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灯りの消えた台所で

作者: あーちゃん
掲載日:2026/06/04

親子は、近すぎる。


だからこそ、言えない言葉がある。


「ありがとう」

「ごめん」

「愛してる」


どれも簡単な言葉なのに、一番近くにいる相手には、なぜかうまく伝えられない。


この物語は、そんな不器用な親子の話です。


もし今、隣に大切な人がいるなら。

読み終わったあと、少しだけ優しくなれますように。

十二月の朝は、痛いほど寒かった。


 ストーブのない台所で、母さんはいつものように卵焼きを焼いていた。


「悠斗、遅刻するよ」


「……わかってる」


 俺はスマホから目を離さずに答えた。


 母さんの弁当は、昔から変わらない。焦げ目のついた卵焼き、冷凍食品の唐揚げ、無理やり詰め込まれたブロッコリー。


 クラスのやつらみたいな洒落た弁当じゃない。


「今日の弁当、いらない」


 母さんの手が止まった。


「え?」


「購買で食うから」


「でも、お金――」


「別にいいって」


 わざと強い口調で言った。


 本当は違う。


 ただ、クラスメイトに“母親の手作り弁当”を見られるのが嫌だった。


 母子家庭。


 貧乏。


 古い制服。


 そういうもの全部を見透かされる気がした。


 母さんは少しだけ笑って、「そっか」と言った。


 その笑顔が、妙に疲れて見えた。


 けれど俺は、気づかないふりをした。


    ◇


 その日の夜、母さんは帰ってこなかった。


 代わりに知らない番号から電話が来た。


『朝比奈真紀さんの息子さんですか?』


 病院だった。


 過労による意識障害。


 倒れたらしい。


 病院へ向かう道で、俺はずっと舌打ちしていた。


「……なんだよ、それ」


 意味がわからなかった。


 母さんはいつだって平気そうに笑っていた。


 疲れた顔なんて見せなかった。


 病室で見た母さんは、小さかった。


 酸素マスクをつけて眠る姿は、別人みたいだった。


「過労と栄養不足ですね」


 医師が淡々と言った。


「かなり無理をされていたようです」


 無理?


 そんなの知らない。


 俺は何も聞いてない。


 聞こうともしなかった。


 病室の椅子に座り、俺は初めて、母さんの手を見た。


 荒れていた。


 切り傷だらけだった。


 こんな手、いつからしてたんだ。


    ◇


 母さんが入院してから、一週間。


 俺は初めて家事をした。


 洗濯機の使い方も、米の炊き方も知らなかった。


 台所は静かだった。


 あの「おかえり」がないだけで、家ってこんなに冷えるのかと思った。


 冷蔵庫を開けたとき、小さな付箋を見つけた。


『悠斗へ

ハンバーグ温めるだけで食べられます』


 涙が出そうになって、俺はすぐ閉じた。


「……うざ」


 誰もいない部屋で呟く。


 でも声は震えていた。


 押し入れを探していたとき、古いノートが見つかった。


 表紙には『悠斗ごはん』と書かれていた。


 開くと、びっしり料理のメモ。


『熱がある日は雑炊』

『テスト前はカツ丼』

『元気ない日は甘い卵焼き』


 全部、俺のためだった。


 ページの最後に、小さな文字があった。


『今日もちゃんと食べてくれてよかった』


 胸が苦しくなった。


 なんでこんなの、今さら見つけるんだ。


    ◇


「お前さ、ちゃんと寝てる?」


 学校で莉乃に言われた。


「顔やばいけど」


「別に」


「別に、じゃないでしょ」


 莉乃は無理やり俺の前に牛乳パンを置いた。


「食べな」


「いらねえ」


「いいから」


 仕方なく食べる。


 少し甘かった。


「……母親、入院したんだって?」


 俺は黙った。


「大丈夫?」


 その言葉に、急に腹が立った。


「大丈夫なわけねえだろ」


 教室が静かになる。


 莉乃は何も言わなかった。


 俺は続けた。


「俺、何も知らなかった。母親がどれだけ働いてたかも、どれだけ無理してたかも」


 声が掠れる。


「なのに俺、ずっと文句ばっか言ってた」


 莉乃は少しだけ笑った。


「じゃあ、今から返せばいいじゃん」


「……え?」


「後悔って、生きてるうちしかできないよ」


 その言葉が、頭から離れなかった。


    ◇


 病院の帰り道。


 売店で、母さんが好きだったプリンを買った。


 病室に入ると、母さんは起きていた。


「あ、悠斗」


 弱々しい声だった。


「……プリン」


「え?」


「好きだろ」


 母さんは目を丸くして、それから笑った。


 泣きそうなくらい、優しい笑顔だった。


「ありがと」


 俺は椅子に座ったまま、しばらく黙っていた。


 言わなきゃいけないことがあった。


 でも喉につかえて出てこない。


 母さんは窓の外を見ながら言った。


「ごめんねぇ」


「……何が」


「悠斗に、いっぱい我慢させたから」


 違う。


 謝るのは俺だ。


「俺……」


 声が震えた。


「俺、弁当とか、嫌とか言って、ごめん」


 母さんは驚いた顔をした。


「……そんなの、覚えてないよ」


 嘘だ。


 絶対覚えてる。


 でも母さんは、俺が傷つかないように笑っていた。


「母さん」


「ん?」


「……ありがと」


 その瞬間、母さんの目から涙が落ちた。


 俺は初めて、母さんが泣くところを見た。


    ◇


 退院の日。


 冬の空は少しだけ晴れていた。


 母さんは前より痩せて見えたけど、ちゃんと歩いていた。


「ただいま」


 その言葉で、家に灯りが戻った気がした。


 台所に立とうとする母さんを、俺は止めた。


「今日、俺が作る」


「えぇ?」


「レシピノート見たから」


「……見たの?」


「悪いかよ」


 母さんは笑った。


 俺は不格好な卵焼きを作った。


 焦げて、形も崩れていた。


 一口食べた母さんは、泣きながら笑った。


「おいしい」


 たぶん、嘘だった。


 でも、その嘘はあったかかった。


 外は寒いままだった。


 それでも、あの日の台所には確かに灯りがあった。

親は、子どものために多くを隠します。


苦しさも、孤独も、不安も。


そして子どもは、守られていることに気づかないまま、大人になっていきます。


この物語の悠斗のように、「もっと早く気づけばよかった」と思う瞬間は、きっと誰にでもあります。


だからこそ、伝えられるうちに伝えてほしい。


「ありがとう」と。


その一言だけで、救われる人がいるのだと思います。

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