4-5.扉越しの祈り(Side S)
肩を震わせ、息を詰まらせ、涙を落とす――
どうしようもなく、守りたくなる姿。
その背に触れて抱きしめたいと願う。
(……泣くな)
スタンの胸が軋んだ。
腕を伸ばせば届く距離。
触れられぬことが、これほど苦しいとは。
不意に、エルシアの身体がふらりと傾いた。
「王妃陛下……!」
倒れかかった彼女を、スタンは反射的に抱きとめる。
疲労が溜まっていたのだろう。長距離の移動に加え、精神的な負荷が大きかった。細い身体は雨で冷え切り、小さく震えている。
「……ごめん。ちょっとクラってきた」
エルシアは、緩慢な動きで身を起こそうとする。
しかし、足に力が入らないのか、離れようとした身体がふらつく。
スタンは彼女の背を支えた。
「……無理をなさらないでください」
それでも一人で立とうとするエルシア。
スタンは迷わず、彼女を抱き上げた。腕の中、僅かに伝わる体温と頼りない柔らかさ。それだけで、胸が満たされる思いがする。
エルシアが僅かに抵抗する。
「スタン。大丈夫だから、下ろして」
「下ろしません。……王妃陛下、どうぞ今は私にお任せください」
スタンの願いに、エルシアは観念したように大人しくなった。
スタンは彼女を抱きかかえて屋敷へ入り、部屋まで運ぶ。部屋の前、彼女が立てることを確かめてから、その身体を解放した。
「雨で冷えてしまっています。すぐに着替えてお休みください。メイドを呼びますか?」
「ううん、大丈夫。……スタンは? もう部屋に戻る?」
「いえ。ここで警護にあたります」
「そっか。……ありがとう」
エルシアの顔が安堵に弛む。それから、「ああ、でも」と告げた。
「スタンも先に着替えてね。風邪ひいちゃうよ」
「承知しました」
「うん。……じゃあ、おやすみなさい」
エルシアが部屋に入る。扉が閉まるのを見届けて、スタンはその横に直立した。彼女にはああ答えたが、着替えに戻るつもりはなかった。
しかし、一度閉じたはずの扉が内から開かれる。エルシアが再び顔を覗かせた。
スタンとエルシアの目が合う。菫色の瞳がスタンを咎めた。
「着替えてくるって言ったでしょう」
一瞬の沈黙。しかし、スタンは静かに頭を下げた。
「……分かりました。すぐに戻ります」
「うん。待ってる」
宣言通り、エルシアはその場でスタンを待つらしい。
扉を開けたまま、微笑んでスタンの動向を見守る。
「……すぐに戻ります」
諦め、スタンはその場を離れる。背後で、「行ってらっしゃい」の声が聞こえた。
***
エルシアの部屋の前で警護を始めて暫く。
廊下の先に人の気配を感じ、スタンは警戒を強めた。軽い足音と共に現れたのは、王妃付きの侍女。
(……リンダ、だったか)
かつて、エルシアの側にいた女がスタンの前で足を止めた。軽く頭を下げる。
「スタン様、陛下がお呼びです」
スタンは無表情に告げる女を観察する。
嘘の呼び出しという訳ではなさそうだ。しかし――
「申し訳ありません。ここを離れるわけにはまいりません」
「国王陛下がお呼びなのですよ?」
「私は王妃陛下の騎士です。陛下を一人にはできません」
スタンの拒否にも、侍女は無表情のまま。淡々と「では」と告げる。
「私が代わりに、エルシア様のお側におります」
「お断りします。……私は貴女を信用していない」
言葉の強さに、侍女は僅かに眉を顰めた。しかし、それだけ。静かに頭を下げると、それ以上は言わずに去っていった。
彼女の姿が完全に消えるのを確かめて、スタンはまた静かに前を見つめた。
半刻後――
今度は、別の気配が近づいてきた。
先程より重い足取り。馴染みのある男のもの。
やがて、ヴィルヘルムが現れた。
「……アレは、どうしている?」
開口一番の言葉に、スタンは静かに頭を下げた。
「恙無く。先程お休みになりました」
「……泣いていただろう?」
その言葉にピリと来るものがあり、スタンは思わずヴィルヘルムを見た。赤の眼光が、暗がりでも分かるほど鋭く光る。
「理由はなんだ? 魔力切れか? ボムの錬金がそれほど負担だったのか?」
「……私には分かりかねます」
「そんなはずがあるか!」
苛立った声を上げたヴィルヘルムは、「もういい」と告げる。
「そこをどけ。アレに直接確かめる」
「王妃陛下は就寝中です」
「だからなんだ? 私が用があると言っているんだ、どけ」
「王妃陛下の許可なく、扉を開けることはできません」
スタンは動かない。暫しの睨み合い。スタンが絶対に引かないと見てとって、ヴィルヘルムが舌打ちする。
スタンが口を開いた。
「王妃陛下へ言付けがあるのでしたら、私が預かります」
「……要らん。伝えるべきことは自分で言う」
ヴィルヘルムはスタンをじっと見据えた。その眼差しに、王としての傲慢以外、ヴィルヘルムの個としての感情が見え隠れする。
「……勘違いするな」
低く、押し殺した声が落ちる。
「エルシアは私の妃だ。お前がどれだけ足掻こうと、アレがお前のものになることはない」
何度目か分からぬ釘を刺される。それが、今まで以上にスタンの胸を深く穿つ。
だが、それを顔に出すことは許されない。
スタンは一礼して答えた。
「……心得ております」
「ハッ! どうだかな」
ヴィルヘルムの嘲笑。スタンは顔を上げない。
ヴィルヘルムが踵を返した。歩き出した足音。次第に遠ざかり、廊下に再び静寂が満ちる。
スタンは漸く顔を上げる。振り返って扉に目を向けた。扉の向こう――そこに在る人を想う。
(……良き眠りを)
今はただ、それだけを願って。
スタンは静かに立ち続けた。




