帰りたい
正月の朝の今治市街地は、ガランとしていた。人が歩く姿は見当たらないし、自動車の走行もまばら。国道196号線を南下すると、国道11号線にぶつかる。東に折れて真っすぐ進むと高松に行くことが出来た。残りの距離は150km。5時間もあれば到着するだろう。これまで、昼となく夜となくずっと走り続けてきた。このまま走り続けると、昼過ぎには高松に到着できる。四国一周の旅の大詰めに差し掛かっていた。ただ、問題を一つ先送りしている。オイルを手に入れなければならない。僕のスーパーカブは、いまは走っている。でも、直ぐにでも焼き付けを起すかもしれない。
国道沿いにコンビニエンスストアを見つけた。正月から営業していることに頭が下がる。今朝はまだ食事をしていなかった。体が冷えているので、何か暖かい物を口にしたい。インスタントの蕎麦とおにぎりを購入した。店内に立派な休憩スペースがあったので、そこに腰を下ろす。軽い食事を済ませた。店内に他の客はいない。居心地が良かったので、しばらく休憩することにした。
さて、どうしたものかと考える。今治まで来てしまったが、オイルが購入出来そうな店が、正月から営業しているとは考えにくい。営業しているガソリンスタンドはあるだろうが、多くはセルフになる。営業をしているのなら従業員は一人はいるはずだ。頼めばオイルを入れてくれるかもしれない。ただ、朝が早い。迷惑がられるかもしれない。想像するだけで気後れする。何となくその気になれない。大人になったというのに、基本的な僕の性質は極度の人見知りで、そんな些細なことで躊躇する。スマホを取りだした。検索をかける。
――スーパーカブ、オイル、天ぷら油。
検索結果が表示された。最近の検索は、AIによるまとめも表示されるので非常に便利。「エンジンオイルの代わりにすることはできません」と理由を挙げて説明してくれた。実に、その通りだと思う。 ただ、検索結果の上位には、実際に天ぷら油を使った検証結果も表示されていた。結論として、走る。そのことは間違いがないようだ。ただ、そのことによってエンジンが故障しても自己責任で……ということになる。僕のスーパーカブは、もう20年以上も乗っていた。走行距離はもう直ぐ9万kmに達する。オイルを喰い始めたのでエンジンのオーバーホールが必要になっていた。
――どうせオーバーホールするのなら。
悪魔のような囁きが、僕の心の底から湧いてくる。大阪から遠く離れた今治の地で、わざわざ天ぷら油を試す必要はない。もし、故障してしまったら、笑い事では済まなくなる。かといって、大阪に居たら、きっと試さないだろう。今は極限状態。二者択一。このままでは帰ることが出来ない。使えば帰れる可能性が広がる。
――天ぷら油。使うか使わないか、それが問題だ!
答えは決まっていた。立ち上がる。コンビニにも天ぷら油はあるだろう。店内を散策して見つけた。小さなボトルだが、高級そうなAJINOMOTOの天ぷら油。どうせ使用するのなら、安物よりも高級な方がスーパーカブも喜ぶだろう。妙な理屈で納得した。手に取ってレジに向かう。購入して表に出た。
◇◇◇
2026年1月元旦の朝。今治のとあるコンビニの駐車場。実験対象は黄色と黒のツートンカラーのスーパーカブ。これから天ぷら油は、エンジンオイルの代用品足りえるかの検証実験を行う。この実験において、エンジンの動作だけでなく、大阪までのおよそ200kmの走行に耐えれるかをもって成功とする。なお、失敗した場合の救済処置はない。スタンドに駆け込んで、何とかしろ。
◇◇◇
僕は相棒の右隣に立った。キックペダルの周辺に、丸いオイルの口がある。右に回して、蓋を開けた。黒い穴が現れる。天ぷら油のボトルの封を開けた。一瞬躊躇したが、ボトルを傾ける。琥珀色のドロッとした液体が、エンジンの中に注ぎ込まれていく。自分が何をしているのか分かっているようで、分かっていない。本来は推奨されない行為を、すすんで行っている。人間は究極の選択を迫られた時、わざわざ悪手を取りに行くようなところがある。一旦立ち止まって、自分のことを冷静に見ることが出来れば、如何に馬鹿なことをしているのかが分かるというのに……と思いつつ、そんな自分の行為を面白がった。
エンジンオイルの口の蓋を締めた。もう後戻りはできない。スーパーカブに跨って、キックペダルに足をかける。もし、エンジンが掛からなければ、どこぞのスタンドに駆け込んで、天ぷら油とオイルを交換してもらわなければならない。最悪、今治にもう一泊かもう二泊する可能性も孕んでいた。
「ええい、ままよ!」
声に叫んで、キックペダルを踏み込んだ。
――ブロロ~ン。
あっさりとエンジンが掛かった。マフラーから濃い白煙が吐き出される。同時に、辺りは天ぷらの匂いに包まれた。
――美味しそう。
本当に美味しそうと思ったが、恥ずかしいのでそそくさとその場から去った。国道196号線を、逃げるようにして走る。エンジンは快調に回っていた。今のところ不自然な様子はない。試しにエンジンを全開にした。スーパーカブが加速してく。時速60kmを超えた。何というか、凄く調子が良い。天ぷら油は燃やし続けているので、再度の追加は必要だが、この分だと大阪までは帰れそうだ。
国道11号線に乗り換えて、東に向かってひた走る。田園風景もあるが、王子製紙を始めとして工業地帯もあった。そんな風景を眺めつつも、心は大阪にあった。結婚して家族が出来て24年。正月に家を空けたのは初めてだった。昼ごろに嫁さんに電話をすると、おせちを食べた後でもうすでに酔っぱらっていた。長男も次男も酔っぱらっている。その場に僕が居ないことが、寂しいと思った。家族に会いたい。素直にそう思った。独りで旅に出た最後は、いつもそう思う。
傍にいるときは、その大切さがなかなか感じない。離れることで、その価値に気づいたりする。旅の効用とは、そんなところにあるのかもしれない。人間は現実の世界で、毎日毎日同じことを繰り返している。それはまるで、ハムスターが回り車で走り続けているようなものだ。一旦、檻の外に出てみると、自分の姿が滑稽に感じたりもする。でも、もう一段深く考えてみると、回り車で走り続けている現実の中にこそ、愛すべきものがあるのかもしれない。
高松からフェリーに乗って三宮に到着する。そこから自宅までは45km。家族に帰る時間を伝えた。一緒に酒を飲みたいと伝える。旅に出るときは何処までも遠くに行きたがるのに、帰るときは一分でも早く帰りたい。我儘な性格だと思う。
後日談だが、大阪に帰ってから、スーパーカブのオーバーホールに直ぐに取り掛かった。素人整備だが上手くいったと思う。ビックリするぐらいに、エンジンが軽く回るようになった。もう直ぐ、走行距離が9万kmになる。この分だと更に倍は走れるんじゃないだろうか。長距離ツーリングに付き合わせるし、天ぷら油を突っ込むし、僕は相棒に対してかなり無茶をさせている。ゴメンね。でも、相棒とは、死ぬまで一緒に走りたい。そんな風に思っているのも確かなんだ。




