娘を寄越せ、とな」
「何ですって」
今まで、何も言えずに押し黙っていたマァシルが、侮蔑さえ込めてカリアを見やった。
「和議?そんなのウソよ。それじゃあ、まるで・・・」
今までの話の流れからいって、ウナクが勝ちの確かな戦いに、敢えて和議を申し立てるのは考えられない。
勿論、他部族から花嫁として女を貰い受けるのは、ままあることだ。いとこ同士の婚姻を重ねれば、血はいやがうえにも濃くなるからだ。それか、友好の誓いを立てる場合に娘を差し出すことなどはままある。
「キハルに手を出さないかわりに、人質を取るってことじゃない」
「簡単に言えば、そうだ」
咎める視線にも全く動じない夫に、マァシルは助けを求めるようにエナーリシャを凝視した。
カリアが言っているのは、キハルの重んじる誇りに背を向けるものだ。人質をやり蹂躙を逃れるなど、屈辱以外の何物でも無い。
「どうする、エナーリシャ」
カリアは根気強く答えを待つ。エナーリシャが否と言えば、それまでだ。カリアはそれ以上どうしようもない。嫌がるのを無理やりにやって、彼女にウナクで暴れられたら、全て水の泡だ。
屈辱的な申し出だったとしても、それに屈するしかキハルが生き残る道はないのだ。ウナクに目を付けられた外の部族も、多くは和議の証しとして、娘や毎年決められた量の貢ぎ物を支払う。
「わたしが行けば、皆は死なずに済むのか?水無しで砂漠に放られることもないのか」
従わない者に、ウナクは残酷極まりない。水も食料もなしで砂漠に捨て置かれるのはまだ良い方で、手足を切り落とされ、目玉もくりぬかれて、熱砂に置き去りにされた者もいたと言う。
父ハルマは、酒が入ると娘の前でもそんな話をした。それがエナーリシャの恐怖の一端になっているのは否めない。
「無いな」
ただし、ウナクにおとなしく従えばの話。
「いやよ、わたしはいや!ハルマさまの未婚の娘って言ったら、あなたしかいないじゃない。エナーリシャ、ウナクになんて行ったら、どんな目に会わされるか」
確かに、その通りだった。エナーリシャの上には三人の姉がいるが、いづれも結婚している。彼女のすぐ上の姉、カラでさえ、齢二十五で夫もいる。エナーリシャは、ハルマが三十二歳で妻に生ませた末の娘だった。母は、彼女を生むとき亡くなった。
マァシルは既に涙声だった。彼女の荒げた声に赤ん坊が驚いて、火の付いたように泣き出す。
「父様は、何と答えたんだ」
そう問うエナーリシャの声は、存外に落ち着いていた。彼女の心は、もう決まっている。キハルの民を第一に考えて、自身がウナクに行くのが一番いいのだ。
それに、アーレン・シンの息子をこの腕に抱きたいという願いも、もはや叶えられることは無い。それならば、このままキハルでウナクの襲来に怯えるよりも、いっそウナクへ行ってしまった方が余程すっきりする。その上に部族の者の安全が約束されるならば。
彼女の胸につかえていたのは、常に優しかった父のことだ。エナーリシャが産まれたとき、かわりに命を亡くしたハルマの愛妻。本来なら、恨まれようと文句は言えない。だが、父はそんな彼女の思惑などまるで皆無であるように、エナーリシャを娘たちの中で一番可愛がった。
彼がウナクの申し出に、一言でも否と言ってくれていたなら、彼の苦悶の表情がすこしでも見えたというなら、喜んでどこへだって行こう。
「分かっているのに聞きたいのか」
ウナクがキハルを襲ったのは、警告の意味を含んだそれだ。膝を屈しろ、娘を渡せ。そういう申し出に、首を縦に振らなかったから、ウナクはキハルの天幕に火を放ったのだ。
「長は、最後まで是とは言わなかったよ」
どこか痛みでもするような苦い笑いを湛えた男に、頷きをし、彼女は赤子を抱いた娘の方に向き直ると、ためらわずに言った。微笑みすらして。
「マァシル、わたしは行くよ。だが、夫にへつらうような真似は死んでもしない。雄々しい砂の竜は、地にはいつくばって夫の沓を嘗める女を、すぐに見捨てるだろうから」
「エナーリシャ」
マァシルは、涙を拭って彼女を見詰めた。その青い目に、驚きが走る。
エナーリシャは鋭い決意と、何物も踏み込ませない持ち前の気質を今まさに強く際立たせていた。いつもの憂いげな表情は消え、そこには今までその裏に隠れていた彼女の麗しさのみが見える。
「エナーリシャ、あなた・・・」
そんなに奇麗な娘だった?
砂の竜は、エナーリシャのなかでアーレン・シンでさえある。アーレン・シンなら、こんなときこう言うだろう。
「ぼんくらな男なら、寝首をかいてこいよ。帰って来たら俺の天幕にいれてやるから」
そうだ。臆することはない。むしろ自身の身だけで部族の安全が保障されるならば安いもの。
「決まったな。今からウナクに使いをやる。今日中に迎えが来ると思って用意をしておけ。・・・部族の者にはよく言い聞かせておく」
キハルには服従を潔しとせず、あくまでウナクと争おうとするものがいるだろう。カリアには、それが愚かな戦意だとは分かっていても、否定することはできはしない。なぜなら、カリアにもある感情だから。冷静さを装ってはいても、内心ははらわたが煮え繰り返る思いだ。
妻の揶揄を含んだ眼差しにも、無理矢理に目を背けた。
(問題はィエンだな。あいつがエナーリシャを諦めるかどうかだ)
ィエンは、見かけによらず一途だ。アーレン・シンがウナクに旅立ってからというもの、時折アーレンを意識しているような仕草をみせる。左目のみを、何度も瞬く癖。無意識のうちにやっているのだろうが、それを目撃したときカリアは本当にアーレン・シンと真向かっているように思った。驚くほど、似ていたのだ。双子だから似ているのもあたりまえだが。
「ィエンは、そろそろ帰ってくるかな」
エナーリシャ。あの娘を、ィエンが諦めるか否か。彼はエナーリシャの婚約者。アーレンの死に心を閉ざした娘を、辛抱強く待ち続けている男なのである。 エナーリシャをさりげないようでも、大事に扱うィエン。それを承知で、カリアは部族のために彼女をあきらめろと言っているのだ。罪悪感が無い訳はなかった。