5-8.絶望の底で
「……クラウディア様。これはどういうことですか? スタンはどこ?」
問い詰めるエルシアの声は震えていた。
その怯えを感じ取ったかのように、クラウディアはそっと微笑んだ。
慈母のような、優しい笑み。柔らかな声が答える。
「エルシア様。私は陛下を裏切ってまで、貴女の望みを叶えようとしているの」
「何を言って……」
「エルシア様は陛下と離縁したい。そのために、多少の危険は冒していただけるでしょう?」
説明などする気のない一方的な言葉。怯えを増すエルシアを前に、ヴァーリックが上機嫌で語りだす。
「妃殿下。貴女の魔力量は素晴らしい。感嘆に値する。だが、錬金の腕は児戯。宝の持ち腐れだ」
緑の瞳がギラリと光る。獲物を前にした獣のような高揚が宿っていた。
「……安心しろ。その魔力、この私が最後の一滴まで有効活用してやる」
エルシアの背筋が冷えた。
(……逃げないと)
何をするつもりか知らないが、エルシアは加担したくなかった。ヴァーリックの様子から、本気で魔力を搾り取る気だと分かる。拒絶すればどんな目に遭わされるか。
エルシアは逃げ道を探す。背後に立つのはケリーのみ。扉を守るようにして立っている。
彼女を何とか出来れば――
ヴァーリックがニヤリと笑い、部屋の奥の扉を開けた。そこから、黒い生き物が現れる。彼の腰の高さほどの体高。四つ足でノソリと現れたのは、黒い毛並みの山羊のような何かだった。
山羊が口を開いた。真っ赤な口腔に白い歯がずらりと並ぶ。その口が、あり得ない音を紡いだ。
「ダ、ダ……、ダ、ディ……」
「ヒッ!」
エルシアは思わず悲鳴を上げた。恐怖に後ずさる。
(なにこれ、なにこれ、なにこれっ……!!)
動物の鳴き声ではない。山羊のような何かが口にしたのは、聞き間違いようのない、人の言葉だった。
エルシアの目に涙が浮かぶ。恐慌状態。怖くて、悍ましくて、触れてはいけない何かが、目の前にいる。
ソレが、こちらを見ていた。
黒黒とした目に知性、或いは意思が宿る気がして、エルシアは顔を背けた。
見たくない。
ヴァーリックが誇らしげに胸を張る。
「素晴らしいだろう? ホムンクルスだ」
「ホ、ムンクルス……?」
エルシアの口の中がカラカラに乾く。
「……命を、作ったの?」
ゲーム『アルケミストライフ』にもホムンクルスは登場する。
しかし、それはペットであり、仲間。彼らを錬金するレシピは存在しない。
「人の手で命を生み出す」葛藤を感じることもなく、ただ愛でて楽しめばいいだけ。
だが、それを許さない命が、今、目の前にいた。
怖い――
見た目だけではなく、存在そのものが。
「なんで作ったの、こんな……」
「深淵だ!」
ヴァーリックの目が狂気に煌めく。
「全ての錬金術師が望む錬金の極地! 私はそこに至った!」
彼の狂気に押され、エルシアは後退する。二歩下がったところで、背後に立つケリーに腕を掴まれた。振り返り、確かめるも、彼女の瞳は冷たく見つめるだけ。
エルシアは、クラウディアを振り返った。
「クラウディア様、どうして貴女が術師長に手を貸すの? どうして、こんなこと……」
クラウディアは薄い笑みを浮かべたまま。エルシアに近づく。
「エルシア様の仰りたいことは分かります。ですが、ご安心ください。私と陛下の子は、こんな出来損ないとは違います」
「え?」
「あと少し。……貴女の血さえあれば、完璧なの。高魔力の貴女の血」
(血? 私の……?)
エルシアは唖然とする。クラウディアは気にした様子もなく、部屋の中央、置かれたテーブルへ向かう。
そこに置かれた一抱えほどあるガラス瓶。
中で、半透明な何かがグネグネと蠢いている。
(………うそ、でしょ)
半透明の塊。その表面に目があった。
言葉を発する山羊とそっくりな黒い瞳が、瞬きもせずこちらを見ている。
エルシアの胸がギュッと縮まり、指先が冷たくなった。
ヴァーリックの高笑いが聞こえる。
「貴様では想像もつかんだろう! 錬金術とは積み上げた知の集大成! 魔力を振りかざすだけの魔法などとは次元が違う!」
言って、彼は山羊へ指示を出す。
「その女を捕まえろ」
山羊が唐突に立ち上がった。
二本の後ろ足で直立し、前足を突き出す。それが、グニャリと形を変え、人の手になった。
「いやっ……!」
エルシアは、ケリーに掴まれている腕を振り払う。
逃げ出そうとした。けれど、恐怖に足がすくんで走れない。目の前に迫る生き物を、両手で突き飛ばす。だが、その身体はビクともしない。反動で、エルシアが床に転がった。
慌てて立ち上がろうとしたが、身体が思うように動かない。
(だめ、腰が……、立てない……!)
ゆっくりと伸びてくる黒い手。掌まで毛に覆われたそれが、エルシアを捕らえようとする。
エルシアは震える手でポケットを探った。布の感触。掴んだものを、力任せに投げつける。
瞬間、粉が舞った。黒い毛を白に染める。染まった部分から、白煙が立ち上った。
「ギャアアアァァッ!!」
山羊の絶叫。断末魔の人の声。エルシアは反射的に耳を塞いだ。
胃の奥がグラグラ揺れ、こみ上げる嫌悪と恐怖が喉を塞ぐ。
黒い塊が床に倒れ、のたうち回った。床を転がり、暴れ、やがて動かなくなる。
「あ……」
呆けていたエルシアの意識が引き戻される。
(うそ……、殺した……、私が?)
手が震えた。胃がひっくり返りそうだった。
ヴァーリックが舌打ちする。
「脆いな。この程度の魔力で組織が崩壊するとは。……やはり生成時の魔力が足らぬか」
つまらなそうに呟くと、「まぁいい」と笑ってエルシアを見る。
「貴様の血で完璧なホムンクルスができる。量産すれば、強大な戦力となるだろう。私の錬金術がこの国を変える!」
「馬鹿なこと言わないで!!」
エルシアは咄嗟に叫んだ。脳が焼けるほどの怒りが湧いていた。恐ろしい目に遭わされ、その目的が、そんなことだなんて。
「絶対に作らせない!」
命を使い捨てるような行為。しかも、ヴァーリックにあるのはただの虚栄心。国を思って、などの理念さえ持ち合わせていない。
「そんな馬鹿な真似、絶対にさせない!」
必死に立ち上がろうとするエルシアを、ヴァーリックが鼻先で笑う。
壁に手をつき、よろめきながら立ち上がったエルシア。
不意に、クラウディアが歩み寄る。
「取り消しなさい、エルシア」
氷のような声。
彼女の手にはナイフが握られている。
「馬鹿な真似? ……陛下のお子を作るのです。貴女の魔力を受け継いだ、陛下と私のお子を!」
「っ!」
突きつけられたナイフ。動けない。
ヴァーリックが近づいてきた。手にした縄で、エルシアは後ろ手に縛られる。
もう涙をこらえる余裕はなかった。
(スタン……!)
心の中で助けを求めた。
そのとき―――
ドンッという鈍い音と共に、扉が破れた。
皆の視線が一斉に扉を向く。
飛び込んできた人物が誰か。エルシアが認識すると同時、彼は迷いなくヴァーリックに飛びかかり、その身体を突き飛ばした。エルシアを抱き寄せる。
「スタンッ!」
「王妃陛下。……ご無事ですか?」
「うん、うん……!」
言葉にならない安堵。エルシアの身体が弛緩し、抱きしめる腕に全てを預ける。
涙が止まらなかった。
そして、もう一つの足音が――
「……クラウディア。これは一体……?」
ヴィルヘルムの声。
彼は、クラウディアの手にするものに気づき、表情を険しくする。
クラウディアは慌ててナイフを手放した。金属が床に落ちる音。
「違うのです、陛下! 私はただ、陛下のお子を……!」
「……何を言っている?」
ヴィルヘルムの目に浮かぶ不信。
クラウディアはふらふらと瓶へ歩み寄る。抱き上げると、宝物のように胸に押し当てた。
それを、ヴィルヘルムの元へ運ぶ。
「どうぞご覧になって、陛下。ここに、陛下と私のお子が……」
蠢く半透明の固まり。闇を映す黒の目がグルリと回る。
ヴィルヘルムの顔が凍りついた。
クラウディアは微笑んで、瓶を差し出す。
「どうか、抱きしめてあげてくださいませ」
「やめろ!」
恐怖に駆られたのか、ヴィルヘルムが咄嗟に手で払った。
弾みで、クラウディアの腕から瓶が滑り落ちる。
まるでスローモーション。
床に叩きつけられた瓶が――
「あ」
クラウディアの呟きは、瓶が砕け散る音にかき消された。
一瞬の出来事。
外気に触れた塊が、みるみる溶けていく。
「……ぁ、……ぁ、……ぁぁぁぁああああああ!!!」
子を失った女の絶叫が、錬金室の石壁を震わせた。




