誰そ彼 6
これほどの人数が一斉に物忘れにかかるとは、どう考えてもおかしい。
「どうかしましたか」
「……いえ」
ひなは平静を保った。
おそらく、宗右衛門は番頭や女中たちの物忘れを知らない。ここで話しても不安をあおるだけだろう。何しろ尋常なことではない。
とにかく今の目的は、この家に馴染むことなのだ。
「きっと、お疲れのせいでしょう。おゆきさんのこともありますから」
「ええ。……そうですね」
宗右衛門は悲しげに笑んだ。
ちらとその視線が動く。たぶん、寝所のほうへ。そこで伏せっているゆきのことを想っているのだろう。
宗右衛門は四十半ば過ぎ。遅くにできた一人きりの幼い娘だ。大事に思わないはずはない。
「先代……私の父ですが。四年前に亡くしましてね」
宗右衛門は遠い目をして言った。
「母も同じ年に死にました。もう何年も経つのですが、こう、思い出すたびに胸が痛くてねぇ。こうして日に何度も拝んでいるんですが」
「ええ……」
「家族を失うのは……やはり堪えます。そのうえ娘を失うのは、私にはとても」
「………」
ひなはなんと言ってよいかわからなかった。
自分も花婿を三人失ったが、彼らとはゆっくり言葉を交わす時間さえなかった。愛する人を亡くしたという実感はない。ただ彼らに、彼らの家族に申し訳ないと思うばかりだ。だから、宗右衛門の悲しみに応えるだけの言葉が見つからない。
仏壇には位牌が三つ置かれていた。
一つは宗右衛門の父、一つは母だろうか。
最後の一つは──
「先の奥方様は、おゆきさんを産んですぐ……?」
呟いて、唇を噛む。
ゆきはまだ五つ。とすれば、前の細君が死んだのも五年以内のこと。宗右衛門は立て続けに三人も家族を失ったのだ。その悲しみに耐えながら、新しい妻を迎え、店を切り盛りしてきた。
強い人だ。
しかし、悲しい。
──なぜ。
なぜ誠二郎は、この人をこれ以上苦しめようとするのか。
「………?」
急に押し黙った宗右衛門を見ると、様子が変わっていた。
茫漠とした顔である。
「宗右衛門様……?」
心ここにあらず、というような生易しいものではない。
目をカッと見開き、口は開いたまま。皮膚という皮膚が今にも痙攣しそうなほどキリキリと張り詰め、それでいて瞳には薄い膜でも張ったような。
どうしたのだろう。
まるで目を開けたまま気を失ってしまったかのような。
しかし、意識をなくしているわけではないらしい。その瞳がゆらゆらと動いていた。
──何か探している?
「宗右衛門様」
ひなは再び声をかけた。応えはない。
前妻のことに触れたのがいけなかったのだろうか。考えてみれば、なんと無神経な言葉だったろう。どうしたものか戸惑っているうち、
「…………誰……?」
ほとんど聞き取れないほどの小さな声で──宗右衛門は呟いた。
「……だったか………」
「……え?」
「……………名前は」
何を言っているのだろう。
──誰だったか?
すると、宗右衛門の瞳が急にはっきりとした。まばたきを必死に繰り返し、それからずいと身を乗り出して仏壇を凝視する。
「そんな」
「あの……」
「そんなはずはない」
「宗右衛門様、どうしたのですか?」
「忘れるはずがないのだ」
うわ言のように呟きながら、震える手を位牌のひとつに伸ばす。
ひなは息を呑んだ。
そんな。
前の奥方の名を──思い出せないのか。
位牌を乱暴につかんで裏返した。
「なんだこれは!」
途端に、宗右衛門はわなないた。ばっと離して後ずさる。
位牌がぱたり、と畳に倒れた。
「宗右衛門様!」
「わからん……一体何が……」
ひなが背をさすると、それはがたがた震えていた。
「あれはなんだ」
「何を見たのです」
「あれは」
宗右衛門は錯乱しきっていた。顔面蒼白で「あれは、あれは」と繰り返す。
あれは──
ひなは畳に落ちた位牌を見た。
ごくりと唾を飲み込む。
そうっと手を伸ばして拾い上げる。
「それは──誰だ」
ひなもまた打ちひしがれたように身震いした。
俗名。
──誠二郎。
ブックマーク、☆で応援いただけると励みになります!
WEBTOONコミック版→https://www.cmoa.jp/title/270928/