迷鬼 9
えーん、えーん、えーん。
なくなよぅ、ひな。
えーん、えーん、えーん。
なくなったら。
えーん、えーん、えーん。
そんなにないたら、おれ……
えーん、えーん、えーん。
ひな、まってろ。たすけをよんでくる。
えーん、えーん、ひなもいくぅ。
けど、おまえ、もうあるけないだろ。
やだ、へーた、いかないで。ここにいてぇ。
いいか、ここをうごいちゃだめだぞ。
まって、まって、へーた、まって。
おっとうをつれてくるから。
へーた、いかないで、おねがい、へーた。
ひな、まってろな。ぜったいもどってくる。
へーたぁ。
へーたぁ。いかないでぇ。
えーん、えーん、えーん……
ずるりと水気のある音がして、ひなは我を取り戻した。
見ると、黒埜が左手からあの黒い刀を引き出している。すぐそばに火をまとった刀があるというのに、一切の熱を感じない。誠二郎の炎がひなを焼かなかったように、それはあやかしを燃やす炎なのだろう。
「待って──」
痛む頭を押さえながら、ひなは黒埜の腕に触れた。
「待ってください」
「何だ」
「手立てはないのですか。何か、平太を救う……」
「そんなものがあると思うのか」
あれを見ろ、と黒埜は顎をしゃくる。幼馴染に目をやって、ひなは叩かれたように顔をこわばらせた。
平太の姿が──変じている。
よく日に焼けた浅黒い肌が、今はまるで墨でも塗ったようにどす黒い。大きく見開かれた目は血のように赤く、食いしばった口から獣のごとく牙をむき出して、青筋の浮いた額からは尖った石──いや、角が生えている。
さらには、右手が元の倍以上も膨れ上がっていた。
「救うも救わないもない。平太とかいう小僧はとっくの昔に死んだ」
巨大化した手からは鋭い鉤爪が伸び、その一本一本が獲物を求めるように蠢いている。
「あそこにいるのは、その死体に憑依したあやかしだ。お前の花婿を殺めた鬼だ。ここで祓わなければ、また人を殺す」
「人を──」
ずきりと頭が痛んだ。ひなは顔をしかめながら、なおも黒埜の袖をつかむ手を離さない。
──人殺し。
その忌まわしい言葉を、かつてひなは投げかけられた。吐き捨てるように、叩きつけるように。そう言い放ったのは誰だったか。
──平太のおっかあ……。
そうだ。平太の母親だった。
思えば二人目の花婿が死んだとき、祟りがあると言い出したのも平太の家ではなかったか。そのときは父がとんでもないことだと怒鳴りこみ、戻って来てもまだ怒っていた。あいつらめ、まだあのときのことを逆恨みしているのか──と。
一人が戻り、一人は戻らなかったことを──
「…………私に」
袖を力いっぱい握りしめ、ひなは涙でしわがれた声を絞り出した。
「私に、刀を……お貸しいただけませんか」
黒埜がはっとしたように目を見張る。
「お前──」
「お願いします。黒埜様、どうか」
「…………」
黒埜はそれ以上言わなかった。
黙って黒い刀を差し出し、ひなも黙ってそれを受け取る。
刀は驚くほど軽かった。いや、軽いのではない。重さというものがそもそも備わっていないようだ。重さも、温度もない。手を離せば幻のように消えてしまいそうな、儚げな感触だった。それと同時に、己自身も刀と同質の存在になったような──現世から一歩遠ざかったような感じを覚える。
不思議な刀を手に、素足のまま庭へ下りた。ざり、と玉石が鳴る。埋もれそうになる足を引き抜き、ふらつきながら、一歩ずつ進んでいく。
鬼は低い唸り声を上げながら、真っ赤な両目でこちらをねめつけている。もはや若者の面影はどこにもない。あれはもう平太ではない。
ずっと──平太ではなかったのだ。
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