首は躍る 5
「あ……れ……?」
「はて。この姿に……何を見ましたかな」
傘で隠れて顔は見えないが、しわがれた老爺の声だ。黒い装束をまとい、手には大ぶりの錫杖を握っていた。身なりは坊主らしいが禿頭ではなく、真っ白になった髪を肩のところでばっさり切り落としている。
坊主が居酒屋にいるのも妙な話だが──
それ以上に、善三は先ほど垣間見た男の姿が頭から離れなかった。水でも浴びせかけられたように酔いが吹き飛んでいる。
あれは、誠二郎様だ。
間違いない。
「思い出した………」
ぶるり、と善三は震えた。
思い出してみると、どうして今まで忘れていたかわからない。
忘れていた己が恐ろしい。
あんなことを──忘れるとは。
いや。
「また……忘れるのか……?」
もはや己の頭が信じられなかった。
実は何度も何度も、こうして思い出していたのではないか。きっとそうだ。頭の隅にカツンと引っかかる感覚。あれは、思い出した瞬間の──まさにこの瞬間の名残なのではないか。
なぜ、忘れてしまうのだろう。
なぜ──
「憑いて……おりまする」
しゃん、と杖を地面に突いて。坊主がしわがれた声で言った。
善三ははっとして見上げる。
「憑いている、とは……」
「………」
「俺に……」
「左様」
坊主はしわくちゃの、枯木のように干からびた手を懐に入れると、一枚の札を取り出した。何やら奇怪な紋様と字がびっしりと記されている。
「これを……お持ちなされ」
しわがれた声。
「これを持っていれば、忘れることはありませぬ……」
「ほ、本当ですか。お坊様」
善三は藁にもすがる気持ちだった。
この際どんなものでもよい。己の頭すら満足に信じられぬのだ。おかしな坊主であろうと怪しい札であろうと、よすがになるものが今は必要だった。
「それを、肌身からお離しになりませぬように……」
「あ、ありがとうございます!」
受け取った札を押し戴いて、善三は深く頭を下げた。
ところが。
頭を上げたときにはもう、坊主の姿はどこにも見えなかった。
な、と声が漏れる。
たった数瞬の間だった。あの老いた体で素早く店を出ていったとは思えない。困惑しながら女を振り返り──愕然とする。
女も、いない。
消えていた。
真っ青になって震えているところへ、店の親爺がようやく酒を持ってきた。
「おや、顔色がひどいですぜ」
もう飲むのはおよしなせぇ。
そう言われて、善三はこくこくとうなずいた。
その手には、怪しげな札がしっかりと握られたままだった。
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