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首は躍る 4




 女の言葉に、善三はぴくりと頬が引きつるのを感じた。


 ──誠二郎。



「聞いたこと……あるような」


「本当かい?」


「違う誠二郎かもしれねぇが……」


「どんな誠二郎さ」


「それは」



 どんな──だったろう。

 すぐ思い出しそうな気もするのだが。どうにもするすると逃げられて、形をなす前に消えてしまう。

 近頃はこんなことばかりだ。善三は歯を軋らせた。

 女のついでくれた酒を何杯もあおる。いよいよ酔いが回り、頭の中がぐるぐると渦を巻き始める。



「どう、思い出したかい?」


「いいや……それにしても……あんたも大変だな」


「あたい?」


「ああ。弟を探しているんだろ……」


「……まあねぇ」



 女は妙に自嘲的な笑みを浮かべた。



「こんなことばっかりしているから、嫁に行くのも遅れちまうのさ」


「いやいや、あんたまだ若ぇじゃねぇか。うちの旦那様なんてなぁ」


「旦那様?」


「そうさ、あの人は昔から女っ気がなくてよ……。早く嫁をもらわんと後継ぎも心配だろ? 先代もずいぶんせっついたんだが」


「おやまぁ」


「仕事、仕事ってねぇ。それでとうとう四十路を越えちまった」


「それまで……ずっと独り身だったのかい?」


「まじめな人なんだよ。けど、あそこまで女っ気がないのも困ったもんだ。弟とは大違いだよなぁ……」


「……弟?」


「そう………」



 ──あれ?


 善三は首をかしげた。



「いや、違ぇ違ぇ……。何言ってんだ……俺ぁ」


「どうしたんだい」


「旦那様には……ちゃんっと御内儀がいるじゃねぇか。お嬢さんだって……」


「なぁんだ、やっぱり独り身じゃなかったのかい」


「そうだよ、そう……」


「あんた、大丈夫?」


「そう……だっけ……」



 なんだかよくわからない。

 よくわからないものが頭の中にある。

 いや、そもそも人の記憶なんてものはその程度かもしれない。

 酔った頭でそう考え、半ば開き直ったような気持ちになる。これも酒の効用か。



「まぁ、変だよなぁ。旦那様が独り身だと言ってみたり……いや妻も娘もいると言ってみたり……いや娘がいるのは弟のほうだったか……?」



 ごちゃまぜだ。



「どうでい……ひどいもんだろ」



 くっくっと泣きそうな顔で笑う善三を、女はかすかに笑みながら見つめている。



「俺の頭はさぁ、昔はこんなんじゃなかったんだ。それがよぉ、いつのまにやらおかしくなっちまって」


「おかしくなんかないさ」


「いいや、おかしいよ。自分でもわかってるんだ。記憶が幾通りもあるなんて……」


「幾通り──」



 女は猫のような目をすぅっと細めた。



「それなら、忘れたわけじゃないんだね」


「いや、忘れてんだ、いつもはよ。ただこうして酒を飲んでいると、幾通りもあるような……そんな気がするだけだ」


「何かの拍子にすっかり思い出す、なんてこともあるかもしれないよ」


「さぁて、あるかねぇ……そんなこと」



 そこで酒が切れた。

 もういっぽぉん、とやけくそに声を上げる。

 亭主はあきれた様子ではいはいと奥に引っ込んだ。



「ところで、あんた」


「なんだい」



 女の指がするりと上がった。

 急に尖った爪を向けられて、善三はきょとんとする。



「あんたの知ってる誠二郎って男はさぁ……」


「……ああ」


「そんな顔をしていなかったかい?」



 ──顔?


 何気なしに後ろを見る。

 と。

 善三は腰を抜かしそうになった。

 すぐ後ろに青白い男が立っていたのだ。

 その男が。

 柳のようにやせ細った──

 髪は乱れ、眼窩は落ちくぼみ──

 悲しげな顔をしてじっとこちらを見ている──

 こいつは──この男は──



「せ、誠二郎様……!」



 そんなまさか。

 拳でごしごしと目をこすり、もう一度目を開けると。

 青白い男は消え──

 笠をかぶった坊主がぽつんと立っていた。




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