誰そ彼 5
──どういうことだろう。
ゆきの具合が悪くなった。
番頭が物忘れにかかった。
辞めた女中は、その両方。
これらは結びつくのか、それともまったく関係のないことか。いずれにせよ。
──この家は、おかしい。
それがひなの率直な感想であった。
初めにゆきの痛々しい姿を見たせいか、あの子を救うことばかり考えていた。けれど先の話を聞いたあとでは、どうもそれだけでは済まないという気がしてくる。
この家全体が──不吉な影に覆われているような。
鬱々と考えながら奥座敷へ戻ると、開いた襖の奥に宗右衛門の後ろ姿が見えた。てっきり店に出ているものと思っていたから、少し驚く。
線香の匂いがした。奥には仏壇が見える。
「ん?」
気配を感じたらしく、宗右衛門がこちらを振り返った。ああと声を漏らして、
「どうかしましたか」
「あ、いえ。勝手に出歩いてしまって……すみません」
「そんなことで謝る必要はありませんよ。籠ってばかりでは気が滅入るでしょう」
穏やかな声だった。
最初はひなの逗留を渋っていたが、それは主としての反応だったのだろう。そもそも物腰の柔らかい、人のよさそうな男である。
「あの、少しだけ……お話を伺ってもいいですか?」
「ええ。どうぞ」
促され、腰を下ろす。
仏間は隣の間と続きになっているようだが、今は襖でぴたりと仕切られていて広くはない。自然と膝を突き合わせる恰好になった。
二人きりで接するのは初めてである。ひなはしみじみと宗右衛門の顔を見た。
──間違いない。
炎の向こうで叫んでいたのは、やはり宗右衛門だ。
それにあの日、宗右衛門とは初対面だった。それほどじっくり顔を見たわけではない。にも関わらず、幻で見た顔は驚くほど鮮明だった。あれがひなの記憶ではなく、他人のものだとすれば納得がいく。
と、宗右衛門は気恥ずかしそうに咳払いをした。
「話とは、なんですかな」
「え、ええ。突拍子もないことなのですが……。おゆきさんは具合を悪くする前、忘れっぽくなることはありませんでしたか?」
「忘れっぽく?」
ぽかんとした顔になる。
「それはどういう……」
「どんなことでも構いません」
「ゆきは、その、まだ五つですから」
「ええ」
「ちょっとした思い違いをすることは、なくはないですよ。何分小さいのでね。しかし、特別忘れっぽい……ということは」
「記憶の一部がすっぽり抜けてしまうようなことは?」
「すっぽり? いや、私の知る限りありませんな」
「そうですか」
因果関係はない、と考えるべきか。
「どうしてまたそんなことを?」
「いえ、少し気になることがあったので……」
「そうだ。忘れっぽいと言えば、私だよ。このところ物忘れがひどくてね」
「──え」
まさか。
「お恥ずかしい話だが、お得意様にそう指摘されたんですよ。覚えていないのはおかしいってね。いやはや、この年で物忘れとは困ったものです」
「……何を忘れてしまったのでしょう?」
「それがわからんのですよ。あれは何を聞かれたんだったかな……ううむ。とにかく記憶になくてね。それこそ抜けてしまったのかなぁ」
──御主人も。
物忘れにかかっている。
背筋がぞくりと冷えた。
『私も忘れっぽくなったり、具合が悪くなったりするんでしょうか』
そう言って怯えていた女中の気持ちが今はわかる。
一人や二人の話ではないのだ。
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