第8話:深夜のプレゼン、冷えた指先
お読みいただきありがとうございます。
仕事のトラブルという「現実」の中で、瀬尾のメッセージが志保にどう響くのか。
孤独な戦いの中に、一つの光が差し込む回です。
「……信じられない」
深夜二十二時。オフィスのデスクで、私は頭を抱えていた。
明朝に控えた大型コンペの最終資料。土壇場でクライアント側から無理難題な変更要求が入り、チームは蜂の巣をつついたような騒ぎになっていた。
「一ノ瀬さん、このままじゃ間に合いません。データの差し替えだけで、あと三時間は……」
「宇佐美君、弱音を吐かないで。私が構成を組み直すから、あなたはグラフを。……やるわよ」
指示を飛ばす声は、自分でも驚くほど冷たく響く。
部下たちに絶望を見せるわけにはいかない。私は「鉄の女」として、この難局を乗り越えなければならないのだから。
カチカチとマウスをクリックする音が、無人のフロアに虚しく響く。
エアコンの風が、指先を容赦なく冷やしていく。
集中しようとすればするほど、昨夜ルミエールで感じたあの穏やかな熱が、遠い幻のように思えてきた。
(……あそこは、私の現実じゃない)
所詮、私はこうして一人で戦い、数字と成果だけを抱えて生きていく人間なのだ。
不意に、机の上に置いていたスマートフォンが、微かな振動と共に光った。
『まだ、会社の明かりがついているのが見えました』
瀬尾さんからの、短いメッセージ。
マンションの自室から、私のオフィスの入るビルが見えるのだろうか。
続いて、小さな写真が送られてきた。
そこには、小さな花瓶に生けられた、鮮やかなオレンジ色のガーベラが写っていた。
『ガーベラの花言葉は、「常に前進」です。でも、無理はしないでください。志保さんが頑張っているのは、僕が知っていますから』
その瞬間、冷え切っていた指先に、じわりと血が通うような感覚があった。
誰も見ていないと思っていた。
私の戦いも、孤独も、ただの「当然の義務」だと思われていた。
けれど、窓の向こうの暗闇の中に、私の奮闘を肯定してくれる人が、たった一人だけいる。
「……一ノ瀬さん、どうかしましたか?」
「……何でもないわ。宇佐美君、あと少し。一気に仕上げるわよ」
私はスマホを伏せ、再び画面に向き直った。
けれど、唇には、自分でも気づかないほどの小さな微笑みが浮かんでいた。
第8話、いかがでしたでしょうか。
物理的にそばにいなくても、心に寄り添う瀬尾。
大人の恋は、こういった静かな支え合いが心に沁みますね。
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