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迷鬼 8




 ひなはうつむいて額を押さえた。



「ひな。……こっちを見てくれ」



 苦しげな声。



「ひな」



 額を押さえたまま、そっと庭を見る。

 大人になりかけた若者の顔に、幼子のように心細げな表情を浮かべて、平太はひなを見ている。



「そんな奴の言うことを信じるのか。俺たちは、ずっと一緒にいただろ。友達だったろ。それなのに、なんでお前はそっちにいるんだ? どうしてだよ、なぁ!」


「……平太」


「俺はお前のためだったらなんでもできる。お前が嫌なら、村になんか帰らなくてもいい。どっか、誰にも見つからないところへ行って二人で暮らそう。そうしよう。俺と一緒に行こう!」



 思わずふらりと足が出た。



「お前がこっちに来ればいいだろう」



 その肩をつかんで押しとどめ、黒埜はよく通る声で庭に呼びかける。



「こいつを連れていきたいというなら、ここへ上がってこい。それなら俺は止めやしない」



 平太はまた別人のように目を吊り上げて、食いしばった歯を覗かせた。

 だが。

 動かない。

 玉砂利のうえに仁王立ちしたまま、そこから一歩も動こうとしない。



「できないだろう」



 勝ち誇ったふうでもなく、馬鹿にするようでもなく、黒埜の声はあくまで淡々としている。



「その足元に結界線がある。お前はそこから先には進めない。そしてお前が屋敷に侵入したときから、すぐ後ろにも同じ線が引かれた。うちの狐は鼠を捕るのが得意でな。獲物を誘い込んで出口をふさぐのは朝飯前だそうだ」



 どこかでひゅるりと口笛を吹くのが聞こえた。明け方の空に向かって、得意顔の銀狐が唇を尖らせる様が目に浮かぶ。

 ひなはようやく理解する。

 与吉と六助を村へやり。銀狐を待機させ。自らも明け方まで起きていた。黒埜はそうした準備をきれいに整え、あやかしが来るのを待ち構えていたのだ。



「森に取りこまれた子供は死して妖魔となり、伽を求めて村に戻った。言わば歩く死体だな。あやかしというのは本来、彼岸と此岸の狭間に存在するが、人の体を得たものは極めて此岸に近くなる。そうやって現世に近づけば近づくほど腹が減り、ゆえに生気を欲し、人を食う。俺たちはこういうあやかしを鬼と呼ぶんだ。つまり、加賀屋の大首やそこの奴のようなのが」



 鬼だ、と黒埜は念を押すように言った。



「村では年に一度くらい不審死があったようだな。だが、貧しい場所で人が死ぬのは珍しいことじゃない。それに、死ぬのは通りがかりの無宿人が多かったようだ。誰もそれらの死を結びつけなかった。しかし──」



 あるとき、死はつながったのだ。

 三人の男たちの死が。



「そいつはたぶん、お前のそばにいなければ人の姿が保てないんだろう。大首のように家に入りこみ、人になりすますことができなかったのはそのせいだ。以前、俺を襲ったときは角の生えた童の姿だったしな。大首は百年は生きただろう大妖だったが、それに比べれば力は弱い。だからこそ強い伽を手放すことを厭い、お前の花婿たちを次々と手にかけた──いや」



 あるいは、単なる妬みかもしれないが。

 ひなは呆然としながら、ゆっくりとまばたいた。涙の粒が頬を滑って落ちる。頭痛がひどくなっていた。頭の芯を握りつぶされるような痛み。

 その奥に、暗い森が広がっている──



「ひな!」



 記憶の闇をほどこうとするのを阻むかのように、平太が叫ぶ。

 ひな、ひな、と必死に叫んでいる。

 その声に引っ張られそうになりながら、意識はたたらを踏んでいた。もう片方からも引っ張るものがある。それは黒埜の冷静な目つきであり、そして幼い童の声であった。


 ひな、おひな──


 否、童の声が聞こえるわけではない。これは記憶の中に響く声だ。


 きをつけて──


 童は。

 仁太はそう言った。

 妹を守るために、今まで何度そんなふうに呼んだのだろう。前に平太が屋敷を訪れたときもそうだ。声に呼ばれていなければ、自分は。

 きっと、平太に会っていた。



「ひな!」



 平太──

 そう呟こうとして。

 ふいに記憶の闇が溶け、激しい痛みが目の奥を突き刺した。




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