日陰の令嬢は、ガラスの城で反逆の種を蒔く。
王立アカデミーの片隅にある『旧大温室』。
蔦に覆われ、ガラスの半分が割れたその場所は、かつて私――リネット・オーウェルが、誰の目も気にせずに息を潜めるためだけの逃げ場所だった。
けれど、クロエ・バーネットという初めての「お友達」ができてから、この場所は少しだけ違う意味を持つようになっていた。
「ん……美味しい。今日のお茶は、少し甘みが強いのね」
放課後。古い木箱の上に座ったクロエが、木製のカップを両手で持ちながら、ほうっと幸せそうに息を吐いた。
銀色の美しい髪が、初夏の夕日を浴びてキラキラと輝いている。彼女は相変わらず学園では「完璧で隙のない伯爵令嬢」を演じているが、この温室にいる時だけは、肩の力が抜け、年相応の柔らかい表情を見せてくれた。
「うん。……今日は、少し頭を使う授業が、多かったから。えっと、糖分と、リラックス効果のある、陽だまり草を多めに……」
私は、自分が座っているベンチの上で、泥だらけの調合ノートを広げながら答えた。
クロエに話しかける時、私はまだ少し言葉に詰まってしまう。けれど、以前のように「間違えたらどうしよう」と極度に怯えることはなくなっていた。彼女は、私のたどたどしい言葉を、決して急かさずに待ってくれるからだ。
「さっすがリネットさん。私の専属薬師に任命したいくらいだわ」
「そ、そんな、私なんて……」
「またそうやって謙遜する。あなたのその泥だらけのノートは、アカデミーの図書室にあるどんな魔導書より価値があるのに」
クロエはふふっと笑い、再びお茶に口をつけた。
私は照れくさくて、足元の土を無意味に靴の先で撫でた。
公開試験での『氷の薔薇』の成功以来、クロエは周囲からの期待にプレッシャーを感じつつも、以前のように押し潰されることはなくなった。
息が詰まりそうになれば、ここへ来て、私がお茶を淹れる。
ただそれだけのことが、彼女にとっての――そして私にとっての、確かな命綱になっていた。
「そういえば、リネットさん。あの鉢の芽、少し大きくなったんじゃない?」
クロエが指差したのは、温室の一番日当たりの良い場所に置かれた、小さな鉢植えだった。
私が実家からこっそり持ち込んだ種の中でも、一際育てるのが難しい『星影草』だ。図鑑によれば、特定の土の配合と、ごく微弱な魔力を帯びた水でしか発芽しないという。私は何度も失敗し、ようやく一つの芽を出すことに成功したのだ。
「うん……。でも、ここからが難しくて。風通しが良くないと、すぐに根腐れしちゃうから……」
「そう。大切に育ててね。私、その花が咲くのを楽しみにしてるから」
クロエが微笑む。
この穏やかな時間が、アカデミーを卒業するまでずっと続くのだと、私は疑っていなかった。
私のような日陰の令嬢でも、この小さなガラスの城の中でなら、ひっそりと呼吸を続けていけるのだと。
その紙切れを見つけたのは、数日後の朝だった。
いつものように植物への水やりのため、誰よりも早く旧大温室を訪れた私は、錆びた鉄の扉の前で立ち尽くした。
扉のど真ん中に、アカデミーの紋章が入った立派な羊皮紙が、太い釘で打ち付けられていたのだ。
『解体工事並びに、新魔法闘技場建設の通達』
そこに書かれていた文字を読んだ瞬間、私の頭から血の気が引いた。
文章を何度も目でなぞる。
老朽化した旧大温室を取り壊し、来月の初めから、魔法実技の訓練に使うための新しい闘技場を建設する。立ち入りは即刻禁止とする――。
「……う、そ」
手からジョウロが滑り落ち、鈍い音を立てて土の上に転がった。水がこぼれ、私の靴を黒く汚した。
取り壊す? ここを?
慌てて扉を押し開け、中に入る。
そこには、私が泥だらけになって耕した土があり、何度も調合を試した古い魔道コンロがあり、クロエが座る木箱があり……そして、不格好ながらも必死に葉を広げている、たくさんの薬草たちがいる。
これら全てが、重機と魔法で瓦礫にされ、踏み躙られてしまうというのだ。
「どう、しよう……っ。どうしよう」
私は震える手で、まだ小さな『星影草』の鉢を抱え上げた。
胸の奥が、ギリギリと締め付けられるように痛い。涙がボロボロと溢れて、鉢の土に落ちた。
誰かに助けを求めなきゃ。先生に、お願いして……。
けれど、そこで私の思考はピタリと停止した。
(……私なんかが、言ったところで)
アカデミーの理事会が決定したことだ。
魔法の才能もなく、家名も高くないオーウェル家の、それも「出来損ないの次女」である私が、「ここには私のお花があるから壊さないでください」と泣きついたところで、誰が聞き入れてくれるだろうか。
「ここは元々立ち入り禁止だったはずだ」「勝手に何をしている」と叱責され、姉のセリアや両親にまで迷惑がかかるのがオチだ。
(……そうだ。元々、ここは私の場所じゃなかったんだから)
諦め。
それは、私が幼い頃から身につけてきた、傷つかないための防衛本能だった。
期待しなければ、失う時に少しだけ痛みが少なくて済む。身の程をわきまえて、ただ静かに頷いて、また別の暗い日陰を探してうずくまればいい。
私は袖で乱暴に涙を拭うと、棚からボロボロの調合ノートを手に取った。
せめて、植物たちを鉢に移して、実家に送り返す手配をしよう。クロエには、もうここでお茶は飲めないことを謝らなくちゃ。
そうやって、心を無にして作業を始めようとした時だった。
「リネットさん!?」
背後から、悲鳴のような声が聞こえた。
振り返ると、息を切らしたクロエが立っていた。彼女は扉に貼られた羊皮紙を握りしめ、目を大きく見開いている。
「ク、クロエさん……ごめんなさい、私……」
「ごめんなさいって、何!? これ、どういうこと!?」
「えっと……取り壊しに、なるみたいで。だから、えっと、鉢植えを移動させないと……」
私が弱々しく笑って見せると、クロエはツカツカと私に歩み寄り、私の両肩をガシッと掴んだ。
「移動させる? 諦めるつもりなの!?」
「だって……理事会の、決定だし。私みたいな、才能もない生徒が反対したって、どうにもならない、よ……」
「ふざけないで!!」
クロエの怒声が、温室のガラスを震わせた。
私はビクッと肩をすくめた。彼女が、こんなに大声で怒るのを見るのは初めてだった。
「リネットさんが才能がない!? 冗談じゃないわ! あなたがここでどれだけの手間をかけて、どれだけの時間と知識を費やして、この子たちを育ててきたか……私が一番よく知ってるわよ!」
クロエの瞳には、私への怒りではなく、理不尽な現実に対する強い怒りの炎が灯っていた。
「ここは、私の……ううん、私たちのオアシスよ。大人の勝手な都合で、あなたの泥だらけの努力を瓦礫の山にさせるもんですか!」
「で、でも……どうすれば」
「決まってるわ。生徒会に直談判よ。来なさい!」
クロエは、私が抱えていた星影草の鉢をそっと棚に戻すと、私の手首を強く握りしめ、ズンズンと温室の外へと歩き出した。
私が「待って」「無理だよ」と戸惑う声も聞かず、完璧な伯爵令嬢は、ヒールの音を高く響かせて本校舎へと向かっていった。
アカデミーの本校舎の三階。
一般の生徒は滅多に立ち入ることのない『生徒会室』の前に、クロエは私を引きずってやってきた。
分厚いマホガニーの扉の前に立つと、クロエは一度だけ深呼吸をして、完璧な令嬢の表情を作り、ノックをした。
「クロエ・バーネットです。副会長はいらっしゃいますか」
「……入ってくれ」
中から、落ち着いた、どこか聞き覚えのある男性の声がした。
扉が開かれる。
陽光がたっぷりと差し込む広い部屋の奥、執務机で書類に目を通していたのは、銀糸の刺繍が入った生徒会役員の制服に身を包んだ、上級生の男子生徒だった。
「エリオット先輩。お忙しいところ申し訳ありません」
クロエが優雅なカーテシーをして見せる。
その後ろに隠れるように立っていた私は、彼を見た瞬間、心臓が跳ね上がった。
エリオット侯爵令息。
姉の元婚約者候補であり、私がかつて実家で、ひどい過労と頭痛に苦しんでいた彼のために『名もなき一杯のお茶』をこっそりと淹れた相手だった。
「バーネット嬢か。珍しいな、君から尋ねてくるとは」
エリオット様はペンを置き、穏やかな微笑みを浮かべた。
彼とは実家のお茶会以来、一度も顔を合わせていない。彼は、私があのお茶を淹れた本人だとは知らないはずだ。
「その後ろにいるのは……確か、オーウェル家の」
「あ……っ、リ、リネット・オーウェル、です。ごきげん、よう……」
私は極度の緊張で噛みそうになりながら、ぎこちないお辞儀をした。
エリオット様は「ああ、セリア嬢の妹君だね」とだけ言い、不快な顔一つせずに頷いてくれた。
「それで、今日は一体何用かな?」
「はい。旧大温室の取り壊しと、闘技場建設の件についてです」
クロエは一歩前に出ると、凛とした声で言った。
「あそこは現在、貴重な薬草やハーブが栽培されている立派な研究施設です。それを一切の調査もなく取り壊すなど、アカデミーの『知の探求を尊ぶ』という理念に反しているのではないでしょうか!」
クロエの堂々たる主張に、私はただオロオロとするばかりだった。
エリオット様は少し困ったように眉を下げ、手元にあった書類をトントンと机で揃えた。
「……やはり、その件か。実は、あの決定には生徒会も少し頭を悩ませていてね」
「と、おっしゃいますと?」
「今年から、王宮騎士団の入団要件に『高度な魔法戦闘技術』が追加されたんだ。それを受けて、理事会は実戦訓練の場を増やすことに躍起になっている。旧大温室の場所は、風水的な魔力効率が最も良いらしくてね」
エリオット様はため息をついた。
「もちろん、勝手に使われていないからといって、歴史ある温室を壊すのには私個人としても反対だ。しかし、理事会を説得するには『あそこを残さなければならない明確な理由』が必要になる」
「理由なら、先ほど申し上げましたわ! あそこには、リネットさんが大切に育てた……!」
「バーネット嬢」
エリオット様は、クロエの言葉を静かに、けれど強い響きで遮った。
「厳しいことを言うようだが、『一人の生徒が趣味で植物を育てている』という理由だけでは、理事会は動かせない。彼らを納得させるには、『闘技場を建てるよりも、あの温室を残した方がアカデミーの利益になる』という、客観的で学術的な『価値』の証明が必要なんだ」
「それは……」
クロエが、悔しそうに唇を噛む。
学術的な価値。そんなもの、あるわけがない。私が育てているのは、そこら辺の図鑑に載っているような、地味でありふれた薬草ばかりなのだから。
やっぱり、駄目だ。
私なんかが、何かを望んじゃいけなかったんだ。
私は、クロエの袖をそっと引っ張った。
「……クロエさん、もう、いいよ。……ありがとう。私のために、怒ってくれて」
消え入りそうな声で呟いた。
しかし。エリオット様が、ふと立ち上がり、私の前にやってきた。
彼は少し身をかがめ、私の目線に高さを合わせると、不思議そうな顔で私の鼻先を見た。
「……ん? オーウェル嬢」
「は、はいっ」
「君……どこかで、とても良い匂いがするな」
エリオット様の言葉に、私は首を傾げた。
彼は、私の制服のポケット辺りをじっと見つめている。
そこには、今朝、温室で作業していた時に入れたままにしていた、ある植物の葉があった。
「あ、えっと……これ、でしょうか」
私はポケットから、少し乾燥しかけた葉を取り出した。
それは、クロエに淹れたお茶にも少し混ぜていた『陽だまり草』の変異種――私が何度も土の配合を間違え、それでも諦めずに育てた結果、香りが何倍にも強くなった葉だった。
エリオット様はそれを受け取ると、鼻に近づけ、ハッと息を呑んだ。
「この香り……! 間違いない。以前、私が過労で倒れそうになった時、君の実家の厨房の者が作ってくれたという、あの奇跡のようなお茶の香りだ!」
エリオット様の声が、驚きで大きくなる。
しまった、と思った。
姉ではなく、日陰者の私が関わっていたと知れたら、せっかくの美しい思い出が穢れてしまうかもしれないのに。
「あ、あの、それは……っ!」
「オーウェル嬢。いや、リネット嬢」
エリオット様は、私の両肩をガシッと掴んだ。
その瞳は、理事会や闘技場の問題など忘れたかのように、ただ純粋な驚愕と熱を帯びていた。
「もしかして、あの時私を救ってくれたお茶を淹れたのは……君なのか?」
私は逃げ場を失い、クロエをチラリと見た。
クロエは「ほら、言いなさい」とばかりに力強く頷いている。
私は、観念して、目をギュッと瞑りながら、小さく、けれどはっきりと頷いた。
「は、はい……。私が、あの温室で育てた葉で……淹れました」
静かな生徒会室に、私の声が落ちた。
エリオット様はしばらく絶句した後。
「そうか……」と、心底安堵したような、とても嬉しそうな吐息を漏らした。
「ずっと、探していたんだ。私を救ってくれた、名もなき薬師を」
「え……」
「リネット嬢。先ほど、学術的な価値が必要だと言ったね。……もしかすると、君が育てているその植物たちには、君自身も気づいていない、とんでもない価値があるのかもしれない」
エリオット様が、力強い瞳で私を見た。
「闘技場建設の最終決定が下される理事会は、三日後だ。……私とバーネット嬢で場を整える。君の育てた植物たちの価値を、理事会で証明してみないか?」
「わ、私が、理事会で……!?」
「あなたのオアシスを、瓦礫にされたいの?」
クロエが、私の背中をドンと押した。
三日後。大勢の大人たちの前で、口下手の私が、プレゼンをする?
絶対に無理だ。足がすくむ。逃げ出したい。
けれど、私の脳裏に浮かんだのは、温室で芽吹いた『星影草』の小さな緑色と、そこで不器用に笑い合うクロエとの穏やかな時間だった。
逃げたら、あれは永遠に土の下だ。
私は、ギュッと拳を握りしめ、震える声で答えた。
「……やります。私に、やらせて、ください」
こうして、日陰の令嬢である私の、最初で最後の、小さな反逆が幕を開けたのだった。
旧大温室の取り壊しを決める理事会まで、残り二日。
放課後の生徒会室は、さながら野戦病院か、徹夜の戦術会議室のような有様になっていた。
「駄目ね。この書類の書き方じゃ、ただの『お花好きの令嬢の観察日記』にしかならないわ。エリオット先輩、第二項の効能証明のところ、もっと専門的な魔導薬学の用語に書き換えられません?」
「ああ、やろう。……それにしても、リネット嬢のこのノートは本当に驚きだ。失敗した時の土の配合比率まで、克明に記録されている」
大きな執務机の上には、私が持ち込んだボロボロの調合ノート数冊と、分厚い植物図鑑、そして羊皮紙が散乱している。
クロエとエリオット様は、私の拙い字で書かれたノートの記録を、理事会の大人たちを納得させるための『学術的な報告書』へと翻訳する作業を、手分けして手伝ってくれていた。
「あ、あの……お二人とも、ごめんなさい。私、こういう難しい文章、全然書けなくて……」
「謝らないで。あなたは当日、大人たちの前でハーブの説明をするっていう一番大変な役目があるんだから」
クロエがペンを走らせながら、キッパリと言った。
「理事会の連中を黙らせるには、あなた自身が『ただの世話係』ではなく『高度な知識を持った研究者』であることを示さなきゃいけない。だから、絶対に逃げちゃ駄目よ」
はい、と私は小さく頷いた。
しかし、心臓は嫌な音を立てて早鐘を打ち続けている。
大勢の大人たちの前で話すなんて、想像しただけで胃が痛くなる。姉のセリアなら、優雅な微笑み一つで場を掌握してしまうのだろうけれど、私にはそんな魔法は使えない。
「リネット嬢」
不意に、エリオット様がペンを置き、真剣な眼差しで私を見た。
「君のノートを読んでいて、一つ気になったことがあるんだが。……君、あの温室で『星影草』の栽培に成功しているのか?」
「えっ? あ、はい……まだ小さな芽が出たばかりで、花は咲いていませんけれど」
「信じられないな……」
エリオット様は、信じられないものを見るような顔で、額を押さえた。
「星影草は、特殊な魔力波長を帯びた水と、極めて繊細な温度管理が必要なはずだ。高名な魔導植物学者でも、人工栽培は不可能だと言われている。それを、どうやって?」
「どうやって、と言われても……」
私は首を傾げた。
「特別な魔法は使っていません。ただ、魔力を含んだ水を弾いてしまう性質があるみたいだったので、川砂を多めにして水はけを良くして……あとは、私の微弱な火魔法で作った種火を足元に置いて、一日の寒暖差を自然環境に近づけただけで」
「……」
「やっぱり、泥臭いやり方で、お恥ずかしいですよね……」
私がうつむくと、エリオット様はふっと息を吐き、そして、ひどく楽しそうに笑い出した。
「いや。素晴らしい。最高だ」
「えっ?」
「魔法で環境を『支配』するのではなく、植物が本来持つ生命力に合わせて環境を『調和』させる……それは、現代の魔法偏重の農学が失ってしまった、極めて原始的で、最も理想的な栽培法だ。君はそれを、誰に教わるでもなく、失敗の繰り返しの中から見つけ出したんだな」
エリオット様の言葉に、クロエも「ふふっ」と誇らしげに胸を張った。
「言ったでしょう? リネットさんはすごいんです。……エリオット先輩、切り札が決まりましたね」
「ああ。聞く所によると、現学長の個人的な感情では温室の取り壊しは反対らしい。彼の考えを後押しできれば、勝機は十分にあるだろう」
二人の瞳が、闘志に燃えていた。
私は、自分の手の中にある泥だらけのノートを強く抱きしめた。
私のやってきたことは、無駄じゃなかった。
あとは、私自身が、大人たちの前でそれを証明するだけだ。
そして迎えた、理事会の当日。
本校舎の最上階にある会議室は、重厚な絨毯が敷かれ、長大な円卓の周りには、厳格な顔つきをした初老の理事たちがズラリと並んでいた。
「……それで? 生徒会から『旧大温室の取り壊しに異議がある』と申し出があったと聞いたが」
議長を務める恰幅の良い侯爵が、不機嫌そうに口を開いた。
「新しい闘技場の建設は急務だぞ」と、他の理事たちも口々に同調する。
生徒会役員であるエリオット様が、円卓の前に立ち、静かに一礼した。
「ええ。闘技場の必要性は理解しております。しかし、あの旧大温室は現在、極めて希少な魔導植物の栽培と、失伝した農法の研究施設として稼働しています。これを調査もせずに破壊することは、我がアカデミーにとって大きな損失です」
「研究施設だと? 誰がそんな場所で研究をしているというのだ」
議長の問いに、エリオット様は振り返り、扉の陰で震えていた私に視線を送った。
私は、心臓が口から飛び出しそうなほど緊張しながら、クロエに背中をドンと押され、円卓の前へと歩み出た。
「お、オーウェル男爵家、次女……リネット・オーウェル、です」
蚊の鳴くような声だった。
理事たちの視線が一斉に私に突き刺さる。「オーウェル家?」「あの、優秀なセリア嬢の妹か」「いや、彼女は魔法の才能が全く無いと聞いているが」といったヒソヒソ声が聞こえてくる。
「男爵令嬢。君が、あそこで何をしていると?」
「わ、私は……っ」
声が震える。頭の中が真っ白になる。
怖い。こんな大勢の、立派な大人たちの前で、私なんかが喋っていいはずがない。やっぱり逃げ出したい。
うつむきかけた私の視界の端で、クロエが祈るように両手を組んでいるのが見えた。エリオット様も、ただ静かに私を信じて待ってくれている。
私の後ろには、二人がいる。
そして私の胸の中には、あの温室で静かに芽吹いた、緑色の命がある。
私は、ギュッと拳を握りしめ、顔を上げた。
「私は……あそこで、植物を、育てています。魔法は、使えません。でも……魔法を使わなくても、植物は、育ちます」
「馬鹿馬鹿しい! 魔法を使わずに草を育てるなど、ただの農作業ではないか。闘技場計画を白紙にする理由にはならん!」
一人の理事が机を叩いて声を荒らげた。
しかし、私は引き下がらなかった。持ってきていた小さな鉢植えを、円卓の中心にドンと置いた。
「これを見て、ください」
「なんだ、ただの雑草……」
「待て」
理事たちの嘲笑を遮ったのは、円卓の端に座っていた、白髭の老教授だった。植物学部の権威として知られる人物──現学長だ。
彼は立ち上がると、懐からルーペを取り出し、鉢植えの小さな芽を食い入るように見つめた。
「……馬鹿な。これは、星影草の幼苗ではないか? いや、しかし……周囲の土から魔力の残留反応が全く検知されん。純粋な自然の土壌だけで、これを直根させたというのか!?」
老教授の驚愕の声に、会議室がざわめいた。
私は、少しだけ声の震えを抑えて、言葉を続けた。
「は、はい。魔力水を与えると、根が呼吸できなくなる性質があったので……川砂と、腐葉土を三対七で混ぜて、根元の水はけを良くしました。それに、一日の寒暖差を作るために、夜間だけ微弱な火魔法を遠くに置いて……」
私は、ノートに書き溜めてきた失敗の記録を、一つ一つ読み上げていった。
最初はたどたどしかった私の言葉は、植物のことになると、不思議とスラスラと口から出てきた。
カモミールに似た陽だまり草の変異条件。苦ミントの毒性を抜く乾燥のタイミング。
私が、あの温室で泥だらけになって繰り返してきた、愛おしい時間のこと。
「……これらは、私が、何度も失敗して、記録したノートです。もし、温室を壊すなら……この子たちは、どうなってしまうんでしょうか。環境が変われば、枯れてしまいます」
私は、真っ黒になったノートの束を机に置き、議長たちを真っ直ぐに見据えた。
「私には、魔法の才能はありません。……でも、この子たちには、価値があります。誰かの胃の痛みを治して、誰かの緊張を和らげて……夜の温室で、静かに光ってくれるんです。だから、どうか……壊さないでください!」
最後は、ほとんど叫ぶようになっていた。
静まり返った会議室。
誰も何も言わない。私の身の程知らずな言葉に、全員が呆れているのかもしれない。
しかし、沈黙を破ったのは、あの老教授の震える声だった。
「……素晴らしい」
老教授は、私のノートを震える手でめくりながら、ポロポロと涙を流していた。
「魔法に頼り切り、自然の摂理を忘れかけていた我々が、百年かけて失った『自然調和栽培』の基礎データが……この泥だらけのノートに、全て詰まっておる。……議長。これを破壊するなど、学者の名折れです。あの温室は、我が植物学部が責任を持って保護・管理すべきだ」
「なっ、教授……しかし闘技場が……」
「闘技場など、森の反対側を開拓すればよか ろう。この土壌バランスは、あの場所で、この令嬢の献身がなければ完成しなかった奇跡だ」
老教授の熱弁に、エリオット様がすかさず「生徒会としても、植物学部の研究施設としての温室の存続を強く支持します」と追い打ちをかけた。
議長たちは顔を見合わせ、やがて、渋々と、しかし確かな納得の表情で頷いたのだった。
理事会が終わった後。
会議室を出た廊下で、私はついに膝の力が抜けて、ぺたんと座り込んでしまった。
「リネットさん!」
「よくやったな、リネット嬢」
クロエが駆け寄ってきて私を抱き起こしてくれた。
「私……変なこと、言ってませんでしたか。ちゃんと、伝わったかな……」
「ええ、完璧だったわ! あの頑固な理事会連中を言いくるめるなんて、あなたにしかできない魔法よ!」
クロエが、私の手を握って自分のことのように喜んでくれている。
温室の沙汰については、少しして通達があった。
温室は存続。
闘技場は別の場所に建設されることになった。
そして。
「理事会の決定は覆った。旧大温室は『植物学部特別研究分室』として正式に学園に登録される。……そして、君はその研究主任として、引き続きあの場所の管理を任されることになったよ」
「私が……研究主任?」
「ああ。君の居場所は、君自身が、君の力で守り抜いたんだ」
その言葉を聞いて、私の目から再び涙が溢れ出した。
今度の涙は、諦めや情けなさの涙じゃない。嬉しくて、誇らしくて、胸がいっぱいになる涙だった。
数日後。
旧大温室の入り口には、『植物学部特別研究分室・原則、関係者以外立入禁止』という新しい真新しいプレートが掛けられた。
「立入禁止」の文字の下には、小さく「ただし、お茶を飲みたい者は静かに入ること」と、クロエが勝手に書き足していた。
「ふふっ……クロエさん、これじゃあ意味がないわ」
「いいのよ。ここは私たちの秘密のオアシスなんだから」
温室の中では、修繕されたガラス窓から初夏の陽光がたっぷりと降り注ぎ、薬草たちが嬉しそうに葉を広げている。
私はいつものように魔道コンロでお湯を沸かし、エリオット様が持ってきてくれた新しい茶葉と、私が育てた『陽だまり草』をブレンドした。
カチャリと、三つのカップが小さな音を立てる。
私は日陰の令嬢だ。
大輪の薔薇にはなれないし、これからもきっと、誰かと話す時には少しどもってしまうだろう。
けれど、もううつむくことはない。
私には、泥だらけのノートと、優しい香りのお茶と、大切な人たちが待つ『私の場所』があるのだから。
温室の真ん中で、私が守り抜いた星影草が、小さな、けれど確かな光を放つような青い蕾を、今まさに開こうとしていた。




