迷鬼 10
ひなが目の前まで来ても、鬼は襲ってくるでも退くでもない。うううと唸っている。黒埜の言った通り、前も後ろも結界に阻まれて動けないのだろう。
ひなは大きく息を吸い、重みのない刀を両手でつかんで振り上げた。
「ひな」
その声に、腕が震える。胸の内も激しく震える。
平太の──声。
違う。
違う違う。
あれは鬼だ。平太ではない。平太は死んだ。
「俺を裏切るのか。たった一人の幼馴染を。殺すのか!」
ひなの両目がみるみる曇って、幾筋も熱い涙が伝う。
「そうしてお前は、そこの男とよろしくやっていくんだな! そんなこと絶対に許さねぇ! お前は俺のもんだ! 俺が死ぬならお前も死ね! 死ねぇェェッ‼」
鼓膜が破れそうなほどの怒号。怨嗟。
だが──
ひるまない。
頭を左右に振って涙を払いのけ、ひなは真正面から鬼を見た。
「大丈夫だよ、……平太」
呼びかける名を、他に思い当たらなかった。
「私もいつか、そっちにいくから。それまで、平太のことも、他のことも、みっんな背負って生きるから」
鬼のすさまじい形相を見据えながら、震える息を吐き出し、強く吸い込む。
「だからそれまで──」
さよなら。
全身の力を込めて刀を振り下ろす。
瞬間、平太の顔が、ぶっきらぼうな声がよみがえった。体は大きいのに、いつも弟みたいな幼馴染。不器用で、せっかちで、我儘で。
でも誰よりやさしい。
やさしかった。
──そんなこと思っちゃいけない。
それはほんの一瞬の躊躇だった。鬼の面相が突然平太に変わったとき、振り下ろす勢いがかすかに緩んだ。罠だ。そう頭でわかっても、体の反応を抑えることができなかった。
次の瞬間、幼馴染の泣き顔は再び鬼に変わり、大きな口を裂けんばかりに開いて吠えた。
巨大な右手が迫ってくる。避ける暇などあるはずがない。
が、鬼の手はひなの顔を引き裂く前に燃え上がり、真っ赤な果実のように弾けた。結界に触れたのだ。半ば吹き飛んだ腕はそれでも止まらず、残っていた二本の鉤爪でひなの肩を切り裂き、耳たぶの先を弾き飛ばした。
「………っ!」
真っ白な少女の顔に点々と赤い血が飛ぶ。ひなは歯を食いしばり、玉石を蹴った。抱きつくように鬼の懐へ飛び込む。漆黒の切っ先がするりと滑るように鬼の胸に埋もれ、そのまま背中から飛び出した。
ひなと鬼は、抱き合うような形で静止した。
ひなは泣きながら、鬼の肩を抱き、精いっぱい刀を押しつける。
すると、まるで子供のような細い声で、
「あ……ぁ………」
鬼は鳴いた。
「で……ぐ………ち……が……」
か細い、さびしい──
迷子のような声で。
「……や……っと………も……り……か…………ら…………」
ビュゥッ‼
突然、激しい竜巻が襲ってきた。玉砂利がザラッと音を立てながら乱れ飛び、体ごと持ち上げられて転がる。息ができない。何も見えない。このままどこか遠くへ吹き飛ばされてしまうのではないか。そう思うほどの強風であったが、また驚くほど唐突に、ぴたりと風はやんだ。
恐る恐る目を開ける。
鬼の姿はない。
ただ一振りの黒い刀が、乱れた白い玉石の中に埋もれているだけである。
「おひなちゃん!」
空に銀狐の叫ぶ声が響いた。
塀のうえから飛び降り、泣きそうな顔でこちらへ駆けてくる。その白い切り髪がまぶしいほど赤く染まっているのを見て、ひなは思わずあっと声を上げそうになった。塀から顔を覗かせた朝日が、ほんの一時のうちに庭全体を鮮やかな色に染め変えていた。
──きれい。
痛いほど美しい光景である。
石を踏む音に振り向けば、そこに黒埜が立っている。
黒埜はまぶしさに顔を歪めながら、されどいつもと変わらぬ黒い眼で、ひなを見下ろしていた。
そして一言、呟く。
「立てるか?」
「……はい」
ひなはこくりとうなずいた。黒埜の差し出した手につかまり、よろけながらも立ち上がる。
そうだ。
こうやって──人は立ち上がる。
何度だって。
立ち上がることができるのだ。
ひなはそう思って、急にまた涙がこみあげるのを感じた。
「おひなちゃーーーん!!」
そこにもっと涙で顔をぐしゃぐしゃにした銀狐が駆けてくるまで、もういくらもかからなかった。
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