縄文時代の思想
昨日と同じく、朝の6時ごろに目を覚ます。日の出まであと1時間ほどの猶予があった。今朝は、定番のラーメンを食べない。あまり腹が空いていないこともあるけれど、唐人駄場遺跡に早めに到着したかったから。遺跡はキャンプ場の近くにあるとはいえ、少々の山登りをするかもしれない。また見学した後も、昨日ほどではないにせよ、かなりの距離を走る予定だった。ジッとしていられない。
テントから抜け出した。外はまだ真っ暗。広場の東の方角が黒からオレンジ色に染まり始めている。その真下に黒い森があり、手前には建物があった。夜に到着した時には分からなかったけれど、牧場があるらしい。建物の窓が白く発光していた。朝早くから馬の世話をしているのだろう。真っ黒な空と真っ黒な大地の間にオレンジ色の光の帯が棚引いていて、建物からは等間隔に並んだ白い窓が見えている。そのコントラストが美しいと感じた。僕のスマホで撮り切れるか心配だが、パチリと写真を撮る。早速に確認した。良い画が撮れたと思う。
周りを見回すと、朝早くから焚火を楽しんでいるテントが一つだけあった。他はまだひっそりと寝静まっている。起こさないように配慮をしながらテントを仕舞いパッキングを終えた。相棒のスーパーカブが停まっている駐車場まで、荷物を抱えて二往復する。お仲間の50ccのスーパーカブの主は、まだ就寝中だった。スーパーカブ談義でも出来れば面白かろうと思うが、仕方がない。相棒に跨り、出発した。
駐車場から唐人駄場遺跡の入り口までは、200m程しかなかった。まだ暗いので、入り口横にある遺跡を解説した看板が読み難い。唐人駄場遺跡の唐人とは異人のことで、駄場とは平らな場所を意味する。この遺跡は、巨人である唐人が巨大な岩石を積み上げた祭祀場と考えられていたようだ。この遺跡からは、今から5,000年前の縄文土器や石器が多数出土している。それなのにあまり有名ではない。ネットで検索してみても、わずかな情報しかアップされていなかった。
スーパーカブを停めて、ナップザックだけを背負い、登山口から登り始める。巨大な岩石の一群が見え始めた。地面に並べられているのではなく、確かに積み上げられていた。場所によっては、微妙な配置で洞窟のようになった場所もある。僕の背丈よりも大きな岩石が左右に林立している細い回廊を抜けていくと、その先に木製の階段が設置されていた。そこを登ると千畳敷石と命名された岩の上に登ることが出来る。まっ平らな大きな岩石で、まるで舞台のようだった。前方には渺茫とした太平洋が見える。後方には、巨人のような岩石が横一列に並び、僕と同じように太平洋を望んでいた。一際大きな岩には、唐人岩と名前が付けられている。暫くの間、岩の巨人と一緒に僕も太平洋を眺めた。一つだけ残念だったのは、太平洋は見えるけれど、位置的に山に遮られていて日の出は見ることが出来なかった。
今から5,000年前について考えてみる。当時は今よりも温暖で、海面は高かったそうだ。とすると、この足摺半島は、四国から切り離され島だったことになる。この唐人駄場遺跡の周辺は今でこそ山の上だが、当時は海岸線が近かったのだろう。この巨石群が自然発生的に誕生したとは考えにくい。明らかに一か所に集められている。周辺にはサークル状に配置された岩もあり、祭祀場だったことが類推できる。
――当時の縄文人がこれらの巨大な岩石を積み上げたのだろうか?
人力では到底持ち上げられない岩だが、そうだとした考えられない。時代は違うが、古墳時代においても巨大な岩石は古墳の石室を建造するために必要だった。奈良県明日香村にある石舞台古墳を訪れたことがある方なら想像できると思うが、巨大な岩で作られた石室が剥き出しになっている。この大きな巨石をどのようにして積み上げたのかは、未だに分かっていない。
ところで縄文時代は一万年以上も続いた。あまりにも長いので時代を6分割してそれぞれの時代が解説されているが、大きな節目として7300年前の喜界カルデラ大噴火がある。九州の南に浮かぶ喜界島で、過去1万年の中で世界最大規模の噴火だったそうだ。その影響力は凄まじく、九州はおろか西日本全域において壊滅的な被害を及ぼした。以前に、福井県三方湖にある福井県年縞博物館に訪れたことがある。喜界カルデラ大噴火の火山灰が、遠く離れた日本海側にも堆積していた痕跡を見せてもらった。とんでもない爆発力である。九州及び四国の太平洋に面した海岸線は、人間はおろか全ての動植物が被害を被り壊滅したに違いない。
そのような大噴火から2,000年ほどが経過したころに、この唐人駄場遺跡が誕生する。当時の縄文人が喜界カルデラ大噴火の記憶を子孫に残していたのかは分からない。でもこれだけの祭祀場を用意できたということは、大自然に対する畏敬の念があり、それ相応の思想や技術の発展があったはずだ。同じ時代には、青森県の三内丸山遺跡が有名だし、新潟県の縄文遺跡からは火焔型土器が発掘されている。温暖化の影響から、日本各地で縄文人の文明がアップデートされた事実は非常に面白い。ここ唐人駄場遺跡も例外ではなかったのだ。
僕は将来的に聖徳太子の物語を描きたいと考えている。古墳時代に伝来した仏教的な思想が引き起こしたカルチャーショックに興味があるからだ。この仏教的な思想を理解する為には、古墳時代に信じられてきた思想を調べる必要があった。残された資料として古事記や日本書紀がある。古代史を調べていくうちに、弥生時代や縄文時代にも興味を持ち始めた。というか思想は、時代の変化に応じて形を変えていくものなので、この流れを知ることはとても重要なのだ。
縄文時代的な思想を端的に表現すると、循環になる。そのモチーフとして、古代の山岳信仰があった。因みに、飛鳥時代にも修験道的な山岳信仰が役行者によって誕生するが、両者は全く関係性がない。そもそも思想的な構造が違う。縄文時代的な山岳信仰は、山そのものを遠くから崇める信仰で遥拝。対して修験道は、登拝という。修験道にとって、山に登ることは修行を意味していた。
日本海沿岸には古い民話が残されていて、そこから縄文時代的な思想が読み取れる。それによると山の上には女神が住んでいるそうだ。山は死して赴くところであり、万物が誕生する場所と考えられていた。山からは水が流れ落ちてくるし、獣が住んでいるし、木々も生えている。縄文人にとって、山は神聖な場所であり、恵みをもたらす母性的な存在として考えられていたようだ。
縄文人の生活の場は海岸になる。船を操り、日常的な食料は漁撈に頼っていた。山の神が女神なのに対して、海の神は男神になる。両者は対になっており、生死を繰り返しながら人々は海と山とを交互に循環すると考えられていた。また、現代のように人間の存在が特別視されてはいない。人間はこの世界に住まわせてもらっており、生きていることを感謝する行為として祭祀があった。また具体的な行為として供養が行われる。
縄文時代においては、明日という概念がなかった。というか深刻に考える必要が無かった。重要なのは今というこの瞬間を生き切ることで、個人よりも一族が存続することが優先される。具体的には、所有するという概念がなく、食料は全て一族の皆でシェアされた。対して農耕文化が始まると、その思想が全く変わる。
弥生時代を始めとする農耕文化は、一年間というスパンを管理して農耕を行った。春に蒔いた種は、秋に実る。行為と結果の間には、半年という時間的な経過を待たなければならなかった。また、増加した人口を維持するためには、未来の枯渇に備えなければならない。ここから貯蓄という保険的な行為が発生する。整理すると、人類は農耕によって時間的概念を獲得し、そこから所有という概念を誕生させた。この所有という概念は、現代まで続く呪いのような概念だと、僕は考えている。人間の幸福感に大きく影響を及ぼした。解説を始めてしまうと、終わらない。割愛する。
人類の歴史は、たかだか数千年で地球そのものを破壊しかねないくらいに発展した。ところが、縄文時代は、氷河期を乗り越えつつ一万年以上も続いた。単純に比較することは出来ないし、縄文時代の方が良かったと単純に言うつもりもない。ただ、縄文時代に学ぶべき生き方はある。その縄文時代を象徴する思想が循環になる。この縄文時代と比較して、現代を一言で言い表すとしたら「消費」ではないだろうか。お金や食料だけでなく、仲間や愛情も「消費」と考えるのなら、少し寂しい気がする。
唐人駄場遺跡を後にした。森の中を下っていく。非常に考えさせられる場所だった。着て本当に良かった。元々の計画では、今頃は足摺岬で日の出を見た後で、既に出発している。1時間以上の遅れが生じてしまった。急がなければならない。スーパーカブを走らせた。




