奥の間の怪異 4
加賀屋、とは都でも多少名を知られた呉服問屋である。主の宗右衛門は二代目で、坊ちゃん育ちのわりには生まじめで腰が低く、丁寧な商いをするらしい。創業者である先代はすでに亡く、家族は妻と幼い娘がいるばかり。
どうも、この娘の様子がおかしい。
娘の名は、ゆき。
五つになったばかりの、宗右衛門にとっては目に入れても痛くない愛娘だ。前妻との間にもうけた子で、今の妻とは血縁がない。だがゆきは継母によくなつき、実の母子のように仲がよかった。
異変が起こったのはひと月と少し前。
ゆきの姿が見えなくなり、大慌てで探し回ると、使っていない奥の間にぽつんといるのを女中が見つけた。こんなところで何をしているのか尋ねると、青白い顔をして「母様に呼ばれた」と言う。宗右衛門の妻である夕は、ゆきをそんなところに呼んだ覚えがない。
ゆきが見つかった奥の間は、亡くなった前妻が縫物をするのに使っていた部屋である。その場所に、夕が好んで呼ぶはずもない。まあ子供の言うことだからと女中たちがたしなめ、そのときは笑って済ませてしまった。
ところが。
同じことが二度、三度続いた。
手鞠遊びをしていたはずが、ちょっと目を離した隙にいなくなり、探すとやっぱり奥の間にちょこんと座っている。どうしたのと聞くと「母様に呼ばれた」と答える。「私は呼んでいないよ」と夕が諭しても、ぷいと顔をそらしてしまう。あれほど仲がよかったのに、近頃は夕に対して妙によそよそしい。暗い部屋に座った幼子の顔はますます青白く、三度目には唇の色が紫に変わっていた。
ゆきはそれから具合が悪くなり、布団から起き上がれなくなってしまった。熱はないものの頭がぼんやりするらしく、体に触れるとひんやり冷たい。
同じ頃、何人かの女中が不気味な物音を聞いている。カタカタカタカタ、と障子が小刻みに震えるような音だ。なんだろうと思って出所を探ると、あの奥の間に行きあたる。大抵はそこで気味が悪くなって引き返すのだが、悪戯かと思い中を覗いた者もいた。しかし部屋に変わった様子はなく、障子も震えていなかったという。音もいつの間にか消えていた。
その後、謎の音を聞いた女中が次々に体調を崩した。
症状はゆきと同じく、頭がぼんやりして立っていられなくなる。食欲が失せる。ゆきのようにまったく起き上がれないほどではないが、養生してもなかなか治らない。結局、そうした女中はみな辞めていった。仕事にならない──というよりも、怖かったのである。
あの奥の間は、怖い。
そんな噂が奉公人たちの間に広まった。無論、宗右衛門の耳にも入る。
奥の間に、何かが憑いているのではないか。
まさか──亡くなった先の御内儀が。
宗右衛門はその類のことを信じていない。まして、前妻が化けて出るなどもっての外である。だがその一方で、一連の出来事に現実離れしたものを感じるのも確かだった。
ゆきの具合は一向によくならない。医者は原因がさっぱりわからないと言う。日増しに衰弱していく愛娘を思うと、宗右衛門は居ても立ってもいられなかった。
どんなものでもいい。
何か、少しでも可能性があるならば──
そう考えた末。
宗右衛門は祓い屋に救われた知り合いの話を思い出した。
その知り合いこそ、銀狐がかつて世話した男であった。
「……で?」
「うん」
「祓えなかったのか」
「うーん、それがね」
なかったんだよ、と銀狐は困ったように言った。
「なかった?」
「そう。家の隅々まで見て回ったけど……祓うべきものは見つからなかった」
「じゃあ、何もないんじゃないか。娘と女中は病、物音は空耳だ」
「そうでもないんだ。おいら、気配みたいなものを感じたよ。物音がしたっていう例の奥の間でね。でも、そンとき組んだ奴は何もないって言い張るしさ」
「………ふむ」
黒埜は考え込むように煙管をくわえる。
「それでも奥の間は祓ってみたけどね。対象が定まってないからやっぱり空振りさ。おゆきちゃんの具合もよくならないし、このままだとおいらの面目丸潰れ」
「お前の面目はどうでもいいが」
「言うと思った」
「気配はあるが見つからぬ……というのは気になるな」
そこで黒埜は横を向いた。
恐ろしげな話にじっと耳を済ませていたひなは、急に見つめられてどきりとする。
気がつけば、銀狐もまたこちらを見ていた。
「仮に隠れたのだとしたら」
「そ。おひなちゃんの出番ってわけ」
「お前がこいつを連れてこいと言ったのはそういうことか」
何の──話をしているのだろう。
背筋がぞくりとして、ひなは湯のみを固く握りしめた。
こちらを見る二人の視線が──怖い。
そうだ。忘れていた。なぜ忘れていたのか。
獲物をひたと捕らえるかのような黒い眼。黒埜という人は、怖いのだ。そして銀狐という男も得体が知れない。
この人たちは、自分に──
何をさせようというのだろう?
「……あの、私……」
「事情は呑み込めた」
言い出す前に、二人の視線がついと逸れた。
「お前に手を貸すのは少々癪だが」
「照れちゃって」
「……まずはその家を見てみないことにはな」
「そうこなくっちゃ!」
残りの団子を一息に平らげると銀狐は立ちあがり、
「今度こそお化けが出るといいなぁ」
そう言って、にやりと笑った。
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