迷鬼 4
「ひな」
──来た。
声が聞こえたとき、目覚めたばかりだというのに、心の中でそう呟いていた。
「ひな、おひな」
稚い童の声。耳慣れたその声。
目を開ける。部屋は薄暗い。夜明け前だろうか、闇は藍鼠のような色をしている。
むくりと起き上がり、布団を剥いで正座した。
見渡す限り姿はない。けれどその存在だけはひしと感じられる。
「……さっき……」
今なら──
伝えられるかもしれない。
「おっとうの……夢を見たの」
どこともなく、ただ闇を見つめながらひなは言った。
「私、おっとうの話を聞くのが好きだった……。中でもいっとう好きだったのは、コツコツさんの話。あれは何度聞いても怖いような、不思議なような……」
つい先ほどまで見ていた夢でも、自分はコツコツさんの話をねだっていた。
父は困ったようなうれしいような顔をして、幼い自分を膝に抱き、ぶっきらぼうだが温かみのある声でもって話をしてくれた。
『あの音は結局何だったんか……』
話し終えると、父はいつも首をかしげる。ひなも一緒になってかしげる。
そして──
「おっとうは、もしかするとあの音は、ジンタかもしれないって」
あるとき、そう言ったのだ。
「私は聞くの。ジンタってだぁれって」
父は答える。
『ジンタってのはな、おめぇの兄貴だ』
ひなが生まれる何年も前。両親にとっては初めての子だったが、生まれて十日も生きられなかった。
その赤子の名が──仁太。
『もしかすっとあの音は、あいつだったんじゃねぇかってな。そりゃ、かかぁが昔っから聞いてるやつは違うだろうよ。でも、俺が一緒に聞いたのはな。あいつのような気がするんだ。かかぁがさびしがらねぇように、会いに来たんじゃねぇかと思ってよ』
『……もういないの?』
『おめぇが産まれて安心したんだろ。でもな、きっとお天道様の向こうから、おめぇのことを見守ってくれているよ』
父はそう言って、娘の頭をやさしく撫でた。
大丈夫だ。
きっと仁太がおめぇを守ってくれる──
「…………仁太でしょう?」
堪え切れず、声が少し大きくなった。
ひなは自分の胸に手を当て、息をつく。それから顔を上げ、また闇を見つめた。
「あなたは……仁太でしょう?」
返事はない。
けれど、それ以外の答えなどないような気がする。
「お夕さんに呼ばれたとき、引き止めてくれた。あれは……私を守ってくれたのよね?」
童と夕とに呼ばれた、あのとき。
あのまま夕のほうへ行っていれば、無事では済まなかったろう。そもそもひなは囮であり、あやかしに襲われるのは覚悟の上だった。
しかし──
そこで記憶まで奪われていたとしたら。死んでいたとしたら。
せっかくの手掛かりを黒埜に伝えられず、ゆきの命も危なかったかもしれない。
「……ありがとう」
両目に涙をためながら、ひなはそっと頭を下げた。
「あなたは仁太かもしれない。違うのかもしれない。でも、これだけはどうしても伝えたかったの。私と、おゆきさんを……助けてくれてありがとう」
やはり、応える声はなかった。
自分を呼ぶ声が聞こえないということは、もうとっくに消えているのだろう。果たして、感謝は伝わっただろうか。
涙を拭きながら顔を上げる。
そこに。
童が坐している。
「あ……」
薄闇の中、ふっくりした子供らしい体つきに、丈の短い薄っぺらな着物をつけていているのが見える。白い小さな顔はまるで女の子のように愛らしい。顔立ちがどことなく自分に似ているような気がした。
「仁太?」
思わずそう呼びかける。
年は四つか五つくらいに見えるのに、童は気難しい表情をして口を結んでいる。
手を伸ばせば届く距離だ。そうしたい気持ちをひなは懸命にこらえた。
こちらから触れれば消えてしまう。そんな予感がした。
「ねえ、仁太」
聞いてもいいのだろうか。
きっと童は答えない。そもそも言葉にするのが怖い。
でも、ここで聞かなければ──
もう機会はないかもしれない。
その思いが口を開かせる。
「どうして………」
拳を握りしめ、かろうじて声を絞り出す。
「花婿を殺したの?」
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