馬鹿の考え休むに似たり
小説という言葉は大説の反対語として生まれた。大説─孔子などの伝統的な、やたらと小難しく当たり前のことと時代錯誤なことが混じって書かれている本より価値が低いとされたことから、小説は小説と呼ばれるようになった。
ならばライトノベルはさしずめ少々説という訳の分からないことになってしまう。小説すら小難しく感じられる世の中では現代風な─老人から見ればさらに劣化した文章が必要とされたからだ。そんな老人達もかつては小説を読み耽った若者であった時があるかもしれない。
そんなライトノベルも中年の物になって久しい─90年代や00年代に一世を風靡したラノベを読んだ若者が年を食ったからだ。彼らがさらに老いて文字を読みにくくなればその規模は縮小するかもしれない。だが、十数年前から彼らはより単純で、より頭を使わない物を読むようになった。社会に滅多打ちにされた脳がストレスを受け付けないからである。つまりラノベはジャンクフードのようなもので、早く、安く、美味いが、そこには高尚な味わいも和やかな時間も存在しない。なぜならそんな余裕はないからである。
だが、それは鬱屈した社会人にとっては良いかもしれないが、小説を見に来た人間にとっては物足りない。現状はそれを前提として成り立っている。物語は苦難を原則として必要とするが、メインの消費者にとって苦難は現実で十分だからだ。




