1-1.前世の記憶はさておき、趣味に生きるのはどうだろうか
一時の興奮が収まり、エルシアは心地よい風にぼんやりと身を任せる。
(ゲームの中にいるってことは転生? 私、死んじゃったのかな)
思い出せる最後の記憶は、白いベッドの上で見続けたスマホのゲーム画面。前世のエルシアの名前はなんといったか。家族はいたか、歳はいくつだったか。手繰り寄せてみるも、思い浮かぶのは見事にゲームで遊んだ思い出ばかりだ。
『アルケミストライフ』
日本の個人開発者の手によるアプリゲームは、エルシアには刺さったが、大きく成功することはなかった。国や町の設定はあってもストーリーが薄く、クエストの数も少ない。基本は材料収集と錬金を繰り返すだけの作業ゲーで、評価もダウンロード数も伸び悩んだ。
それでも、エルシアにとっては文句なしの神ゲーだったため、ゲーム評価は当然の星五をつけ、応援メッセージを何度も送った。
(なーんにも考えないで草と石を混ぜたらポーションができる。お手軽奇跡が良かったんだよねぇ)
ゲームの更新が止まり、開発者がSNSで発信することがなくなっても、エルシアは『アルケミストライフ』を遊び続けた。
(グラフィックも好きだったな。ポーションの瓶とか可愛かったし、お料理も美味しそうだった)
錬金アイテムのイラストと共に、エルシアの脳裏に「美味しいものをお腹いっぱい食べたい」という渇望が蘇る。
「あー……」
抱いた感情が、忘却の彼方だった記憶を引き寄せる。
(そっか、そっか、そうだった……)
前世のエルシアが尋常ではない時間をアプリゲームに注ぎこんだ動機は現実逃避。苦くて辛い。
フリック一つで切り替えていた景色を見下ろして、エルシアは「うーん」と考え込む。
(あまり前世に囚われちゃ駄目だよね。せっかく新しい人生歩んでるんだから、引きずらないようにしないと)
そう考えつつも、やはり、気になるものはある。
錬金術――
前世では自然科学に淘汰されていった学問は、この世界においても「魔法」という新たな概念の台頭により衰退の一途を辿っている。だが、ここハバスト王国においては、未だ錬金術が権威ある学問として幅を利かせており、世界の主流から取り残されつつあった。
(これって、私としてはラッキーだけど、国としては弱みだよね)
エルシアは隣国のフェルン帝国の第十六皇女として生まれた。側妃腹であり魔法の素養もなかったため後宮では埋没していたが、権力闘争からも遠く伸び伸びと育てられた。
そして、三年前――十五歳の時、エルシアは王国と帝国の架け橋となるべくハバスト国王ヴィルヘルムに嫁いできた。十六皇女という十把一絡げのエルシアが、一応は独立した国の王に嫁げたのは、ひとえに国力の差ゆえ。先代国王の早世により若くして王位に就いたヴィルヘルムに、魔法先進国である帝国の要求を撥ね退ける力はなかった。
政略により結ばれた婚姻。ある程度の反発は覚悟していたが。
(上手くいかなかったなぁ)
エルシアは血筋由来の豊富な魔力を持つが、魔法は不得手だ。発動すらままならず――だからこそ国外に出されたというのもあるが――、有力な家臣を連れてくることもできなかった。個としてのエルシアは無力だ。
そんなエルシアだが、使い様によっては有用だったと思う。知識はあったので、人材さえ与えられれば魔法の普及に貢献できただろう。対帝国における外交の駒としても――少なくともこの国の人間よりは――役に立ったはず。なのだが、この三年、エルシアが表舞台に立つことは一度もなかった。
エルシアはこの国の嫌われ者だ。しかも、エルシアを嫌う人間の筆頭が、政略で結ばれた夫と魔法の普及に断固反対の立場の宮廷錬金術師長という国のツートップ。バリバリの権力者二人に疎まれ、この国にエルシアの居場所はなかった。
(まぁ、あの二人の場合、気持ちは分からなくはないんだけど。でも、大人なんだからさぁ)
もっとこう上手いことできなかったのかと恨めしい気持ちになる。
おかげで、嫁して三年、エルシアはすっかり萎縮して陰鬱な王妃になってしまった。
(勿体ないよね。流石は権力者の血筋というか、今の私、結構綺麗な顔してるのに)
母親譲りの美貌も、表情を失って下を向いていては活かされない。
「本当に勿体ない」と考えてエルシアは意識して顔を上げる。
「うーん。どうしよう、これから」
青い空を見上げて、「今の自分が何をしたいか」を考える。王妃という立場は窮屈で、許されるものなら逃げ出したい。それが現実的でない今、できるのは自分の趣味に生きることだろうか。どうせ日陰の身。誰の邪魔にもならぬよう、誰からも邪魔をされずに趣味に没頭するのは悪くない気がした。
(うん。いるよね、そういう人)
身分はあるが権力から遠い場所にいる人間にとって、それは心安く生きる手段の一つなのかもしれない。
(そうなると……)
エルシアは視線を下げて森を見る。その中で一際目を引くピンク色の屋根を眺めた。
「やっぱり、あそこかなぁ」
『アルケミストライフ』における宮廷錬金術師の拠点。「妖精の森」にある庵は、二階が住居、一階が錬金工房となっており、恐らく生活に困ることはない。ちなみに、庵がピンクで煙突が白なのは――何を血迷ったのか――前世のエルシアがそうカスタマイズしたからである。見つけやすいのはいいが、周囲からは完全に浮いていた。
(あそこ、譲ってもらえないかな。錬金工房はお城の地下にあるわけだし……)
そう考えて、ふと、エルシアの脳裏に疑念が生じる。
(あれ? もしかして、今ってゲームとは違う時代?)
王妃であるエルシアが知る限り、宮廷錬金術師は城内に工房を持つ。庵に関しては、記憶が戻るまで存在に気付くこともなく、誰かが話題にすることもなかった。加えて、『アルケミストライフ』において「錬金術が衰退している」という描写はない。
(うわぁ。もしかして庵も廃墟になってる? 結構ちゃんと建ってるように見えるけど、住めるのかな?)
目を眇めたエルシアが石壁から身を乗り出した時、不意に背後から強い風が吹いた。
(うっわ……!!)
壁の低さが仇になり、エルシアの身体が浮く。視界に塔の真下の草地が映り、血の気が引いた。悲鳴を上げることもできないまま死を意識した瞬間――
「っ!」
背後から、エルシアの腕が強く引かれた。そのまま、塔の屋上、石の床に引き倒される。痛みを覚悟したが、エルシアが感じたのは固くて温かい誰かとの衝突だった。背中を守るように力強い腕に包み込まれている。身体が動かず、思考が停止した。
数瞬後、先に復活したのは身体のほうだった。嫌な汗がドッと噴き出す。
(び、び、び、びっくりしたぁあああ!!)
何が起きたのかを理解して、エルシアはグルンと背後を振り返った。同時に、自分を抱えていた手が離れていく。振り返った先には無表情な男の顔があった。
エルシアをジッと見つめる碧の瞳に長めの黒髪がかかる。端正ではあるが怜悧な眼差しは見慣れたもの。ここ二年ほど、たった一人でエルシアの護衛騎士を務めてくれる彼に、エルシアは震える声で礼を告げる。
「あ、ありがとう……!」
それから、動揺のあまり、口にしてはいけない言葉を口にした。
「ごめんなさい。貴方の名前、なんだっけ?」