2-1.錬金工房があれば何でもできる!…絶対、できる!
絶好の引っ越し日和だった。
空は晴れ渡り、木々の間を心地よい風が吹き抜けていく。
エルシアは柔らかな草地を踏みしめて歩く。背中に背負った巨大なザックの重さも気にならなかった。
「ねぇ、スタン」
上機嫌で、背後を歩く護衛騎士に話しかける。
「この森、どうして妖精の森っていうの? 本当に妖精ががいるとか言い伝えがあるとか?」
エルシアの知る限り、この世界に妖精は存在しない。そして、前世プレイした『アルケミストライフ』にも実は妖精は一切登場しないのだ。
(作者様が登場させるつもりで挫折しちゃったとか?)
邪推するエルシアに、スタンの静かな声が届く。
「……この森は植生が豊かで野生動物が数多く生息しています。それが、『妖精の恵み』だと」
「ああ、なるほど! そういう比喩? 的な表現ね!」
確かに、ゲームの採集でも妖精の森にはお世話になった。どれだけ錬成のレベルが上がろうと、錬金ではまず基礎アイテムを作らねばならない。その基礎アイテムを錬成するには、最序盤で必要となる材料が最後までしかも大量に必要になるのだ。
「あー、なんかワクワクしてきたなー!」
庵に着いたら、早速、採集に出かけたい。自分のゲーム知識がどこまで通用するか。エルシアは楽しみで仕方なかった。
やがて、木々の間から目に優しくない色が飛び込んでくる。更に進むと、急に開けた空間に出た。草の茂る広場の中央に、こぢんまりとした庵が建っている。
(……うーん。リアルになるとこんな感じなんだ)
ギリギリ「淡い」と言えないピンクの土壁でできた家。木製の窓枠と玄関扉はデフォルトの茶色だが、煙突は掃除が大変そうな白土管だ。
自身のセンスに思うところはあるが、来世に期待することにする。
「思ったより綺麗だね。そこまで古いわけじゃないのかな?」
言って振り返ると、スタンが何とも言えない顔で佇んでいる。無表情ながら、何とも悩ましい顔。ここ数日の彼はずっとこんな顔をしていた。
(やっぱり、お城勤めがいきなり庵勤めじゃテンション下がるよね)
巻き込んで申し訳ないと思いつつ、彼がいてくれることに安堵する。
気を取り直し、エルシアは玄関の扉へ向かった。近づくにつれ、懐かしい感覚に囚われる。
(あ……)
ドアノブに手を伸ばした瞬間、エルシアの脳裏に浮かんだのは『アルケミストライフ』のログイン画面だった。ゲームを起動する度に目にした画像と同じデザインの扉。そこにID入力画面までが思い浮かんで、笑いが零れる。
ImStillHere20XX――
エルシアが使っていたIDが、目の前に浮かんで消えた。
(うーん。リアルまで侵食されるとは、私も中々のゲーオタ)
自覚して、エルシアは扉を押し開く。ギィという音と共に扉が動いた。途端、背後から大きな手が伸びてくる。ドアノブに掛けたままの手を上からスタンに握られ、エルシアは動けなくなった。
「ス、スタン? え、なに、どうしたの?」
振り返って見上げた彼の鬼気迫る表情に、更に混乱する。
「えっと……?」
「……すみません。想定外でした。私が先に中を確認します」
言って、彼は開き掛けの扉を全開にする。部屋の中を見渡す彼の横から、エルシアは中を覗きこんだ。
「わーお!」
ゲーム画面そのまま。エルシアが期待した通りの光景が目に飛び込んでくる。
部屋の中央にはデンと大きな錬金釜が置かれ、その奥には暖炉が。壁際の棚にズラリと並んだガラス瓶――見覚えのあるポーション瓶だ――が、窓からの光を受けてキラキラと輝いていた。
「なんということでしょう!」
新築とは言わないが、劣化の見られない内装にエルシアは興奮した。先に入ったスタンに続き、部屋の中へ足を踏み入れる。塵一つ落ちていない、だけど、生活感のある空間。不思議な空気に、エルシアはしみじみと浸った。
今日からここがエルシアの家だ。
一階の点検を終えたスタンが、二階へ続く階段を上っていく。
(二階は流石に見たことないな。『寝る』ボタンで体力回復するくらいで)
ベッドのアイコンはあったが部屋の描写はなかった。後でじっくり確認したいが、エルシアにはまずやるべきことがある。
(そのためにココまで来たんだもんね!)
張り切って、背負ってきた荷物を下ろす。数日分の着替えと食料。ひとまずの生活に困ることはないだろうが、その先の見通しも一応はたっている。
「さて、まずは現状の確認だね」
改めて、エルシアは室内をグルリと見回した。工房の奥に続く部屋はキッチン、錬金釜の横には作業台、窓際に置かれた揺り椅子は休憩にもってこいだ。
最後に、壁に備え付けの棚に視線を向ける。先ほどは大量のガラス瓶に気を取られたが、そこに置かれた道具類を見つけ、エルシアのテンションが上がった。
「え、え、え、まさかの探索アイテム!」
見慣れたゲームアイテムに駆け寄り手に取ってみる。
片眼鏡型のアイテム――マジックグラスは目的の材料の採集場所を教えてくれ、短剣型のアイテム――スマッシュダガーは対象の獲物を一撃で狩ることができる。ちなみに、この世界には――『アルケミストライフ』にも――魔物やモンスターは存在しない。が、ゲームでは獣を狩って毛皮を手に入れる必要があった。
(……狩りか)
握った短剣を見つめた後、エルシアはそれをそっと棚の奥にしまいこむ。
他にもいくつかの探索アイテムを確認してから、エルシアはマジックグラスをかけてみた。
(……片眼鏡、正しい掛け方が分からない問題)
「こうか? こうなのか?」とエルシアが遊んでいると、二階からスタンが下りてきた。恐らく間違っているモノクル装着者を見て、彼は足を止める。
「……なにを?」
「うん……。なにしてるんだろうね」
エルシアはモノクルを外し、ポケットにしまう。引っ越しに合わせて入手した町娘風ワンピースには便利な収納機能がついていた。
「……とりあえず、初級ポーションを作ってみます!」
空気を変えるため宣言し、エルシアは庵の外に出る。建物から数メートル離れた木の側で足を止め、後ろをついてくるスタンを振り返った。足元を指差し、説明する。
「来る途中にもチョコチョコ見つけてたんだけど、コレ。この、茎にギザギザの葉っぱが三枚ついているのが、ギザギザ草です」
「……」
「うん。正式名称があるのかもしれないけど、私はギザギザ草と呼びます」
出典は『アルケミストライフ』だ。文句は受け付けない。
「これが初級ポーションの材料になるので大量に集めたいのです、が」
言って、エルシアは足下に生えるギザギザの葉を茎から二本ちぎる。
「何はともあれ、私は錬成がしたい! なので、こちらの採集をスタンさんにお任せしてもいいでしょうかっ!?」
二本の草の内の一本をスタンに押し付ける。「これを見本に頑張ってくれ」の意だが、それを酌んでくれたのかどうか。スタンは押し付けられた草を黙って受け取った。
「それではよろしくお願いします!」
頭を下げ、エルシアは庵へ駆け足で戻る。早く早く。ワクワクと不安が綯い交ぜになって、エルシアを浮き足だたせた。
庵に戻ったエルシアは、錬金釜の前に立つ。腰までの高さの大きな壺。台座部分には火を付ける薪ではなく、水晶的な何かが敷かれている。
(これに魔力を入れるのかな?)
図書館の本と『アルケミストライフ』のシステムから得た知識でそう判断する。
錬金は魔力を消費するため、一日に作業できる量は限られていた。消費した魔力は時間経過で回復するか、課金アイテム――魔力ポーションで回復することができる。
(ああ、でも、この世界で魔力ポーションは見たことないかも)
通常、ポーションで回復できるのは体力――ゲームでは採集で消費する――のみ。この世界の初級ポーションにいたっては、「ちょっと元気になったかな?」というエネドリ程度の回復力しかない、らしい。エルシアはポーションを飲んだことがなかった。
「……とりま、やりましょう」
エルシアは空の錬金釜の中へギザギザ草を放り込む。釜に立てかけられていた長い柄のレードルを持ち上げ、錬金釜の中へ入れた。
「……えっと、これでどうしろと?」
壺の底に葉っぱ一枚。シュールな絵面に、取りあえずレードルで葉っぱを動かしてみる。
(うーん。ゲームだと液体的な何かがいつも入ってたよね。レシピにはないけど、水かな?)
悩みつつ、エルシアが壺の底をコツコツつついていると、不意に釜の台座――水晶が光を放った。
「お、おー?」
一気に鍋の中を満たす光。揺蕩う水面のような煌めきが七色に光る。
「似てる、かも……」
『アルケミストライフ』の錬金スタート画面。ゲームと類似しているなら、この後――
「あ」
液体のような光の表面に、プクプクと泡が生まれ出した。鍋の湯が沸騰するのと同じ光景に、エルシアは勝利を確信する。
「いける! いけるよ、これは!」
エルシアは勢いよく鍋をかきまわし始めた。錬金を成功させるには、表面に生まれた泡を特定の順で潰していかねばならない。それが『アルケミストライフ』独自のゲーム性だったのだが、やりこみ勢のエルシアに死角はない。
(初級ポーションは手数勝負! 順番無視してもとにかく潰せば勝ち!)
エルシアは全力で鍋をかき混ぜる。グルグルグルグル、無心で。
ちなみに、初級ポーションのかき混ぜ手順は「の」の字に泡を潰すのが正しい。
無心で鍋をかき混ぜること凡そ三分。結果はすぐに出た。
「……これは、やったのではないでしょうか?」
光の消えた鍋の底に残る一掬いの液体。抹茶色のとろみのあるそれは、初級ポーションそのものに見えた。
「あ、そうだ! 瓶、瓶!」
エルシアは棚に駆け寄り、初級ポーション用の瓶――多分どれでもいいが一応ゲームと同じもの――を掴んで戻る。レードルでとろみ抹茶を掬い、慎重に瓶に注いでいった。
「……できた」
片手で握れる大きさのガラス瓶。円筒状の本体にガラス細工の葉っぱの蓋がついている。光に翳すと思いのほか透き通って見えて、なんだか――
「美味しそう」
そう思えたらもう怖いものはない。飲む。
閉めたばかりの蓋をキュッと開け、瓶の縁に口をつける。エルシアは中身を一気に呷った。
「っ!?」
騙された――!
原材料草。純度百パーの草。草原の味がする。
(マズい、マズいよ、コレ!)
一度口にしたものは無駄にしない主義のエルシアでも、これはキツイものがある。
(だけど、だけど、だけど……)
なんということでしょう。これだけの吐き気にも関わらず、エルシアの頭はスッキリ。疲労も軽減した気がするし、「もういっちょやるか」な気分になっている。
「……これが初級ポーションの力」
味さえ気にしなければ――つまり、悟りを開けば――、労働者の強い味方になってくれそうだ。
エルシアがフイーッと口元を拭っていると、玄関扉の向こうから声が聞こえた。
「妃殿下。すみません、扉を……」
「お帰り、スタン! いま開けるね」
エルシアは瓶を置いて駆け寄り、扉を開けた。
「わーお!」
扉の前に、両腕いっぱいにギザギザ草を抱えたスタンが立っている。
「すごい量! ありがとう!」
エルシアは扉を全開にして、スタンの通り道を作った。かなりの重さの草を抱えて、スタンは部屋の中へ入る。作業台の上にドサリと草の山を置いた彼が、軽く両腕を払った。
「大量に、とのことでしたが、これで足りるでしょうか?」
「うん、完璧! これだけあれば、暫くは困らないと思う。大変だったよね。本当、ありがとう」
「いえ」
静かに首を横に振るスタンを見て、エルシアはヘラリと笑う。頼りになる護衛に感謝だ。それから、彼の首筋――正確にはそこにある紋様をジッと眺めた。
(……やってみようか)
思い立ち、持ち込んだ荷物の元へ向かう。ザックを漁り、水入りの水筒と木炭一つ、更に岩塩を一欠けら取り出した。
「……妃殿下、それは?」
「っ! ちょ、ちょろまかしたとかじゃないよ! 『妖精さんの悪戯事件』の慰謝料代わりに料理長さんからいただいたの!」
嘘ではない。多少、「嫌がらせ目的で食材無駄にするとか、流石に陛下もオコなんじゃない?」と脅しはしたが。
「まぁまぁまぁまぁまぁ」
説明にも言い訳にもならない言葉でお茶を濁し、エルシアは錬金釜へ向かう。適量が分からないので、ゲームのイラスト頼りに「こんな感じか?」と釜の中に材料を投入していった。レードルを持ち上げ、中身をかき混ぜる。
(うーん。水は飲料水だからいいとして、炭が砕けて塩が溶けちゃったら……)
果たしてエルシアが目指すものはできるのか。
ゲームでは気にならなかった謎レシピに若干の不安を覚えつつ、エルシアはレードルを動かした。ポコポコと発生し始めた泡を潰していく。
(十字を切る。十字を切る。十字を切る。レードル重っ!)
次第に重くなる液体に合わせて、魔力の光が強さを増した。最後に、一際眩い光を放って、錬金釜は光を失う。釜の底、出来上がったものに、エルシアは肩を落とした。
「妖精さーん……」
めっちゃ悪戯された。
先日のフォアグラどころの騒ぎではない。釜に残ったコールタールのような何かは、異臭さえ放っている。初級ポーションが上手くいって調子にのったが、やはりそう簡単な話ではない。
(敗因はやっぱり経験不足、錬成レベルの低さかなぁ?)
魔力の液体が重すぎて、上手く十字を切って泡を潰すことができなかった。
「……これはちょっと、練習が必要かも」
方針を改めることにし、エルシアは釜の中のコールタールを空き瓶に移す。それから、壁際で見守るスタンに声をかけた。
「スタン。私、今から作業モードに入ります。暫くぶっ通しで錬金してるから、スタンは好きに過ごしてていいよ」
「好きに……?」
「うん。あ、荷物の中にパンとか肉とか野菜とか入ってるから、お昼ご飯も適当にとって」
それだけ告げ、エルシアは作業台の上に置かれたギザギザ草をとる。まずは一枚。先ほどと同じ量で、但し今度は正しい手順で初級ポーションの作成を開始した。
作業を開始してどれくらい経ったのだろうか。
外はとっくに暗闇で、途中二度、スタンが食事――サンドイッチを渡してくれたから、晩御飯の時間を過ぎているのは間違いない。
もう何度目かの初級ポーション作りを完了させ、エルシアはポーション瓶を作業台に並べた。
(二、四、六、八、十。……掛けるの、二十?)
凡そ二百。ズラリと並ぶ瓶の形は様々。途中で初級ポーション用の瓶が切れ、今は適当に選んだ瓶に詰めている。
(単純作業だけど疲れるなぁ。腕痛いし、頭がボーッとする)
並んだ瓶を眺めて、エルシアはその内の一つを手に取った。蓋を開け、中身を喉の奥に流し込む。
「っ!」
慣れることのない、本日何度目かのマズい。エルシアの頭が少しだけスッキリする。
「……あれ、スタン?」
漸く、エルシアはスタンが部屋に居ないことに気付いた。途中何度か、主にギザギザ草の追加採集に出てくれた彼だが、今は一体どこに居るのか。
(もしかして、寝ちゃった?)
二階を確かめてみようかとも思ったが、今はその距離を移動するのがしんどい。
諦めて、エルシアは錬金釜の前に戻った。
「……今日は徹夜かなぁ」
泡潰しにはだいぶ慣れたが、まだまだ「これならいける!」という確信にはいたらない。初級ポーションのマズさ――品質の低さが何よりの証拠だ。エルシアは再びレードルを握った。
夜明け頃――
レードルを支えにうつらうつらしかけていたエルシアはハッと気づく。
(あれ? 私、全然、魔力枯渇してなくない?)
夜通しの作業にも関わらず――体力は奪われたが――、錬成自体は問題なく行えている。今も、半分寝ぼけて作ったポーションが、ちゃんとポーションになっていた。
「お、おー……!」
自らのポテンシャルの高さに気付いたエルシアはハイになる。おかげでかなり目が冴えた。調子づいたエルシアは、最新作の初級ポーションを瓶に注ぐ。
(これで美味しくなってたら、言うことなし!)
一気に呷る。
「んっ!」
(ん、ん、んー!!)
マズくは、ない。「健康のために毎日一杯」を続けられる美味しさになっている。
最後の一口をゴクリと飲み込み、エルシアは空になった瓶を宙に掲げた。
「大、勝、利!」
だがまだここで終わりではない。むしろここからが本番。昨日のリベンジだ。
エルシアは再びザックを漁り、水、炭、塩を用意する。順に錬金釜に投入し、「よっし!」と気合を入れた。レードルを両手で持つ。
ポコポコと泡立ち始めた水面を、大きく十字に切っていく。昨日とは違う手応えに、エルシアは内心で高笑いした。
(フハハハハ! 動く、動くぞー!)
新生エルシアの手にかかれば、中難易度アイテムの錬成も最早敵ではない。徹夜明けテンションの勢いでかき混ぜ続けること五分。釜の中が激しく発光し、光が収束した後に一掬いの無色透明の液体が残された。
「で、できた……?」
エルシアはこの時のためにとっておいたガラス瓶に液体を移す。五角柱の本体、蓋の上に十字をあしらった意匠の瓶の中で、液体が薄く七色の光を放つように見えた。
聖水。
魔を祓う聖なる力を秘めた水は、『アルケミストライフ』のイベント「騎士団からの依頼シリーズ」で初めて錬成する。品質は低いが、これさえあればもしかしたら――
「スターン!」
興奮を抑え切れなくなったエルシアはスタンの姿を求め、二階への階段を駆け上がる。二つ並んだ部屋。そのどちらかが彼の部屋なのだが、そう言えば、二階へ上がるのは初めてだ。どちらの部屋かも分からず、エルシアは手前の部屋の扉をドンドンとノックした。
「スタン、起きてる? 起きてない? 起きて起きて!」
返事のないまま扉を開けるが、部屋の中はもぬけの殻。ベッドに人が寝た形跡はなく、部屋はシンと静まり返っている。
「違った。あっちか!」
すぐさま、エルシアはもう一つの部屋へ向かう。同じようにノックをし、扉を開け放った。
「スタン! ……って、いない? えー!?」
慌てて、下の階へ引き返し、キッチンや風呂トイレ――入っていたらどうすんだというところまで隈なく探す。が、やはり彼の姿は見当たらない。
(えー? 本当にどこ行っちゃったの?)
まさか、庵生活のあまりの退屈さに城へ帰ってしまったのだろうか。
エルシアは急いで玄関扉へ向かう。扉を開けて冷たい空気の中に飛び出すが、朝もやの中には人っ子一人見当たらなかった。
(どうしよう……)
不意に不安が押し寄せる。誰もいない森の中。唯一の護衛の姿もなく、おきざりにされた心許なさが募った。
エルシアは、手にした瓶をギュッと握り締める。スタンを求めて朝もやの中に足を踏み出そうとした時――
「妃殿下……?」
「っ!?」
背後――庵の裏手から現れた黒ずくめの男の姿に、エルシアはホッとした。
「スタン。……どこ行ってたの?」
「追加の薬草を取りに。遠くまでは行っておりませんが」
そう言った彼の手にはなるほどギザギザ草が握られている。そしてなぜか、彼の眉間には深い皺が。
「妃殿下こそ、どうして外へ? 私が戻るまで、危険ですから外に出ないようにとお願いしたはずですが?」
「え、そんなこと言った?」
申し訳ない。それは一体何時ごろの話だろうか。
エルシアの記憶にある彼との会話は、夜のサンドイッチにハムとチーズが挟まっていて「美味しかった」と感想を伝えたきりだ。その後に関しては全く記憶がなかった。
「……すみませんでした!」
記憶にはないが、スタンが意味のない嘘をつくはずもなく、エルシアは素直に謝る。
嘆息したスタンに促されて庵に戻ったところで、エルシアは改めて彼と向かい合う。それから、意を決して口を開いた。
「スタン、あのね? あの……」
意を決したはいいが、やはり、言葉にするのは難しい。錬成直後の興奮が収まった今、エルシアの中に躊躇が生まれていた。
エルシアは決して自分に自信のある人間ではない。自分のことなのに思い通りにならないことが山のようにあって、それだけで手一杯。だから、誰か――スタンの力になれると胸を張って言うのはとても勇気がいる。人に「希望」を与えて、「やはり無理」となるのが怖かった。それが、どれほど互いを打ちのめすかを知っているから。
それでも、「何もしない」という選択肢は選べない――
「私、スタンの呪いを解呪できるかもしれない」
踏み込んだ言葉に、彼は表情を変えなかった。エルシアは大きく息を吸う。
「ううん。解呪する、できる。でも、一度じゃ無理だから、一緒に挑戦してくれないかな」
エルシアは手にした瓶を掲げて見せる。スタンは瓶をジッと見つめて口を開いた。
「……一晩中、何か作られていたのは、ソレですか?」
「うん、聖水! これを錬成するための練習だったんだけど、あ、もちろん害はないよ、大丈夫!」
言って、エルシアは瓶の蓋を開ける。中の液体を数滴、自身の手の甲にかけてみせた。
「ね?」
黙って見守っていたスタンは暫く考え込み、やがて、ゆっくりと首を横に振る。
「解呪は必要ありません。私は自身の役目を果たしました。それで死ぬのであればそれまでのこと」
「わ、分かるけど、スタンの言いたいことも……」
納得しているかはどうかはともかく、一度受け入れた死に抗うのはキツイ。「今度は」、「今度こそは」と気持ちを奮い立たせたのに、それが駄目だった時の絶望。「だったら最初から」と思ってしまうのだ。その気持ちは分かる。
「い、いや、やっぱ分かんない!」
エルシアは俯きかけていた顔を上げる。
「私なら絶対に諦めない! 泣いて喚いてすがって、それでも生きたいもん!」
スタンを睨み上げ、瓶を持つ手を振り上げる。
「スタンがその気なら、私は私で好きにやらせてもらいます! 嫌なら避けてね!」
言って、エルシアは瓶の中身をスタン目掛けてぶちまけた。宙を舞う液体が虹色に光ったものの、それは一瞬のこと。無色透明の液がスタンの顔を濡らす。流れ落ちる液体が彼の首筋を流れ落ち、服に染みを作った。
エルシアは、彼の首筋、詰襟からのぞく黒の紋様をジッと観察する。
「あ……!」
思わず声が漏れた。
聖水を浴びたところから、紋様が徐々に色を変えていく。どす黒さが少しだけ色を失って――
「や、やったー!」
歓声を上げ、エルシアはスタンに飛びつく。彼の服の合わせに手を掛けた。
「スタン、ちょっと服脱いで! 服の中、ちゃんと見せて!」
無理やりひん剥こうとした手を、力強い手に押し留められる。暫し無言の攻防を繰り広げた末に、スタンがため息をついた。
「……解呪、できそうなのですか?」
「できる! できるよ、私なら! もっと錬成して、同じアイテムだけじゃなくて、新アイテムとか難易度高いので練習すれば、絶対できる!」
自己暗示も兼ねつつそう宣言すると、スタンは「分かりました」と頷いた。ついでに、エルシアをベリッと引き剥がす。
一歩、後ろに下がった彼が頭を下げる。
「よろしくお願いします」
「っ!」
エルシアの内に何かが膨らんだ。ぶわっと。背中を押されるどころか、宇宙に打ち上げられる勢いの何か。
「ま、任せて! 私、絶対諦めないから! あ、あと、スタンにも素材採集とか色々お願いすると思うからよろしくね! それからっ!」
興奮しすぎただろうか、エルシアの視界がクラリと揺れる。
「あ、やば。これ、あれだ……」
寝不足と疲労。最後の聖水錬成で魔力を大量に消費したのもマズかった。よろめいたところで、スタンがガシリとエルシアの身体を支える。そのまま、いつかのように軽々と抱えらえてしまった。
「……とりあえず、休息を」
「うん、そうだね。ごめんごめん」
スタンに抱えられたまま、エルシアは庵の中へ運ばれる。油断すると瞼がすぐにくっついてしまうが、「扉をあけてください」というスタンの声には何とか従った、と思う。夢現に「後は任せた」と呟いて、エルシアは抗えない眠気に身を任せた。