誰そ彼 4
「おかしい? その……善三さんがですか」
「なんでも最近、忘れっぽくなったとかで」
忘れっぽい、とは。
ずいぶんお爺さんなのだろうか。
「いいえ、まだ四十を過ぎたばかりですよ。でもねぇ……。出入りの業者が話していたんですけど、善三さん、時々昔のことが思い出せないみたいだって。平気なときとそうじゃないときがあるそうですけどね」
「はあ」
取り立てておかしいことではないような気がする。誰しもそうなることはあるだろう。
ひながそう言うと、女中は「違うんですよ」ともどかしげに言った。
「なんて言うんですか……思い出せないというより、すっぽり消えちゃうみたいなんです」
「消える……?」
「ええ。それも、実は善三さんだけじゃないらしくって」
「えっ」
女中が慌てたように周囲を見回す。
ひなは口を押さえて「すす、すみません」と小声で詫びた。
「……私がこんなこと話したなんて、旦那様や奥様には言わないでくださいよ」
「もちろんです。言いません」
「それで……」
「ええ」
「私が入る前にここを辞めた女中が何人かいまして。まあそれで私が雇われたんですけどね」
ひなはうなずく。
そのことは知っている。奥の間の怪音を聞いた女中たちだ。
「その人たちも辞める前、妙な物忘れがあったとか」
なんと、善三とまったく同じ症状だったらしい。
「でも、体調を崩されてお辞めになったと聞きましたが……」
「ええ、そうらしいですね」
「その……物忘れが関係しているんでしょうか?」
「私も聞いた話なので、詳しくはわかりませんけど。でも、物忘れのほうが先だったみたいですよ」
なんとも──
不思議な話だ。
番頭や女中の記憶が次々に消える、などということがあるだろうか。
しかもその後、女中たちはカタカタという物音を聞き、体調を崩している。
「番頭さんの調子も悪いんですか?」
「善三さん? いいえ。頭のほうはどうか知らないですけど、体は元気なものですよ。白飯三杯は平気で食べますからねぇ」
つまり、女中だけが体調を崩したのだ。
物音を聞いていたかどうかの差だろうか。
そもそも関わりなどないのか──
「あのぅ」
ふと、女中が不安げに眉をひそめた。
「なんでも……お客様は、高名な陰陽師様のお連れだとか」
「……え?」
「いえ、旦那様がそう言っていたわけではなく……お茶をお出しした女中が、どうもそれらしいことを聞いたらしくって。違うんですか?」
「ええと、まあ……。そのようなものです」
都一番の祓い屋という文句を聞いたのか。陰陽師ではないが、似たようなものだろう。
「それで、どうなんです。この家は」
「どう?」
「私、この家に幽霊が出るなんて知らなかったんです。知っていれば来やしませんよ……どうなんですか。はっきり仰ってください」
「あ、えぇ、と」
「私も忘れっぽくなったり、具合が悪くなったりするんでしょうか」
「い、いえ、その」
「大丈夫ですよね。そう言ってください。きっと、陰陽師様がなんとかしてくださるんですよね?」
「それは……」
ガタンッ。
突然、廊下で大きな音がした。
女中はぎくりとした顔になる。
「いけねっ」
小僧が何か落っことしたらしい。甲高い声が響く。
「弥助、何やってんの!」
叱る女中の声も聞こえた。
どやされながら荷物を拾い上げる一幕を、ひなと女中は呆然として聞いていた。それから我に返ったらしく、女中が「すみません」と首を垂れる。
「い、いえ。こちらこそ。不躾にいろいろお尋ねしまして」
ひなも慌てて頭を下げる。
その際、女中の両手がぎゅっと組み合わされているのが見えた。指が白くなるほど、強く。
大丈夫ですよね──
かすかな声でもう一度呟くのを、ひなは白い指を見つめながら聞いた。
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