私達、政略結婚ですから。
どれほど時間をかけて関係を築いてきても、それが崩れるのは一瞬だ。
「ザイデルバスト殿下、どうかオルヒデーエ様を許してあげてくださいませ。オルヒデーエ様と殿下は政略結婚、しかしオルヒデーエ様はきっと殿下を愛してしまったのです。すべての行動は、殿下を恋い慕うあまりのことなのでしょう」
私の隣では、伯爵令嬢のレディ・トゥルペが顔を覆ってさめざめと泣いている。殿下は、そんな彼女に視線を向けながら、僅かに口角をあげて頷いた。
「オルヒデーエが私を愛し、恋い慕うあまり、か」
「ええ、ですから、どうぞ彼女を責めないでくださいませ」
理不尽な恋敵をも庇うその心、誠に純粋で美しい――さもあらんと言わんばかりの表情の裏で、そうとでも思っているのだろうか。殿下の視線が彼女に向いていることすら耐えがたく、不敬は承知で俯いてしまった。
私は、ザイデルバスト王子の婚約者だ。婚約したのは生まれたとき。隣国の第二王女だった私は、生まれると同時にザイデルバスト王子殿下と結婚することを決められた。政略結婚だった。顔も知らぬのに、肖像画だけ見せられ、「将来はこの方と結婚するのよ」と言い聞かされてきた。覚えている一番古い肖像画は、確か殿下が5歳のときのもので、琥珀色の髪と、強い意志を感じさせる赤紫色の瞳に、なんて素敵な姿なのだろうと思った。肖像画は度々贈られてきて、そのたびに描かれる殿下は少しずつ大きくなっていたけれど、その顔を見れば一目で殿下だと分かった。
だから、ザイデルバスト殿下に初めて会った7歳のとき、まるで旧知の間柄のように感じた。ただ、そんな親近感を抱いていたのは私ばかりだったらしい。ザイデルバスト殿下はぶっきらぼうで、挨拶しても短い返事しかせず、政略結婚とはこのようなものかと、そのときは肩を落とした。
しかし、そのわりに便りはこまめだった。母国で暮らしている私のもとへ、殿下からは度々手紙が届いた。こちらが返事を出す前に次の手紙が届いてしまうことさえあった。その内容は、季節の移ろいや催し事、ほんのささいなことばかりだったけれど、結びには必ず私を労わる言葉があった。口下手で無愛想だけれど、きっと性根は優しい方なのだと、私はそう思うようになっていた。
14歳になる少し前、殿下から使者があった。何事かと思いきや、婚姻前に多少生活に慣れたほうがいいだろうから、こちらへ来て暮らさないかという提案だった。2つ年上の殿下を慕い始めていた私は、殿下のもとなら不安もないと、二つ返事でそれを了承した。
そうして王宮へやってきたのが、2年前――まさしくこの玉座の間で、私は殿下に迎えられたのだ。
「レディ・トゥルペ、改めて確認しよう。君は、オルヒデーエに毒を盛られたと、そう言ったな」
「はい、そのとおりです」
「それから社交界では足を踏まれ、仕込みナイフでドレスを切り裂かれたと」
「ええ、おっしゃるとおりです」
「それだけではなく――……」
連綿と続く私の罪状、どれもこれも全く身に覚えがなかったけれど、きっと殿下はそれを信じているのだろう。殿下が信じてしまっていることにも、殿下の口から私の罪状として紡がれることにも耐えられず、一生懸命聞かないふりをする。きっと今日が最後になってしまうのだから、そうだ、せっかくだからこの思い出の王宮の日々を振り返ろう。
この2年間は、責務に追われてあっという間に過ぎてしまった。王宮にやってきた私を待っていたのは、ザイデルバスト殿下に相応しい妃となるための教育、いや訓練の日々だった。王妃としての教育・教養は母国でも受けさせられたけれど、いざこちらの国に来ると「それは少々クラシカルですね」と指摘され、今まで覚えた作法を改めなければならなくなる。必要な言語も学んできたはずが、「最近新たに取引を始めた国があるので、そこの第一言語は必須です」と一から学んだものもあった。それどころか、「王妃たるもの、ときに自ら身を守ることも大事です」と短剣の扱いを学ばされたことまであった。ひとつひとつは些細なものでも、積み重なると負担となり、私は朝から晩まで拘束された。殿下も執務に忙しく、ろくに顔も合わせない日々が続いた。
これなら、手紙を送り合っていたあの頃のほうが、まだお互いのことを話せていたのに。そう落胆したこともあったけれど、そんなゆっくりとした日々を過ごす歳は過ぎてしまったのだと自分を叱った。もう私は14歳になった、あと2年もすれば結婚する、そんな歳になって、「今日はどんなことがありましたか?」なんてお花畑のような会話をする暇なんてないのが当たり前だと。
しかし、その我慢の糸がぷっつりと切れてしまった。半年前のことだ。
1年くらい前のある日、トゥルペと名乗る伯爵令嬢が殿下と出会った。
殿下が城下へ出かけた際、子どもが転び、その拍子に跳ねた泥が殿下の袖についてしまったらしい。近くには「王子の服を汚すなんて」と子どもを殴ろうとした大人もいる中で、レディ・トゥルペはすぐに子どもに手を差し伸べ、ハンカチを渡し、子どもの代わりに殿下に頭を下げたそうだ。身分の貴賤よりも道理を重視し、一方で子どもを庇う優しさと勇気がある、殿下はそう彼女を称え、転んで泣いている子どもにはりんごを、彼女には褒美をとらせたらしい。
その褒美というのが、彼女が肌身離さずつけているアンティーク風のペンダントらしい。私はつい、横目でそれを見てしまった。
最初に彼女をみたとき、黄色い髪にグリーンの瞳を持つ、控えめで可愛らしい女性だと思った。しかし、彼女が王宮に出入りするようになり、また私に話しかけてきたとき、その印象は変わった。
『オルヒデーエ様、このペンダント、素敵でしょう?』
見せびらかすように、というのは私の被害妄想かもしれない。しかし彼女は、少なくとも私から見て、嬉しそうにペンダントを見せた。
『……ええ、素敵ね』
『殿下からいただいたのです。オルヒデーエ様のそのペンダントも素敵ですわね。殿下からいただいたのかしら?』
『……母から譲り受けたものよ』
『あら……。……ああいえ、なんでもありませんわ』
何も言わずとも顔で雄弁に語ってしまったのか、彼女はそう切り上げた。
『でも、お気になさることはないかと。だって、殿下とオルヒデーエ様は、政略結婚ですから』
ではご機嫌よう。彼女が身を翻すと、その胸の上でペンダントトップが跳ねた。ペンダントトップは、指輪だった。
殿下は、私にも贈り物はくださる。毎年、誕生日になると何かしら贈り物をしてくれた。大きな鷲の羽を使った羽ペン、花、花、不気味な木彫りの置物、花、難解な言語で書かれた詩集、花、花……。文句があるわけではなかったけれど、読めない詩集を贈られたときはさすがに「?」となって、これも勉強しておいたほうがいいという気配りかと、必死で解読した。でも正直意味が分からず、第一章を読んで挫折した。それは措くとして、殿下からの贈り物は花が多かった。兄達が「困ったときは花を贈れば喜ばない女性はいない」と話しているのを聞いたことがあったが、我が国は北の寒い国であまり花が咲かなかったから、贈られてきた瞬間は楽しんだ。ただ、すぐに枯れてしまって、手元に残ったのは私の手には大きすぎる羽ペンと、不気味な木彫りの置物と、重たい本だけだった。
安物でもいいから、私にも指輪を贈ってくれればよかったのに。そうすればいつでも殿下からの贈り物を身に着けていたのに。そう意気消沈しながら過ごしていたときに、レディ・トゥルペと殿下が、人目を憚るようにこっそりと王宮の一室に入っていくのを見てしまった。
指輪を、私には贈らず、彼女には贈る理由があったのだ。
以来半年間、王宮での私の立場は急激に悪くなっていった。
「レディ・トゥルペは殿下に指輪を贈られたそうだ」
「しかし殿下の婚約者はオルヒデーエ様では」
「だがオルヒデーエ様の手を見てみよ、腕輪ひとつつけず、寒々しいったら」
「あくまでオルヒデーエ様は政略結婚ですからな。殿下は心優しいレディ・トゥルペに心を奪われたのだよ」
「なにせ殿下が参内を許す唯一の女性であるからな」
「お二人が逢引きする場も目撃されているらしい」
「お父上が吏部官であるし、身分は申し分なかろう」
「オルヒデーエ様は所詮他国の女ですからな」
メイドたちが「お気になさらず!」と拳を握りしめて励ましてくれるものの、それではちっとも元気になれなかった。彼女達が気遣ってくれるのは分かっているけれど、それでも私は、殿下から一言「噂はすべて間違っている」と否定してほしかった。
そんなある日、殿下と夕食を摂る機会があった。1年半以上、片手で数えるほどしかなく、しかも殿下はろくに会話もせず黙々と食べるだけだった晩餐の時間だ。
「殿下、レディ・トゥルペに……あの、ペンダントを贈られたのですか?」
そのとき、我慢の限界がきていて、つい訊ねてしまった。噂は色々ある中で、レディ・トゥルペが指輪のペンダントを身に着けていることだけは事実だったからだ。
でも、はっきりと「指輪」と口にすることは憚られた。そのくらい、私にとってショックだった。
殿下は食事をとる手を止め、じっと私を見つめた。その赤紫色の瞳がまっすぐ私を見たのは、いつぶりか。
「……贈ったが」
それがどうかしたのか? そう聞こえてきそうな返事に、思ったよりも動揺しなかった自分がいた。「指輪」とは言えなかったくせに、どうやら私は、自分で思っていた以上に、殿下との関係を諦めていたらしい。
「……もうひとつお訊ねします」
「なんだ」
「……殿下と私は、一体どういう関係なのでしょう?」
殿下は顔を上げた。なんだそれは、なんの質問だ、そう言いたげな怪訝な顔をしていた。
「私達は政略結婚だが。君も分かっているだろう?」
それがどうかしたのか。そう目だけで訊ねられた気がして、首を横に振った。
「……ええ。分かっております」
「それならいい」
殿下は、それ以上話すことはなさそうに、黙々と食事をとった。
ああ、そうか。考えてみれば、私は殿下を恋い慕っていたけれど、殿下がそんなことを口にしたことはなかった。私は頻繁な便りを受けて、勝手に殿下と自分の気持ちが同じだと思い込んでいただけなのだ。私達は所詮政略結婚で、あれは殿下の政治的配慮の結果に過ぎなかったのに。
なんて、恥ずかしい。その場で、私もそれっきり、口を開くことはできなかった。
私がレディ・トゥルペに様々な嫌がらせをしていると聞くようになったのは、それからだった。
そして今日、殿下に呼ばれ参上すれば、玉座の間にはレディ・トゥルペがいて、私はその隣に立たされた。王宮内でまことしやかに囁かれる噂、殿下の無愛想な態度、一方で彼女と秘密裏に会い、指輪を贈る関係性……それに鑑みれば、自分の身に何が起こるのか予想はついていた――王宮官僚たちの前で、私はこれから婚約の破棄でも言い渡されるのだろう。内々に破棄すれば政治問題に発展するが、私に非があったと明らかになれば、我が国は黙って受け入れるしかないのだから。
ひとしきり罪状が確認された後、私は顔を上げた。殿下は陛下の隣に立ち、自ら書簡を手にして頷いていた。
「なるほど、レディ・トゥルペ、よく分かった。オルヒデーエ」
「ええ、婚約破棄でございますね」
予想どおりの展開に、つい言葉を引き取ってしまった。言葉が震えることも、泣き出してしまうこともなかった。
集まっている王宮官僚たちからは、クスクスと笑いが零れる。今日いよいよ私が断罪されるらしい、というのは王宮内でもっぱらの噂であり、既に室内の整理も終えた後だった。
が、殿下が書簡から顔を上げた。赤紫色の瞳には、まるで意味が分からないとでも言いたげな険しさがあった。
「――何?」
それだけでは足りないと言うのだろうか。そうかもしれない。ふ、と自嘲気味の笑みがこぼれてしまった。罪状によれば、私は将来の王子妃を害そうとしたのだ。婚約破棄で済ませてもらおうなんて、私は性懲りもなく殿下に甘えてしまっていたようだ。
「ええ、我儘とは承知しております。しかし、どうかこれを国の問題にはしないでいただきたく、婚約破棄に留め……いえ、私の首ひとつに留め――」
「さきほどレディ・トゥルペも言っていたではないか、オルヒデーエは私を愛し、恋い慕っていると!」
……何? 話が噛みあっていないことに気が付き、口を噤んだ。何の話?
「……いえ、殿下……あの、いまお話ししているのは」
「レディ・トゥルペが勝手に申しているだけで事実ではないと、そう申すのか!?」
「いえ殿下……あの、私の罪状は承知いたしましたので、どうかお慈悲をと……」
「罪状?」
「……さきほど、読み上げなさったでしょう?」
いや、もちろん半分以上聞いていなかったのだが、延々と紡がれていたはずだ。おそるおそる訊ねると、殿下は眉間にしわを寄せた。
「……レディ・トゥルペの罪状が、なぜ私達の婚約に影響する?」
「はい?」
「私には罪などございませんわ、殿下!」
「罪がないだと!?」
レディ・トゥルペを睨みながら、殿下は書簡を握り潰しそうな勢いで叫んだ。
「私とオルヒデーエの仲を邪魔した時点で、貴様は万死に値する! 本当はこの一年間、貴様さえいなければ私はオルヒデーエと楽しい時間を過ごしていたはずであった! それを貴様の父親が贈収賄を繰り返し悪質かつ恣意的な人事を行ったせいで私はその対応に追われ、オルヒデーエと過ごす時間を貴様への事情聴取に費やす羽目になり、共に食事をとったのも実に三度しかない! それだけでも許しがたいところを、オルヒデーエに不名誉な噂を流すなど……もちろん貴様の目論見などとうに見通している、私とオルヒデーエの婚姻を邪魔し、自らが王族になろうと汚らしい野心を抱いているのだろう!」
……何? ポカーンと、開いた口が塞がらなかった。いつも言葉短い殿下が立て板に水のごとくまくしたてる様子は、まるで別人のようだった。日頃の淡々とした喋り方とも全く違う。
「な……なんのお話をしていらっしゃるのです、殿下! さきほど申し上げたではありませんか、オルヒデーエ様は私に――」
「貴様が毒を盛られたと話す茶会の時間、オルヒデーエは私の使者として侯爵令息への挨拶に出かけていた。もちろんメイドらも連れてだ」
「しかし社交界で――」
「貴様が足を踏まれドレスを引き裂かれたという社交界だが、私の婚約者たるオルヒデーエが一人で向かうことはない。また私と共にいるときは常に挨拶まわりで忙しく、貴様の足を踏む暇もない」
「それだけではなく、私を階段から突き落とし――」
「その時間、家庭教師がつきっきりでオルヒデーエに語学を教えていた。その間離席はなく、そもそも貴様が落ちた階段とは二十分近く離れた部屋にいた」
「だ、大体、オルヒデーエ様は日頃から短剣を持ち歩く危険な方で――」
「当然だろう! オルヒデーエの美しさに心を奪われた不埒な男が襲ってきたらどうする!」
あ、短剣を使った訓練とは何事かと思ったら、殿下のご指示だったのね。状況も忘れ、そんなことに気が付いた。
「大体、オルヒデーエは他人を貶めようとするような卑しい者でないことは誰よりこの私が知っている! そのオルヒデーエに難癖をつけようなど、身の程を知れ!」
呆然としているのはレディ・トゥルペだけではなかった。私が婚約破棄されるに違いないと思っていた王宮官僚たちはどよめき、困惑を顕わにしていた。
「確かに、吏部官をお見掛けしないな……」
そんな中、誰かが呟いた。娘が新たな婚約者に選ばれるはずの晴れ舞台に、その父親が不在だと。
やれやれ、と宰相が困ったように、広い額を掻いた。
「……殿下、落ち着きなさってください。伯爵を贈収賄の罪で逮捕したことは、この後の会議で明らかにする予定だったでしょう」
「……すまない。つい我を忘れて感情的になってしまった」
む、と殿下がやっと口を閉じた。宰相と殿下を見比べていると、陛下も呆れた顔で殿下を見上げる。
「お前は将来の王として非常に申し分なく育ってくれているが、どうにもオルヒデーエのことになると冷静さを欠くな。いい加減にしてはどうだ、来月には結婚するというのに」
「は、いえ、しかし陛下、オルヒデーエというのは不思議な存在でして、なぜか日ごとに美しくなってしまい、離れたところから何度も見て、これでようやく目を見て話すことができると思った次の日にはまた振り出しに戻ってしまうと言いますか……」
「しかしね殿下。レディ・トゥルペが『オルヒデーエ様が殿下を愛し、恋い慕うあまり』と口にした瞬間、まったく見ている私が恥ずかしくなりましたよ。これほどの臣下を前にしながらだらしなく鼻の下をお伸ばしになって……」
「オルヒデーエが私を愛し、あまりに恋い慕うというのだぞ! 僧侶でも頬を緩めるに決まっておろう」
……本当に、何の話?
「まあ落ち着くがよい。ザイデルバスト、今回の件はお前に任せたのだ、早く裁きを進めよ」
「は、はい。コホン、ではレディ・トゥルペ、貴様の父親の罪でありながら赤裸々に事情を述べ、捜査・逮捕に協力したことにはまことに感謝する。しかし、それとは別に、この半年間をかけて貴様がオルヒデーエの社会的地位を低下させようと企て流布した噂の数々はオルヒデーエの侮辱に等しく、極刑に値する」
「殿下、お待ちください!」
状況はよく分からないままだったが、あまりに大真面目に極刑などと口にする殿下に、慌てて口を挟んでしまった。
「いまの……いまのお話、私もまだ十分咀嚼できていない部分はございますが、虚偽の事実を流布し、私を貶めようとしたと、ただそれだけなのでしょう? それなのに極刑は、先例に照らしあまりに重すぎます! 本来は罰則金程度の罪なのですから、私情を挟まず、ここはどうか穏便に、公平に処断すべきではないでしょうか!」
「しかしレディ・トゥルペはオルヒデーエ、君を侮辱したのだぞ」
「それは存じております、しかしそれは……」
ちらと、レディ・トゥルペに視線を向けた。どうやら彼女も何が起こっているのか分かっていないらしく、ぽかんと間抜けに口を開けていた。
「……それは……おそらく、その、殿下を恋い慕うがあまり、行き過ぎた行動に、出てしまったのでは、ないでしょうか……」
おそらく、きっと。その場では、そのくらいしかレディ・トゥルペを庇う言い訳が思いつかなかった。
「それは君への侮辱をしていい理由になるのか?」
「いえ、なるとは申しませんが……その、私も、気持ちは分かると、いいますか……」
実のところ、レディ・トゥルペが口にした罪の中には、唯一心当たりがあった。決まりが悪く俯いてしまいそうになったけれど、これだけはと意を決して顔を上げる。
「……私、彼女が殿下からペンダントを贈られたことが羨ましく、嫉妬にかられ、彼女を睨みつけたことは否定できないものと、考えております」
本当は睨みつけたつもりなんてなかったけれど、指輪のことを自慢げに話す彼女を見る自分が、どんな顔をしていたか。優しく穏やかに見守っていた、他人事のように無関心に見ていた、そのどれも違ったと思う。
「私自身、そういった私情を持って接し、不適切な行動をとった側面があったように思います。特に、私は殿下の婚約者という身分にあり、自らの些細な挙動が他の者のそれと比較して極端に受け取られる可能性がございました。それだというのに……、褒賞を羨ましがり、それを睨むとは……ただ見つめていたつもりではありましたが、非常に、軽率であったと、反省しております。私にも非がある、この点を勘案し、どうか寛大なご処置をいただけないでしょうか」
「……む」
殿下は眉間にしわを寄せしばらく悩んだ。
しかし、ややあって頷く。
「君がそこまで言うのなら、一考に値しよう」
いや、そうじゃなくて、極刑を今すぐ撤回してあげてください。さすがにこれで極刑は可哀想過ぎるので。そう付け加えたかったけれど、宰相から「あなたが絡むと殿下は凡夫以下なので」と耳打ちされ、黙ることにした。
「さて、レディ・トゥルペ。貴様の身勝手かつ理不尽な行動に対し、寛大な心で酌量の余地ありと述べるオルヒデーエに言うことがあろう」
レディ・トゥルペは何が起こっているかまだ分かっていないらしく呆然としていたけれど、「レディ・トゥルペ!」殿下の叱責で我に返ると同時に、その目にぶわりと涙を滲ませた。
「ご、ごめんなさ……」
「それが私の婚約者への謝罪の仕方か!」
「た、大変申し訳……」
「頭が高い!」
「あの殿下、もう結構ですから……」
まさしく、この遣り取りの時間こそ無駄というほかない。口を挟んだものの、殿下は「けじめはつけねばならん!」と聞き入れず、結局レディ・トゥルペは、王宮官僚揃い踏みの場で平身低頭し「大変申し訳ありませんでした」と謝罪し、そのまま衛兵たちに連れていかれた。
で、どういうことなのか。珍しく夜に時間ができたと、殿下は私の寝室を訪ねてきた。しかし、何を喋るでもなく、黙々と紅茶を口に運んでいる。
「……殿下」
「なんだ」
「……なぜレディ・トゥルペにあのペンダントを贈ったのですか」
半年前と同じ質問をした。殿下はカップを持ったまま止まり、私を見た。
「彼女が子どもを庇った、その褒賞としてだ」
「なぜ、あのペンダントだったのですか」
「彼女がそう望んだそうだ」
「望めば贈るのですか?」と言いたいのを、ぐっと堪えた。
私と殿下の擦れ違いは、すべて言葉足らずのやりとりにあったのではないか。玉座の間での遣り取りを通じて、そんな予感がしていた。
「……望んだそうだ、ということは、もしや殿下がご自身でお贈りしたものではないのですか?」
「ああ。子どもを庇ったことへの褒賞だ、その程度のものであればいくらでも出ているし、私が下賜するほどのものではない」
「……確認なさらなかったのですか?」
「もちろん行為に照らして適切な褒賞の範囲内になっているか確認させた。確か彼女の行動は貴族として模範となるべき行いをしたというものであるから、そうだな、価格としてはりんごくらいだろうか」
確か、あのときに子どもに贈ったものもりんごだったはずだ。殿下はそんなことを言ってのけた。ということは、彼女が大切そうに身に着けていた指輪はオモチャのようなもの、アンティーク調だと思っていたのは正真正銘の安物だったのだ。
「適当に選んで贈るようにと指示しておいたが、そういえば決済したのは彼女の父君だったな」
そういえば、昼間に更迭されたレディ・トゥルペの父は吏部官で、この手の決済権限も持っていたのだ。そのことに気がつくと、話が繋がった。
静かにカップを置くと、殿下は慌てたように身を乗り出した。
「もう休むのか、であれば私はこれで――」
「違います。どうぞ今一度おかけになってください」
今までなら、殿下のその行動は「忙しいからもう帰る」くらいに見えていた。しかし今日は、「疲れているなら遠慮するな」と、そう言われている気がした。
「……つまりこういうことですか。褒賞を与えるべきと指示した後、手配をしたのは吏部官、つまりレディ・トゥルペの父君だった。だからあのペンダントを贈ったのはレディ・トゥルペの父君のご指示」
「ああ、もちろん褒賞の程度によっては私か、陛下自ら下賜するが、あの程度ではいちいち確認などしていられない。もちろん、レディ・トゥルペとその父親となれば不当に高いものを贈る可能性はあったから、価格と物は別の者に確認の指示を出している」
「……殿下は、女性に指輪を贈ることの意味を御存知ですか?」
「……指輪?」
「ええ。レディ・トゥルペは殿下から指輪を贈られたのだと常々話しておりました」
「……何!?」
テーブルを両手で叩き立ち上がるほどの狼狽っぷりに笑いだしてしまった。そうか、そういうことだったのか。
「な……なぜ指輪など! ペンダントではないのか!」
「ペンダントトップが指輪でした」
「……表向きはペンダントということにして王家からの指輪を手に入れたというわけか。今すぐ牢に衛兵を向かわせ没収させる、そんな誤解を招くものなど身に着けさせるべきではない」
「……ええ。ですから私も、殿下はレディ・トゥルペを良き人に選び直そうとしているのだと思っておりました」
「馬鹿な!」
今まで怖くて聞くことができなかったことが、狼狽する殿下相手だとするすると糸がほどけるように簡単に出てきた。
「レディ・トゥルペが殿下から指輪を贈られたと話している、そう耳にしたことはなかったのですか?」
「あったが、全く身に覚えがなかった。何より、ちょうど一年前から、例のレディ・トゥルペの父親が不正を働いているという内部告発があってな。その調査を内々に進めるために、レディ・トゥルペには余計な話は一切するなと、特にこちらが敵対しているかのような厳しいことは言うまいということになっていてな……」
「……レディ・トゥルペと殿下が王宮の一室で逢引きなさっていたというお話もありましたが」
「レディ・トゥルペが王宮内に出入りするようになったろう? あれは父親との間で内密に物の授受をしているのではないかと、要は不正の一端を彼女が担っているという疑いがかけられたのだ。王子直々に疑ってかかっているとは思われまいということで、私が秘密裏に彼女に事情聴取をしていたのだが……」
今年こそは君との時間が取れると思ったのに、あの伯爵一家め。殿下はそう毒づいた。おそらく殿下に近づくためだったものと思います、とは言わずにおいた。
「……殿下」
「なんだ」
「……殿下はなぜ、私に鷲の羽ペンを贈られたのですか?」
「そ、それはだな……その、オホン、恋人というものは、常に同じものを近くに置いておくことで相手をより身近に感じることができるそうだ。王子たるもの、眉唾かもしれないが、物は試しということで、私が執務で使うものと全く同じものを君に持ってもらってはどうかと」
「……あの不気味な置物は?」
「不気……いや、あれは確かに強面というべきかもしれないが、あの木彫りのものは南方では魔除けとして有名で。君の国で病が流行ったことがあっただろう、だからあれがあれば……いやこれは国政としてだな、婚約者たる君の国を慮るのは当然のことと思い、あの置物を」
「……あの詩集は」
「あの第二章七十七節にある詩に非常に心を打たれ、ぜひとも君にも分かちあってほしいと思い。いやこれはあくまで状況が似ているというだけなのだが、あの詩集の第二章七十七節は、私と君の国の間にある山脈から流れ落ちる川のように、非常に流れの速い川を題材にしていてだな、たとえ今は別れていてもいつか再会できると、そんな話がだな」
「……第一章で挫折しました」
「む、まあ、そうだな、あの東洋の言語はなかなか難解だ。恋文詩集と聞いて君に贈る手紙の参考にいいと思って読み始めたのだが――いや違う、私はあくまで参考にしようと思っただけで、私が君に贈った手紙は、断じて偽りなく、すべて私が書いたもので……」
「ええ、存じ上げております。だって、気の利いたことなんてひとつも書いていなかったんですもの」
殿下は心外そうな顔をしたけれど、私は、ふふ、と笑いを零してしまった。
四季の移ろいを表現するのに、詩のような美しい表現はなかった。赤いバラが咲いた、以上。菜の花が咲いた、以上。雪が積もり始めた、以上。春の式典で軍隊のパレードが行われた、以上。まるで報告書のようにぶっきらぼうな文章ばかりで、まるで付け加えるように、最後に「季節の変わり目は体に気を付けるように」「寒くなってきたが体を冷やさぬように」「病が流行っているから滋養のあるものを食べるように」と書いてあるくらい。
「……それから、贈り物に花が多かったのは?」
「……それはだな、その、あくまで王子たるもの儀礼と慣習に沿うべきだと考えて……」
「儀礼と慣習とは?」
「……我が国では、春の式典で意中の女性に花を贈るのが、慣習であってだな……」
そういえば、私の誕生日は春の式典の少し後だ。誕生日に贈られてくる花とセットの手紙にも、いつも「春の式典が催された」と書いてあった。
質問に対してらしくないほど饒舌に答えていた殿下は、そこまできて口を閉じた。その頬が、赤く染まっていく。
「……それから、王女の君に宝飾品を贈っても、大抵のものは持っているだろうし、君が父君や母君からもらうものと同じになってはいけないし、金で張り合うようなことをしても失礼で、君は喜ばないと思ったし……君の国は、冬が長くてあまり花が咲かないだろう? だから、こちらでしか咲かない花を、贈ろうと、だな……」
殿下はそれきり口を閉じてしまったけれど、充分だった。
私は、殿下からの手紙を読むたびに、口下手だけど性根は優しい人なのだろうと想像していた。それなのに、レディ・トゥルペのペンダントを見て、あれは政治的配慮に過ぎなかったのだと、勝手に殿下に落胆していた。
「……その、すまなかった、オルヒデーエ。他の者が色々と噂をしているのは耳に入っていたのだが、レディ・トゥルペは内々に調査を進めるべきことが多く、表立って否定して伯爵更迭の機会を逃すわけにはいかず……。それに、君が噂など信じるはずもないと、我々の婚約は盤石であるからなんら問題ないと高をくくって……君が傷ついていることを考えもせず……」
どれほど時間をかけて関係を築いてきても、それが崩れるのは一瞬だ――今日、玉座の間でそんなことを考えていた私は、なんて愚かだったのだろう。殿下が口下手ながら性根は優しい人なのだと分かっていたはずなのに、殿下がそうして一生懸命築いてくれた関係を、勝手に崩れたことにしたのは私自身だった。
「……殿下と私は政略結婚ではないのですか?」
「もちろん政略結婚だ」
まっすぐこちらを見つめながらそう即答されても、もう落胆することはなかった。そうですかと、そこで頷いて終わるのではなく、その口から続きを聞かせてもらおうと、辛抱強く待った。
殿下の目が泳ぎ始める。陛下によれば、殿下は、私と話すときはいつも緊張してしまって、ろくに喋ることもできずにいたという。
ややあって、殿下はボソッと答えた。
「……しかし、なんだ。政略結婚には、相手を好いてはならんという決まりはなかろう」
私達は政略結婚することが決まっている、けれども、それはそれとして、好きになってもいいではないかと。
殿下は「いやしかし、もちろんこれはたとえであって」と早口で付け加えた。
「政略結婚で情が移っては、いざというときに政治的に利用することができなくなるかもしれん。だから仮に相手を好いたとしてもそれは秘すべきと考えている。がしかし、これは好いていても秘せばよいのであって、好くこと自体は禁止されておらず、なにより婚姻それ自体によって互いの国の結びつきを強くするという目的は十二分に達せられているわけだし、そのいざというときが来ないよう万全を期していればそれは杞憂というものであって」
「殿下、殿下のお考えはよく分かりました。もう結構です」
そんな言い訳をしなくてもいいのにと笑ってしまったのだけれど、殿下は少々バツが悪そうな顔をした。
「……オルヒデーエ、私からも君に訊ねていいだろうか」
「……なんでしょう」
「……レディ・トゥルペが口にしたものは、九割方でたらめであったが……、その、君が私を恋い慕っているという点については、どうだろう? あれもでたらめであろうか?」
じっと見つめていると、殿下は「いやもちろん、宰相にも本気にするなと言われたし」とどこか強気な様子でそっぽを向いた。
「繰り返すが、我々は政略結婚だ。婚姻が決まった後の十四年間のうち顔を合わせたのは数えるほど、恋い慕うというのは、まあ、ないのかもしれないとは分かっている。婚姻より2年ほど早くこちらへやってきたところで、そう簡単に気持ちが変わるものでもないだろうし、君ほどの美しさがあれば引く手あまた、君の国は美男も多いともっぱらの噂であるし、あえて私を好きになる理由はなかろう。……レディ・トゥルペのペンダントに嫉妬したと口にしたのも、あれは彼女を救うための方便だったのだと、その可能性も、分かっている……」
殿下の言葉は段々尻すぼみになっていった。まるで自分で言いながら傷付いたかのようだ。
夕方、殿下がここに入ってくる前、宰相が訪ねてきたときのことを思い出した。
『殿下は、初めてオルヒデーエ様にお会いしたときに一目惚れなさったようでしてな。以後、なかなかオルヒデーエ様にお会いに行く暇がないことを残念がり、オルヒデーエ様の父上に申し入れ、なんとか婚姻の二年前に王宮に呼び寄せることを承諾してもらったのです。しかしこの二年間、特に今年はレディ・トゥルペの父君の不正調査のために忙しく、日中はなかなか時間がとれずにおりました。たまに夜に時間ができていたようですが、オルヒデーエ様が既にお休みになっており、婚姻前に王宮に呼び寄せておきながら寝室に入るなど不義理なことはできぬと、何も言わずに帰ることが度々あったのです。日中、オルヒデーエ様が殿下の執務室から見える中庭にいらっしゃるときを、それはそれは楽しみにしていらっしゃいましたよ』
でもペンダントの説明を聞くまで信じるものかと、頑なになっていた。
「……オルヒデーエ? どうだろうか?」
おそるおそる訊ねてくる殿下には何も言わず、私は立ち上がった。
殿下の視線は、私を追う。隣に立つと、ゆっくりとその身を動かし、私が座るぶんのスペースを空けてくれた。
そこに腰を下ろし、殿下の肩に腕を乗せ、身体ごと唇を寄せた。
ポカン、と殿下は間抜けな顔をしていた。日頃は意志の強さをうかがわせる赤紫色の瞳も、ぱちくりと瞬いている。
婚姻前に寝室には入るなんて不義理なことはできない、なんて真面目な殿下に、寝室で口づけるのは当てつけが過ぎただろうか。
まあいいか、誤解を招いてることは承知のうえだったようだし、このくらい。いつも言葉足らずな口に指を当て、微笑んだ。
「私達、政略結婚ですから。……ほかの皆さんには秘密ですよ」
ヒロイン面した悪役の煽りが初夜の煽りになりました。楽しんでもらえると嬉しいです。
以下ネタバレありのネーミングです。いずれも例によってドイツ語です。
名前=和名:花言葉
オルヒデーエ=蘭:優雅・淑女
ザイデルバスト=沈丁花:栄光・不滅
トゥルペ=チューリップ:黄色い場合は望みのない恋