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第一章 線路の息づく街で

 挿絵(By みてみん)

海洋暦八九九九年。

 空は、かつてよりも少し青が薄い。

 昼と夜の境界を知らせるのは太陽ではなく、

 大水連邦帝国の首都・浜海都(ひんかいと)の星際会議中心から放たれる光時報――

 高空を裂くあの白い閃光が、一日の始まりを告げる。


 僕が暮らす新徳安市は、浜海都の都心部――徳安市の西側に広がる巨大な衛星都市だ。

 地図で見れば無数の区画が規則正しく並ぶだけの場所だが、

 ここには“鉄道”が血管のように張り巡らされている。

 人々は線路に沿って生まれ、線路に沿って働き、

 そしてまた線路に沿って家へ帰る。


 街の中央を貫くのが、NR新徳安線。

 都心を発し、郊外を縫うように延びるこの路線は、

 かつて貨物用として敷かれた軌道を旅客線に転用したものだという。

 列車の通過音が一定のリズムで街を包む。

 遠くの踏切が鳴ると、どの家の犬も一斉に吠え、

 子どもたちはその音で夕方を知る。

 この街では、鉄道が時間を刻む。


 僕の家は、練石(ねりいし)駅に隣接する車両基地のすぐ裏にある。

 父はかつて整備士で、夜勤帰りの制服にはいつも金属と油の匂いがした。

 母は早朝のパンの香りで家を満たす人で、

 僕の幼少期の記憶はその二つの匂いが混ざり合った風景の中にある。


 夜明け前、まだ街が眠っている時間――

 パンタグラフが上がる金属音が壁を震わせる。

 コンプレッサーの唸り、ブレーキの空気抜き、

 そして整備員たちの靴音。

 それらが交錯して生まれる低い律動が、

 僕にとっては子守唄のようなものだった。


 その音を聞いて育ったせいか、

 僕は人よりも“音”に敏感だ。

 いや、音で世界を感じ取る癖がついた、と言ったほうが近い。

 僕は視覚よりも聴覚で生きている。

 だから写真を撮るときも、まず耳で“形”を探す。

 発車ベルの余韻や、風に揺れる架線の鳴り――

 そうしたものが、僕にとっては風景の輪郭なのだ。


 僕は清瀬澄矢(きよせ すみや)

 十七歳、若宮高等学校二年。

 僕の毎日は、おそらく他人から見れば単調極まりない。

 朝は基地の始動音で目を覚まし、

 練石駅のホームで一本の列車を見送る。

 学校では最低限のことだけを話し、

 放課後は再びホームに戻って、夕暮れの列車を撮る。

 帰宅後は現像、整理、そして眠る。

 それだけ。

 まるで線路のように、一本の繰り返しでできた日々。


 教室では、僕は風景の一部だ。

 陽キャと呼ばれる連中の笑い声の中で、

 僕は空気の層のように薄く存在している。

 彼らが盛り上がる話題――流行の映像、SNS、恋の噂。

 そのどれもが、僕には関係のない速度で流れていく。

 会話のテンポが合わないのではない。

 世界のテンポそのものが違う。


 誰かが「清瀬って何が楽しいの?」と聞いたことがある。

 僕は答えなかった。

 “楽しい”という言葉の中には、

 どうしてもノイズが混じって聞こえるからだ。

 僕にとっての楽しさは、静寂の中にある。

 それをうまく説明できる言葉を、まだ持っていない。


 放課後の練石駅。

 西日の斜線が、ホームのタイルを一枚ずつ染めていく。

 その光をファインダー越しに覗くと、

 駅という構造物が一瞬だけ、生き物のように見える。

 人々の足音、発車メロディ、ブレーキの鳴き。

 それらが交錯する一秒間――

 僕はいつもその“ほんの一呼吸”を撮りたくて、シャッターを切る。


 帰宅すると、壁一面の棚には無数の外付けストレージ。

 ファイル名は日付と時刻だけ。

 分類も説明も要らない。

 その一枚一枚が、僕にとって“会話の代わり”だから。


 家族とも多くを話さない。

 母は優しいけれど、僕の趣味を理解はしていない。

 姉は僕を「変わり者」と呼び、父は何も言わない。

 それでも構わない。

 僕にはこの街の“音”がある。

 鉄のきしみ、風の通り抜け、パンタグラフの火花。

 それらは誰の言葉よりも真っ直ぐで、正確に僕を包む。


 だから――

 僕はずっと、この日常の中で完結していた。

 誰とも交わらず、誰の視線も気にせず、

 線路の上をただ眺め続ける日々。

 それが僕にとっての静かな幸福だった。


 だが、世界というものは往々にして、

 一秒の誤差で軌道を外れる。


 その日、僕の生活にほんの小さな“遅延”が生じる。

 一本の準急が、たった二分のずれで通過しただけ。

 けれど、そのわずかなずれが、

 僕という閉じたレールの上に、

 まったく新しい“交差線”を引いてしまうことになる。


 ――その朝、まだ僕は知らなかった。

 ホーム越しに誰かの視線が重なるだけで、

 世界が音を変えるなんて。


 4月30日


 その朝の空は、いつもより少し霞んでいた。

 光時報が星際会議中心の尖塔部から放たれ、浜海都の高層群を白く染める。

 僕はそれを窓越しに見て、時計を確かめる。まだ六時半。

 カメラの電池を確認し、ストラップを肩に掛けて外に出る。空気に微かな湿り気。

 遠くでモーター音が流れ、朝の呼吸が始まる。


 練石駅のホームは、七時台が一番美しい。

 東側のガラス屋根から射す光が、まだ半分眠っている街の音を淡く透かせる。

 僕はいつもの場所――中央寄りの柱の影に立ち、手持ちでただ構図を確かめていた。


 まず、各駅停車が先に滑り込んでくる。

 場内が静かに沈み、アナウンスが告げる。


「まもなく、3番ホームに、各駅停車 新徳安ゆき 8両編成で参ります。

 練石駅では、この列車は急行列車の待避を行います。

 若宮・新徳安へお急ぎの方は、お向かいの急行にお乗り換えください。

 北明為・鷺家方面は、このまま各駅停車をご利用ください。」


 ドードードドドド。

 ドアが開き、人が降りる。

 その中に、ひとりの少女がいた。制服のリボンを結び直し、息を整える。

 寝坊したのだろうか――だが、焦りよりも、見慣れない朝を少し楽しむ気配があった。


 僕は一瞬、ファインダーを覗く。

 列車の光沢の先、ホームに立つ彼女の輪郭が、春の光と重なる。

 撮るつもりはなかった。なのに、指が先に動く。


 ――シャッター音が、空気を割った。


 その刹那、彼女がこちらを見る。驚きと、わずかな安堵。

 風がホームを抜け、スカートの裾を揺らす。


 反対側の線路に急行が減速して滑り込む。

 金属の擦過音、短い制動。ドアが開く。

 彼女はためらわず、向かいの急行へ一歩踏み入る。

 僕は二枚目を切る。最初よりも、音が近い。


 急行が先に発つ。

 赤い尾灯がガラスの向こうで二つの点になり、朝の明度に溶ける。

 待避を終えた各停が、ゆっくりと息を吐くように動き出す。


 耳の奥で、発車ベルの残響がいつもと違う調子で揺れていた。

 あの日の朝、僕は“光”ではなく“誰か”を撮ってしまった。

 そのことを理解するのに、まだ少し時間がかかる。


 *


 ――そして、時間は少しだけ遡る。


 秋津栞(あきつ しおり)は、

 いつもより五分遅い目覚ましで一日を始めた。


 目覚ましを三度止めて、三度目の現実に追いついた。

 カーテンの隙間に、朝が差し込んでいる。白い光は薄く、冷たい。

 私は歯を磨きながら、時刻表のページを指でなぞった。準急、七時三十八分――指先が空を掴む。遅い。間に合わない。


 家を飛び出すと、常関駅までの坂道で息が上がる。商店街のシャッターは半分しか開いていない。

 パン屋の甘い香りが、走る足を少しだけ許してくれる。駅前の掲示板の角がめくれ、風に小さく拍手していた。


 ホーム。

 準急の尾灯が遠ざかる赤い点になって、すぐに消えた。

「惜しかったなあ」と思わず呟いたあと、

 五分間待つところ、次の各駅停車のドアに駆け込む。

 ガラスに映った顔は、いつもの「間に合った私」より少し幼い。


 NR新徳安線は、郊外から都心へ向けて、確かな拍で進む。

 車内アナウンスが告げる。


「この列車は、練石駅で急行列車の待避を行います。

 若宮・新徳安へお急ぎの方は、お向かいのホームの急行をご利用ください。

 北明為・鷺家方面は、このまま各駅停車をご利用ください。」


 練石に近づくと、車輪が短く歌い、ブレーキの息が伸びる。

 島式ホーム。ガラス屋根に春の光が溜まっている。

 私はドアが開く前から一歩ぶん前に出て、ホームの空気に身を押し出した。

 各停はここで先着し、私は対面乗り換えの風を待つ。


 その風が、今日は違う方向から来た。

 中央の柱の影に、誰かが立っている。黒いカメラ、斜め掛けのストラップ。

 制服の色は同じでも、輪郭の温度が違う。

 私は瞬きの間に、その人の視線の先を探す。レールの銀色。ガラスの反射。光の縁。


 シャッター音が、風より先に私に届いた。

 びくりとしたのは、驚いたからじゃない。

 自分の中でいつも抑えている何かが、勝手に顔を出したから。

 私はたぶん、一歩だけ近づいた。彼はファインダーから目を離して、こちらを見た。

 遠いのに、距離が消える。私の中の地図が、そこだけ白紙になったみたいに。


 反対側に急行が減速して滑り込む。

 金属の擦過音、短い制動。ドアが開き、車内の空気がこちらへ流れる。

 私は目を逸らさず、でも笑いもしない。

 こういうとき、どんな表情をしていいのか、ずっと知らないでいる。

 彼は何も言わない。言葉の代わりに、もう一度シャッターが落ちた。二枚目の音は、最初よりも静かに聞こえた。


 ドアが開いたままの数秒が、やけに長い。

 ほぼ満員の急行に乗り込む。

 窓に、向かいのホームが短い映画のように映って、すぐ切れる。

 列車が出発する瞬間、私は初めて振り返った。

 彼はまだ柱の影にいて、光の方を見ていた。私を見ていたのかどうかは、わからない。


 列車は若宮までの数駅を通過していて、

 私は窓に映る自分と交代で見た。

 いつもの通学路は、ただの連続でできている。

 でも今朝は、連続の途中に小さな橋がかかった気がした。向こう側に行ける橋。行かなくてもいい橋。

 渡ったとして、何が変わるのか、まだ知らない。


 ただ、ホームが二つ並ぶあの短い景色だけは、今日のページの端にしおりみたいに挟まっている。

 取り出すたびに、朝の匂いが少しだけ立ちのぼる。


 若宮に着いたら、いつもの友だちの輪に入る。

 笑い方を間違えないように、声の高さを合わせる。

 たぶん誰も、私のポケットの中で定期券が少しだけ温かいことに気づかない。

 それでいい。

 でも、練石のホームにいた彼の指先は、今も私の前で宙に浮いている。止まったまま、合図みたいに。


 ホームルーム


 ホームルームが始まる前、教室の空気はまだ柔らかい。

 担任の高倉が出席簿を机に置いて、「席替えするぞ」と言った。

 ざわっと小さな波が立って、紙コップのくじが前の列から回ってくる。

 順番が来て、僕は一つ引いた。角の折れた白い紙に、マジックの文字。


 ――「左後列・一番端」。


 左端、最後列。窓と掲示板の境目。

 教室の一番うしろに、静かな陰ができる場所だ。

 机の中身をまとめて、静かに移動する。椅子の脚が床を鳴らす音が、少しだけ長く尾を引いた。


 荷物を置き、深呼吸。視界の端で人の流れが組み替わる。

 すぐ右隣の席が空いている。誰が来るかは、まだ分からない。

 黒板の粉が淡く舞って、蛍光灯の音に混じる。


「次——秋津」


 高倉の声と、軽い返事。

 それから、短い足音。

 右隣の椅子が、すっと引かれて止まった。


 横目で見えたのは、結ばれたリボンと、落ち着いた手の動き。

 筆箱、ノート、定規。どれも静かに置かれていく。

 机の縁に小さく貼られた名前のラベル


 ——秋津 栞。


 胸の奥で、今朝の光がぱっと点く。

 ホームの風、ガラスに揺れた髪、短いシャッターの音。

 同じ輪郭が、今は教室の白い光の中に座っている。


「……」


 喉の手前まで、なにかが来て、そこで揺れた。

「おはよう」も、「今朝は」も、どれも長い気がして、うまく形にならない。

 言葉にすると、どこか違う場所に落ちていく予感がした。


 彼女は前を向いたまま、持ってきたノートの角を揃えている。

 視線が一瞬だけこちらの方へ寄って、すぐ戻る。

 たぶん、向こうも同じくらい、言葉を選べていない。

 そう思ったのは、紙をめくる指先が、ほんのわずかに止まったからだ。


 窓の外で、風が薄いカーテンを動かす。

 黒板のチョークが「出席番号——」と音を残し、

 教室全体が新しい座標で落ち着いていく。


 高倉が連絡事項を読み上げ、ホームルームが進む。

 僕はノートの一行目に、日付だけ書いた。

 隣からインクの細い音がして、同じ日付が記される気配がある。

 名前も、あいさつも、まだ書けないまま、時間だけが前へ進んだ。


 一限が始まり、教科書を開く。

 二限、三限。

 昼休みの喧騒が遠くで丸く転がって、また収束する。

 四限の終わり、連絡の紙が配られて、机の上の紙の角を揃える音があちこちで響く。


 そのあいだずっと、僕は隣に向ける言葉を見つけられなかったし、

 彼女もこちらに言葉を投げなかった。

 視界の端に、同じリズムでノートを埋める手。

 耳の奥に、今朝の短いシャッターの余韻。


 そして五限のあと——

 チャイムが切れて、空気が平らになった。

 担任が板書する白い粉が、窓からの光で薄く浮く。


「配布係——秋津、清瀬」


 黒板の二つの名前が並ぶ。

 胸の奥で、小さく一回だけ脈が跳ねた。

 “秋津 栞”。

 朝の風景が、音だけ先に戻ってくる。


 紙束を受け取る。端が乾いていて、指に少し引っかかる。

 右の席の彼女が振り向いた。


「……半分、もらうね」


「……うん」


 枚数を分ける。角をそろえる。

 指先がほんの一瞬、触れた気がして、すぐ離れた。


「前から、配る?」


「……うん」


 机の間を抜けて、淡々と置いていく。

 彼女の歩幅は一定で、紙を滑らせる角度も一定。

 どうでもいいことばかり、目に入る。


 最後列まで配って戻ると、余りをそろえながら彼女が小さく息を吸った。


「……あの」


 顔は紙の方を向いたまま。

 声だけがこちらに来る。


「今朝……」


 そこで言葉が止まる。

 続きは、言わなくても分かった。たぶん。


「……うん」


 それだけ言って、僕も言葉を切った。

 謝るとか、説明するとか、そういう長い文が喉の手前で絡まって、出てこない。


「……そっか」


 彼女はそれ以上、何も足さない。

 紙の角をトン、と軽く揃えて、前の席へ戻る。

 すれ違いざま、シャンプーの匂いが一瞬だけして、もう消えた。


 担任の声が教室全体に戻ってくる。

「連絡つづきー」

 誰かの質問、笑い声、椅子の脚の音。

 いつもの騒がしさが上書きして、さっきの短い会話はすぐに薄くなる。


 黒板には、白い二つの名前。

 消されずにしばらく残る、その並びを見ていると、

 朝より少しだけ、この名前の音が近く聞こえた。


 放課後


 部活の声が遠くでほぐれて、通路に夕方の匂いが降りてくる。

 若宮駅のホームは、行き交う靴音とICの電子音だけが点々と灯って、空気は薄い。

 改札を抜けて階段を上がりきったところで、背中から呼ばれる。


「清瀬くん」


 振り向くと、柱の陰から秋津が一歩だけ出た。

 言葉を探すみたいに襟元を直し、少し迷ってから置く。


「今朝の……写真、見せてもらってもいい?」


 頷いて、カメラの電源を入れる。

 液晶に並ぶ二枚。指先でそっと送る彼女の動きは、爪も触れないやわらかさだった。


「……すごい。詳しいことは言えないけど、光の掴み方がきれい。

 止まってるのに、音が残ってる感じがする」


 口の中で用意していた「たまたま」とか「偶然」は、形になる前にほどけた。

 出たのは短い「……ありがとう」だけ。頬が熱い。

 そのとき、ホーム全体がひと息吸うみたいに明るくなる。西の空が燃えて、列車の窓がいっせいに橙を返した。


 ——そこで、彼女が夕陽のほうをふっと見上げた。


 光がまず、睫毛の先端でほどける。一本ずつに金粉を落として、

 その影を頬に細い草書体のように刻む。

 目の奥に、まるで小さな灯台みたいな反射が点り、

 涙腺のすぐ脇にだけ、極小の白が瞬いて消える。

 頬の産毛が逆光で薄く浮かび、輪郭は柔らかく崩れては結び直され、

 唇の端には陽の欠片が一粒、遅れて到着して、そこで止まる。

 風が前髪を数ミリだけ持ち上げるたび、光は細い帯になって髪と空のあいだを渡り、

 制服の襟の縫い目で小さく屈折して、胸元のリボンに淡い陰影を彫る。

 遠くの発車ベルは、橙色の空気に沈んで丸くなる。

 LED案内の点滅が、光の拍子木みたいに時間の骨を鳴らす。

 世界はほんの数秒、音も色も粘度を増して、

 彼女だけが時間の真ん中で静かに明るくなった。


 横顔がこちらに戻る。

 夕焼けを薄くまとった頬が、微笑む角度にそっと傾く。


「……また見るといいね」


 その一行は、光と同じ速度で届いた。

 写真のことか、この夕景のことか、あるいは——どれでもよかった。

 胸の内側で、音が渦を巻く。

 いつもの僕なら、音を層に分けて静かに並べるのに、

 今日はうまく並ばない。

 嬉しさと、居心地の悪さと、何か初めての熱がぶつかって、

 心の土が小さく割れる音がした気がした。

 割れ目の底で、目に見えない種がひとつ、

 ほんのかすかな力で土を押し上げる——そんな感触。


「……うん」


 それしか言えない。

 言葉に枝葉を足すと、どこか違う場所に落ちていく気がして。

 頬の熱は、夕陽のせいにするには少し長く残った。


 列車が入り、風が足もとを巻く。

 彼女は小さく会釈して、開いたドアの向こうへと身を滑らせる。

 去り際、夕焼けがもう一度だけ彼女の横顔を撫で、

 微笑みの輪郭を金色に縁取った。


 手の中のカメラには、朝の二枚。

 一枚目には風が写っていて、二枚目には呼吸が写っている。

 それらのあいだに、今の数秒を挟みこむ。

 しおりみたいに、今日というページの端に。



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