君を邪魔する恋物語
【登場人物】
一ノ瀬 凪
桜井 楓
伊藤 紗希
朝の光が差し込む登校時間。
生徒たちの足音と笑い声が交錯する中、凪が下駄箱を開けた瞬間に四つ折りのルーズリーフがかさっと落ちた。
「……あれ?」
彼女は小さく屈んで不思議そうにそれを拾い上げる。
「ねえ、楓、これって……」
中身を開いた凪は驚いたような、それでいてどこか不安そうな顔で私の方を見た。
凪が拾い上げた紙には、見慣れない筆跡で短い文が書かれていた。
凪先輩へ
放課後に屋上でお話ししたいです。
──伊藤 紗希
「どう見てもラブレターじゃん」
私がそんなことを言ったら凪の目は丸く見開いてすぐに顔が赤くなった。
そんな変化が面白くて私は彼女に微笑みながら、でも胸の奥がズキズキと軋むのを感じていた。
伊藤紗希って、バド部の一年生か。
六月に入部してから、彼女は凪とよくペアを組んで練習していた。フォームを教える凪と熱心にうなずく紗希。ほんの数日前にも、そんな光景を見かけたばかりだった。
初めての後輩を持った先輩と初心者の後輩はとても理想的な部活動の姿をしていたと思う。
そういえばあの子、ずっと凪のこと見てたな…。
後輩が出来るってことはそういうこともあるのか。迂闊だったと反省する他ない。
帰りのショートホームルームが終わると、教室内は一気にざわめいた。
窓際の席を見ると凪がぎこちない動きで荷物を鞄に詰め込んでいる。
彼女は今日一日ずっとそわそわとしていた。私が声をかけても意識が別のところにあるようだった。
彼女が鞄を閉じて席を立つ。そして私の方へと近づいてくる。
「じゃあ、行ってくるね!」
「…ちょっと待って」
私は立ち上がって、凪の腕を掴んだ。
「凪、顔赤いよ。緊張で体調崩してない?」
「え?いや、そんなこと…」
彼女は小さく笑うが、ないよと言いかけてまた不安そうな顔で私を見る。
「なんか熱っぽいかも…」
多分、緊張から来ているんだと思う。
ドキドキしてるから熱があるように感じるんだよ。
心も身体も人にとても影響されやすい。彼女は昔からそういう子だった。
「ちょっと座って休んで。屋上行くのはそれからでいいじゃん」
私はそういって席を立ちあがると、彼女をそこへ座らせた。
「うん、ありがとう」
なんだか本当に力が抜けているようで少しだけ心配になる。でも、今は彼女にここにいてもらわないといけない。
私は鞄を取って教室を出る。
「水買ってくるから。すぐ戻るからここにいて」
ありがとうと、凪は柔らかく微笑んで、小さく手を振った。
人が少なくなって静まりかけた校舎の階段を上っていく。
そして踊り場で一度足を止め、鞄からルーズリーフを取り出した。
凪先輩へ
本当にごめんなさい。やっぱり今はまだ早い気がしました。
気持ちがはっきりしたら、またちゃんと伝えたいです。
これからも部活では今まで通り接してくれたら嬉しいです。
──紗希
紗希のあの手紙を見て筆跡を思い出しながら私が事前に書いておいたもの。
丸文字のクセ、点の位置、丁寧な折り方。慌てて書いたようにあえて苗字を消してみたり。
即興だから完璧ではないけれど、それっぽくは見える。と思う。
凪を渡す気はない。
彼女の横にいるのはこれまでもこれから先もずっと私だけでいい。
私の凪に近づかないで。
そう思っている。
でも、別に紗希を傷つけたいわけでもない。
だから私は、私の為に動く必要がある。
階段を上り、屋上の扉をそっと開けた。
空は赤く染まっていて、その色に似つかわしい温かな風が吹いていた。
紗希はすぐそこに立っていた。
制服のリボンを直しながら、落ち着かない足取りの彼女はふと私の存在に気づいて小さく振り向いた。
「楓先輩…?」
小さな驚きと戸惑いの混ざった声。彼女は凪を待っていたのだから、現れたのが私だったことに困惑するのも無理はない。
私は小さく息を吸い込んでから言った。
「ごめんね、急に。でもあいつ、今ちょっと体調悪くて休んでるの」
そう言って、私はルーズリーフを差し出した。
「これ、代わりに預かってきた。紗希ちゃんが待ってるからどうしても渡してほしいって」
「そう、ですか。ありがとうございます」
紗希は静かに紙を受け取り、視線を落とす。
恐る恐る開いて中身を眺める彼女を見届ける。
紗希は読み終えると、はぁ、と小さく呼吸を整えて元の四つ折りに戻した。
その手は震えている。そして彼女の揺れる瞳から少しずつ涙が零れ始める。
私はそんな彼女を見つめながら、心の奥で黒ずんだ感情を飲み込んだ。
「その、私がこんなこと言っていいのか分からないけど。でも、紗希ちゃんの気持ちはすごく素敵だと思う。だから、こうなったからって自分を責めたりしないでね。ちゃんと凪には伝わってると思うから」
まるで私の言葉に救われたように、彼女は小さく頷いて、はにかんだように言った。
「はい。ありがとうございます、楓先輩」
彼女に微笑んだ。まるで本当に心から同情しているように。
さっき飲み込んだ嫌な感情が血のように全身を巡っているのを感じる。でもそれが嫌な気はしなかった。
ごめんね、きっとあなたはその手紙を宝物のようにすると思う。でも。でも、私も大切にしてもらえるように丁寧に書いたつもりだから。
紗希は一礼すると、ゆっくりと踵を返し、階段へと向かっていった。
その背中を見送ったあとで、私はポケットからもう一枚のルーズリーフを取り出す。
開いて改めて見返した。
内容は大丈夫だと思う。でも、私が知らない、凪が知ってる文字の特徴とかあったら嫌だな。
見つけやすい場所で、さりげなく。扉の隅にそっとそれを置いた。
水を買ってくると言って15分ほど。ちょっと待たせすぎただろうか。
「お待たせ。ちょっと冷たいよ」
「うん、ありがとう」
蓋をあけたペットボトルを凪は素直に受け取って、口に含んだ。
「うん、もう大丈夫そう!」
「それなら良かった。でも一応途中まで付き添うよ」
凪は笑って頷いた。
二人で階段を上がって、屋上の扉の前で立ち止まる。
そして、凪がそれに気づかないはずはなかった。
落ちていたルーズリーフを拾い上げ、それを開く。
彼女は黙って見つめ、静かにその腕を下げた。
「…紗希ちゃん、やめたんだ」
そう言って私にも内容を見せてくれる。
「そっか」
私は何気ない口調で言いながら、彼女の表情を探る。
凪はそれからもしばらく手紙をじっと見つめていた。
残念だったの?まだ二か月しか関わってないんだよ?
これは嫉妬だ。私の胸の奥で棘のようなものがちくちくと疼いた。
帰り道。いつもの住宅街を並んで歩いていたら凪がふと立ち止まって、空を見上げた。
ちょうど風が吹いて、制服の裾が揺れた。
私も立ち止まって、一歩後ろでそんな彼女を眺める。
凪は何事もなかったかのようにまた歩き始める。いつもだったら他愛のない話をしているだけで互いの家に着いてしまうのに。今日は口数も少ないし、彼女の考えがうまく読めなかった。
だから、聞きたくなかったそれをつい問いかけてしまう。
「ねえ、もし…もしあのとき、紗希ちゃんに告白されてたら、どうするつもりだったの?」
凪はまた足を止めて、私の方を見た。
「…どうだろ」
一秒ほどの僅かな間の後、それだけ言ってまた歩き出した。
その間がすべてを語っていた気がした。
なにそれ。付き合ってもよかったってこと?
私は自分の解釈にわずかに眉を顰める。そうやってなんでもかんでも優しくする凪の、いろんな人から影響をもらう凪の、そういうところが嫌いだ。
でも、そういう彼女だから今日私は彼女を守ることが出来たし、それも含めて、手放せないと知っている。
気付かれないようにそっと小さく笑った。
安堵と執着、そしてほんの少しの罪悪感が混ざった、曖昧で独占欲に満ちた微笑みだった。
いいよ。私がずっと一緒にいるから。
だから凪はずっとそのままでいてね。