首は躍る 9
「ほとんど死人のようだった弟は、それを見て息を吹き返したように元気になった。
どうやら向こうも一目で弟に惚れたらしい。女がどこから来たのか、素性も何もわかりませんでしたが、すぐに後妻に迎え入れた。いくら美代に似ているからといって、こうもすぐに立ち直るものかと周りは驚いたそうですが。とにかく元気になってよかったと、兄も胸をなでおろしました」
「ところがだ」
「それから少しして、妙なことが起こり始めた──」
「女中が変な物音を聞いた」
「弟は時々物忘れをするようになった」
「幼い娘の具合が急に悪くなった」
それは──と、宗右衛門が呻いた。
黒埜はうなずく。
「そうです。この家で起こっていることがそっくりそのまま、弟の家でも起こったんです。弟はある日気がつきます。自分は大切なものを忘れかけていると」
「そう、とんでもなく大切なもんを──」
「他でもない、それは美代のことでした。
あんなに好いた女のことを忘れかけている。それも新しい女房を迎えて、束の間忘れる、なんて生易しいものじゃありません。櫛の歯がぽろりと欠けるように、ひとつまたひとつ思い出が消えていくんです。
弟はそれに気がついたとき、何ともいえず恐ろしく、また厭な気持ちになりました。そして考えた。一体なぜこんなことが起こるのか。これはいつから始まったのか──答えは自ずと決まっていました。後妻を迎えてからだったのです」
「お美代にそっくりな、あの女」
「これに気づいた弟は、後妻をこっそり監視するようになった。妻は時折、姿の見えなくなることがあったんです。その行き先を突きとめようと、弟はある日離れのほうへ消えた妻を追って……見たのです。
己の妻がその離れで、美代の忘れ形見である娘を高々持ち上げ、その足首に口づけて、ごくごくと何かを吸い出しているのを」
「娘の顔はみるみる白く──」
「それはこの世のものとは思えぬ、異様な光景でした。弟は腰を抜かしそうになった。けれども娘を救い出すのが先決だ。座敷に取って返して小刀をつかみ、大急ぎでまた離れに戻ると、背中から近寄ってえいと妻を突き刺した。
ぎゃあと叫んだ妻の取り落とした娘を抱きかかえ、庭へ駆けだすと、そこに偶々兄が様子を見に来ていたんです。弟は兄に事情を話し、娘を託した。そうして再び離れに取って返すと、己の妻──いや娘の命を狙う物の怪と決着をつけようとしたのです。
ところが、いくら刺しても切っても死なない。悲しげな声でやめてくださいと叫ぶ。血まみれの顔で許しを請う。店の者も駆けてきて、旦那様がご乱心だと騒ぎたてる。このままでは取り押さえられ、物の怪を逃がしてしまう。
逃がしてはまた娘が狙われると、そう思ったんでしょう。弟は行燈の油を畳にぶちまけ火をつけた」
「そして」
「物の怪もろとも」
焼け死んだのです──
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