首は躍る 1
「何かあったか」
言葉は案じているようだが、声そのものは何ら感情を含まない。心配しているのか、呆れているのかよくわからない。
ひなは慌てて涙をぬぐった。
「……どうして」
「呼んでも誰も出てこんのでな」
庭から入った、と言う。
そんな黒埜を見て、ひなは心の底からほっとした。さびしさと過去に呑まれて溺れそうになっていたのを、一気に引き戻された心地だ。
「何があった」
言いつつ、傘を畳んで縁側に腰掛ける。
「はい」
ひなはその日に見聞きしたことを語った。
この状況において、黒埜ほど頼りになる人物は他にいない。飄々とした姿を見ているとそう思える。
錯乱する主人、怯える女中、人の記憶を狂わせる家──
そんな尋常ならざるものに直面しても、この男であれば動じないだろう。
ただし、先ほどの童のことだけは伏せた。なぜそうしたのか自分でもよくわからない。
「……ふむ」
話を聞いた黒埜は塵ほどの動揺も見せなかった。むしろ得心したふうである。
「そういうことか」
「え?」
「与吉と六助に、加賀屋の周辺を探らせていたんだ。すると妙な噂があってな。近頃、主人の宗右衛門は様子がおかしいらしい。いや主人だけじゃない。店で働く奉公人たち……特に古株の人間だ。それが、どうも急に明るくなったと」
「明るく……ですか?」
「ああ」
どういうことだろう。急に明るくなった、とは。
「加賀屋はこのところ立て続けに身内を失っている」
「ええ」
「四年前、先代夫婦がそろって死んだ。ずいぶん前に店を譲って隠居していたらしいがな。それでも、加賀屋をここまで大きくしたのは先代だ。宗右衛門はもちろん、昔からの奉公人たちもずいぶん悲しんだらしい」
「そうでしょうね……」
「そのうえ宗右衛門はもう一人、家族を失っている」
家族。
ひなははっとした。
「それが誠二郎様……?」
「……まあ、そうだ」
少しつまらなさそうな顔をしてから、黒埜は続けた。
「俺も今日知った話だ。なんでも弟の誠二郎は染物屋の養子になっていて、そこを継いだばかりだったらしい。兄は呉服問屋、弟は染物屋。業種も似通っているし、何より店の主として話も合ったんだろう。互いの家を頻繁に行き来するほど仲がよかったそうなんだが」
しかし──二年前。
「誠二郎は死んだ」
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