誰そ彼 8
「ひな」
童の声。
「おひなさん」
夕の声。
呼ばれている。両方から。
ああ。どうしたら。でも。でも。
ひなはふらりと角を曲がろうとして──思いとどまった。
どうかしている。自分が追いかけようとしているのは、姿なき存在なのだ。花婿たちを殺したあやかしなのだ。そんなもののために、どうして夕の呼びかけを無視できようか。
「ただいま──」
参ります、と踵を返しかけて。
動きが止まる。
手にひやりとしたものが触れた。
見れば、小さな子供の手だ。白粉でも塗ったように白い。それが曲がり角からすぅっと伸びて、ひなをつかんでいる。
「いっちゃだめ」
童が言った。
途端に頭の中を強く揺さぶられ、足元がふらつく。小さな手がぐいとひなを引っ張った。
──いけない。
なんとか踏みとどまろうとするが、力が入らない。たたらを踏むようにして角を曲がると、また強く引っ張られる。
「やめて──」
めまいの中で必死に囁いた。
「お願い、やめて──」
すると。
腕を引っ張っていた力があっけなく消える。
勢い余って、ひなは二度その場に転げた。今度は尻を打つ。痛みで涙がにじんだ。
ぼやけた視界に──童らしき影は見えなかった。
わかっている。見えるはずなどない。
それでも心がうなだれる。
小さな手につかまれたとき、驚きはしたが怖くはなかった。やっと会えたと。とっさにそう思ったのだ。憎く思って当たり前の相手だというのに。
それでも、会いたかった。ずっと小さな頃から会いたかったのだ。声の主を探していつも視線をさまよわせた。友達になりたいと思っていた。
にじんだ涙が、今度は別の理由であふれる。
──さびしい。
ずっと押し込めていた心細い気持ちが、堰切ったように流れていく。
おっとう。おっかあ。平太。みんな。
故郷が恋しい。さびしい。みんな、今頃どうしているだろう。
なぜ今になって泣いているのか──
お夕に呼ばれているのだ。早く行かなければ。何度もそう思ったが、涙が止まらない。立つことすらできなかった。
呼ぶ声はもう聞こえない。
ひなが無視して行ってしまったので、怒っているのだろうか。それとも宗右衛門のところに戻ったか。
ああ。
涙よ、止まれ、止まれ。
そう念じていると、
「どうした。そんなところで」
そっけない声がした。
顔を上げると、かすんだ視界に鮮やかな赤がにじんだ。
きれい、とひなは思う。
瞼で涙の粒を押し出すと、それは目がくらむほど赤い、唐傘。
墨色の着物をまとった美しい男が、唐傘を斜にさしている。
「………黒埜様」
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