奥の間の怪異 10
「………!」
氷のように冷たい手だ。くるぶしのあたりを指でそうっと撫でるのを感じる。
ひなは歯を食いしばった。だめだ。叫ぶな。
己に言い聞かせる間に、布団の中に潜む手はゆっくりと上のほうへ這ってくる。
ふくらはぎをなぞり。
膝を越え──
腿の内側に入り込む。
「イヤァッ!」
抑えていた悲鳴がそこで爆発した。
転がるように布団から脱し、立ち上がろうとして転ぶ。布団から青白い手が伸び、ひなの足をつかんでいるのが見える。そのまま布団に引きずりこまれそうになり、死に物狂いで畳の目に爪を立てた。
「放して!」
めちゃくちゃに蹴って振りほどくと、泣きながら襖に這い寄った。
「黒埜様! 銀狐さん!」
助けて──!
そう叫びながら襖に手をかける。
が。
びくともしない。
まるで外からつっかえ棒をされたようだ。黒埜たちがそんなことをするはずがない。無理にこじ開けようとすると、手が滑って痛みが走った。
「あぁっ」
指を押さえてうずくまる。
──どうしよう。
閉じ込められてしまった。
体から力が抜けていく。涙がほとほと落ちて畳を濡らした。
部屋は暗い。
それなのに、あの青白い手だけは闇にぼぅっと浮き上がるようだった。その光景が生々しく目に焼きついている。
あれが棲霊なのか。幼子に取り憑き、命を奪い去ろうとする禍々しき怨霊。痩せて骨ばった、あの男の手が。
──男?
そこで、ひなは目をしばたたいた。
涙の雫がほとり、と落ちる。
何かおかしい。
違和感があった。
この部屋にまつわる話を思い出す。
女中たちはあのカタカタという音を聞いただけだった。姿を見たのはおそらく娘のゆきだけだろう。
そのゆきは何と言ったか──
「母様に呼ばれた」と言ったのではなかったか。
昨夜もうなされながら「母様にころされる」と口にしたという。ということは、ゆきは母を──少なくとも母に似た何かを見たに違いない。
そうか。そのせいだ。
母様という言葉が頭にあったから、てっきり女の姿をしているものとばかり思っていた。しかしあの青白い手は、女にしては大きすぎる。
では、ゆきが見たものとは──
そこまで考えたとき、
「…………ゆ」
呻き声が耳をかすめた。
「…………き」
──ゆ、き?
ひなは身を起こし、震えながら布団のほうを見た。
掛け布団がこんもり膨らんでいる。声はその中から聞こえたようだ。
空耳ではない。弱々しく、ゆき、と確かに聞こえた。
低い──男の声で。
布団を見つめたまま息を吸い、ゆっくりと吐いた。
それから手をつき、膝をずらす。
「…………ゆ」
また声が聞こえた。
「…………き」
そうっと布団ににじり寄り、ひなはもう一度深く呼吸した。
自分でも何をしているのか、わからない。
ほとりとまた涙が落ちた。
両目をぬぐって呟く。
声は震えた。
「……どなたですか」
手を伸ばし、掛け布団をゆっくり捲る。
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