6.錬金できないもの(愛とか自由とか)は、自力で何とかする所存
国王の執務室。
エルシアとヴィルヘルムは静かに向かい合っていた。
重い沈黙の中、エルシアは真っ直ぐに彼を見た。
「離縁してください」
言って差し出したのは、祖国から届いた手紙。
父皇帝の直筆、「帰ってこい」と命じる文だった。
(……結局、リンダの手を借りちゃったなぁ)
エルシアがこの国でどう扱われてきたか。
そのすべてをリンダ経由で帝国に伝え、父の後押しを得た。
ヴィルヘルムの肩がわずかに揺れる。
疲れ切った顔。
いつもの傲慢が鳴りを潜めた男は、別人のように萎れて見える。
「……私は、お前を手放したくない」
「帝国に逆らうつもりですか?」
「……逆らってでも、側にいてほしい。そう望んだら?」
愚かな言葉に、エルシアは目を伏せる。
――愚かで、どうしようもなく真っ直ぐな言葉。
おかげで、ちゃんと心に届いてしまった。
嘘偽りのない彼の心に初めて触れた気がした。
「……私を側に置いて、クラウディア様をどうなさるおつもりです? ずっと陛下を支え続けた方を」
ヴィルヘルムの表情が陰る。唇を噛んだ。
ホムンクルスの一件は、表沙汰にせず処理された。
ヴァーリックは術師長の任を解かれ、幽閉。
クラウディアとケリーにはお咎めなし――ただし、それが彼女らにとって救いかは分からない。
クラウディアはホムンクルスに関する記憶をすべて失い、代わりに、エルシアの姿を見るだけで錯乱する。
ケリーはそんな彼女を献身的に支えながらも、闇に怯え、夜は灯りを手放せなくなった。
可哀想だとは思う。が、同情の余地はない。
(……もし、あの時スタンが助けに来てくれなかったら)
スタンが駆けつけられたのは偶然ではない。
クラウディアに呼び出された彼は、ヴィルヘルムに軟禁されていた。ヴィルヘルムは「エルシアをおびき寄せるため」というクラウディアの口実に乗ったのだ。
そんな状況にあって、スタンは片眼鏡を手放さなかった。おかげで、エルシアが庵を出て王城に来ていることに気づき、事実を突きつけてヴィルヘルムを動かしたのだ
(本当、間一髪だった。……こんな心休まらない場所、さっさと出ていかないと)
決意を新たに、エルシアは告げる。
「というわけで、離縁してください」
「……嫌だ」
「じゃあ、もう勝手に出ていきます」
「駄目だ! 許さない!」
背中を向けたエルシアの腕を、ヴィルヘルムが掴む。バランスを崩したエルシアの身体が引き寄せられる。
背中に感じる熱、抱きしめる腕。
「……本当にもう、どうしようもないのか?」
顔は見えない。だけど、声が震えている。
「本気なんだ。私は、本気でお前を失いたくない」
抱きしめる腕が強くなる。
エルシアは静かにため息をつく。ポンポンと、彼の腕を叩いた。
「陛下。今まで、ご自分がしてきたことを思い返してください。……新婚早々に側妃を迎える。そちらを溺愛していたかと思えば、掌を返して正妃にまで手を伸ばす。その結果、妻の一人が心に大きな傷を負ったんですよ?」
エルシアの口からフッと力のない笑いが溢れる。
「そんな男のどこに、魅力を感じればいいんですか?」
ヴィルヘルムは押し黙る。
再度、エルシアが彼の腕を叩く。ゆっくりと拘束が解かれた。
反論もできず、ただ項垂れた男が告げる。
「……離縁を受け入れる」
***
二階の回廊を歩きながら、エルシアは中庭を見下ろす。陽光の中、いつものテーブル、いつもの席でクラウディアがゆったりと微笑んでいた。
彼女の背後に控えるケリーが、不意にこちらを見上げた。目が合う。途端、彼女は吐き気を催したように蹲った。クラウディアが驚いたように立ち上がる。辺りを確かめるように周囲を見回した彼女が、こちらを見上げそうになったところで、エルシアは窓辺を離れた。
再び、廊下を歩き始める。
(……何にしろ、漸く解放された)
心は軽くなるはずなのに、おもりが沈んだまま。これからを思うと、手放しには喜べない。
リンダを通して皇帝の力を借りた。その代償。
「帰国」を条件に援助を受けたため、エルシアは帝国へ戻らねばならない。
ここで逃げれば、王国に難癖をつけられる可能性がある。
(帝国に戻ったら、何が何でも逃げ出す……)
錬金を国の道具――戦力になんてしたくない。
そのために、エルシアにはもう一つだけ、決着をつけねばならないことがあった。
想像するだけで胸が痛い。泣きたくなる。
エルシアは服の上から心臓を押さえた。
庵へ戻ると、スタンがいた。
いつもと違い、騎士服を着ていない。
黒い簡素な装いが妙に似合っていて、エルシアは思わず見惚れた。
(……うわぁ。ビジュが……)
好みだ。好きだ。それが悲しい。
最後の見納めとばかり、エルシアは思う存分スタンを堪能した。
スタンが何も言わないのを良いことに、彼の周りを旋回する。
全方位、彼の姿を脳裏に刻んで、そこでハタと気づいた。
「スタン、制服着てないのって……」
うぬぼれかもしれない、けど――
「もしかして、帝国までついてきてくれるつもりだった?」
スタンは一歩近づき、静かな声で問う。
「もしかして、私は置いていかれる予定でしたか? 私を『好きだ』という言葉は? 偽りでしたか?」
「ち、違う。嘘じゃないよ! ……でも、状況が変わっちゃったから」
エルシアは唇を噛み、スタンに決意を明かす。
「私、王妃やめたら、お尋ね者になろうと思ってて」
「……それはまた、随分と思い切りましたね」
「うん! 帝国につれていかれるのは避けようがないでしょう? だから、あっちに入国したらすぐに逃げ出すつもり」
エルシアは一呼吸置いて、スタンに告げる。
「……巻き込みたくないの。だから、スタンとはここで――」
「ついて参ります」
即答される。
スタンの声に迷いはなかった。
「どこへ逃げようとかまいません。最後までお供します」
「でも……」
「お約束しました。身命を賭してあなたをお守りすると」
スタンの手が、エルシアの手を取る。
「今さら、この手を離すおつもりですか? ……逃がしませんよ。この先、一生」
エルシアの胸がじんわりと温かくなる。
抑えようのない歓喜が身体中に満ちていく。
「……ありがとう」
顔が熱い。頭が茹だる。指先が震えた。
「あの、あのね、ごめん。本当はね、『ついてきてくれるかも?』って期待しちゃってたの」
締まらない顔で、エルシアは自身の思いを吐露する。
「スタン優しいから。忠誠心でもなんでも、ついてきてくれるんじゃないかなーって。でも……」
勝手に顔が笑う。「えへへ」と馬鹿みたいな笑い声が漏れた。
「そんな風に言ってくれるとは思わなくて。……そんなこと、初めて言われた」
ああ、顔が熱い――
(今、絶対、人に見せちゃいけない顔してる……!)
そう思うのに。スタンから目が離せない。
彼の目が優しい。
口元をフッと弛めた彼が、顔を近づけて――
「お許しも出たようですし、今後はちゃんと口説きます」
エルシアの唇に、トンと小さな熱が触れた。
エルシアは目を見開く。
(……は?)
「は」の形で固定されてしまった唇に、二度目の衝撃。
離れていくスタンの顔。エルシアは微動だにできない。
スタンがそっと笑みを落とす。
「……行きましょう、エルシア。どこへでも」
その声に、エルシアは呼吸を取り戻し、小さく頷いた。
うん。大丈夫だ。この人となら、本当にどこへだって――
不安も迷いも、ふっと軽くなる。
未来がどこまでも広がっていく。




