5-6.心壊れて(Side C)
国王の執務室。磨き込まれた机の向こう、執務椅子は空のまま。
クラウディアは静かにため息をつき、指先で机の木目をなぞった。
ここ最近まで、クラウディアの人生は順調だった。ヴィルヘルムとの婚約が一度解消され、他国の皇女が嫁いで来た時でさえ揺らがず。不安など微塵もなかった。
(……ヴィルヘルム様は仰ってくれた、『愛するのはお前だけだ』と)
その言葉を信じた。信じられた。だからこそ、クラウディアはずっと幸せでいられた。
だが最近、その完璧なはずの人生にヒビが入る。
クラウディアは机からそっと手を離した。半刻前の出来事を思い出す。
視察から帰ったヴィルヘルムを迎えた部屋。彼は、ケリーの訴えを聞いた途端、血相を変えて部屋を飛び出した。向かう先は考えるまでもない。
あの瞬間、彼は確実にクラウディアの存在を忘れた。怒りに駆られてとは言え、それは紛れもない裏切り。
クラウディはポツリと零した。
「……ケリーのお節介には困ったものね」
独断専行。彼女がクラウディアのため、エルシアを貶めたかったのは分かる。だが、彼女は読み間違えた。「ヴィルヘルムの心を占めるのはクラウディアだけ」、それはもう過去のこと。変化に気づけぬケリーの行動が、却って浮き彫りにした事実。それがクラウディアの胸を苛む。
知りたくなかった――
クラウディアはこめかみを押さえ、何度目か分からぬ溜息をつく。
その時、足音が聞こえた。扉の向こう、廊下を荒い足取りで向かってくる人がいる。王城でそれが許される者は一人しかいない。
クラウディアは身構えた。
綺麗に微笑えているだろうか――
扉が乱暴に押し開けられる。息を乱したヴィルヘルムが、クラウディアの姿に気づき、動きを止める。
「……すまない。来ているとは思わなかった」
気まずげに目を逸らす。その仕草が、クラウディアの心を揺らす。
ふと、クラウディアは彼の異変に気づいた。慌てて側に寄る。
「陛下、目が」
目元が腫れ赤く充血している。
クラウディアは思わず手を伸ばした。が――
「っ!?」
ヴィルヘルムが身を引いた。ほんの僅か、拒絶と言えるほどの拒絶ではない。しかし、クラウディアには衝撃だった。
彼も、衝撃を与えたことに気づいた。
張り詰めた空気。彼が「大丈夫」と告げる。
「目に砂が入っただけだ。たいしたことはない」
(……嘘)
クラウディアの胸が軋む。
「……エルシア様ですか?」
自然と、苛立ちが滲んだ。
「尊い御身になんということを」
「いや、違う。アレのせいではない」
即座に返ってきたのは彼女を庇う言葉。
胸の痛みが鋭くなる。
それでも、クラウディアは微笑んだ。
「……陛下は、エルシア様がお好きなのですね?」
ヴィルヘルムがギョッとした顔で否定する。
「違う。アレに対してそういう感情はない」
きっぱりと言い切った。だが、その後に「ただ」という言葉が続く。
「アレの錬金術の腕は確かだ。国にとって必要な力、……切り捨てるには惜しい」
まるで自分自身に言い聞かせるような響き。
クラウディアはそっと目を伏せる。
「……信じますわ」
言った本人が信じているかも分からぬ言葉を。
クラウディアは微笑みを作り直した。
「もし陛下が望まれるのであれば、エルシア様に、王城へ戻るよう説得いたします」
「……いいのか? お前は、それで……」
驚きに満ちた声。クラウディアは静かに頷いた。
「陛下が望まれるなら」
そうして、ヴィルヘルムの前にカードを置く。表に返したカード。
「……もし、エルシア様のお子が王位に就けば、この国はより強くなるでしょう」
ヴィルヘルムが目を見開く。クラウディアを凝視し、その真意を探ろうとする。
真意はカードの裏。
読んで欲しい。カードをひっくり返しても良い。「愛するのはお前だけだ」と言って――
しかし、カードは返されぬまま。ヴィルヘルムは残酷なほど安らいだ表情を見せた。
「……ありがとう、クラウディア」
「いいえ。陛下の御心に沿えるのなら、それで十分でございます」
胸の奥が波立つ。それでもクラウディアの微笑みは完璧だった。
「では、私はこれで」
辞去を告げる。ヴィルヘルムが引き留めようとするが固辞した。
「エルシア様とどのようなお話しすべきか、少し、考える時間がほしいのです」
そう言うと、ヴィルヘルムはそれ以上引き止めることはしなかった。
クラウディアは優雅に一礼し、静かに執務室を後にする。
廊下を歩くうち、表情が溶けていく。
信じていたものが掌からこぼれ落ち、胸に開いた穴はもう誤魔化しようがない。
(……追いかけてもくださらないのね)
今までのヴィルヘルムなら、どんな小さな異変でも、「クラウディアがおかしい」と気づいてくれた。今も、もしかしたら気づいていて、敢えて追ってこないのかもしれない。
胸の奥に、黒い影がじわりと広がる。愛する者を信じられなくなった今、残された道は一つ。
クラウディアの足は王城の地下へ向かった。
階段を降り、暗い廊下を抜け、重い鉄扉の先、薄暗い灯りの下で男が待っていた。
クラウディアの姿を見るなり、口角を吊り上げる。
「漸く決心がつきましたか」
「……ええ」
クラウディアは静かに告げる。
男が笑った。
「素晴らしい! それでは、貴女の願いを叶えるに当たって、必要な物をご用意いただきたい」
「用意?」
「左様。必要なものは一つだけ、魔力です。……お分かりいただけますかな?」
怪しげな男の言葉。闇に溶け、底知れぬ笑みだけが浮かぶ。




