プロローグ
昔、夢魔がいた。魔と付いてこそいるが大して害はなく、頭がいいとは言えないこの不定形の生物は日がな一日ふわふわ漂い、夢を食って栄養を得ていた。さて、古来から存在する森には必ず突出した叡智を持つ賢者がいるものだが、この森にも人間を舌戦でやり込めたという聡明な老猿が住んでいた。今となっては誰も名前を知らぬ賢者は獣の身で人間のように魔術を扱い、その偉大な知恵と魔術で森を治めていたという。賢猿の慈愛は夢魔たちにも惜しみなく向けられ、簡単な言葉で彼らに教訓を授けることもあった。もっとも、夢魔はそれすら理解しているのかいないのか、あくまで黙して漂っていたので、側から見れば老猿が独り言を言っていると映っただろうが。しかし聡明な者の見る夢を気に入ったのか、老猿が水辺に座るとどこからともなく集まってきては足元から離れず留まっていたという。
ある夜、一匹の夢魔が腹を空かして顔を出した。夢魔は泉のほとりで眠る老猿を見つけて、夢を食べるべくふわふわと近づいていった。夢魔にさしたる知能はない。すなわち論理ではなく、本能で生きるものである。だから、いかにしてその時の夢魔にある好奇心のような思考が芽生えたのは当の夢魔以外には誰も知らない。夢魔は、生きた肉を食べたいと思った。夢ではなく、他の獣のように肉を。夢魔にとっての食料は、老猿の夢であった。そして夢魔は彼の頭に美味いものがあると知っていた。それこそが老賢者の不幸であったのだが。猿の顔を這い回り、入れそうな場所を探る。やがて二つの小さな穴を見つけた夢魔は体を長く細くして、ずるずると鼻の奥へ降りていった。麻酔のような魔力で熟睡する賢者は自身の鼻から頭を目指して夢魔が侵食していることなど知らない。やがて壁のようなものに行き当たると、侵入者はゆっくりと口を開け、目の前の壁を噛み始めた。空腹だけを原動力に長い時間をかけて削りきり、頭の中に響く異音を訝しんで老猿が目を覚ました時には、すでに夢魔は脳髄にたどり着いていた。
老賢者がアッと声を上げるより早く、柔らかい脳に行き着いた夢魔は念願の肉を貪り始めた。捕食はただ静かに行われた。粛々と食らい、食らわれる様子は神聖な儀式とも見えたかもしれないが、今まさに行われている行為は生存のための捕食と呼ぶもおぞましい、賢者への冒涜そのものであった。脳髄を無遠慮に吸い上げられる苦痛にのたうち回り、何者かを払い落とそうと頭をかきむしったはずの手はしかし地面に投げ出されたまま、中途半端な命令を果たそうとひっきりなしに痙攣している。年季の数だけ刻まれた皺が穏やかさを感じさせる顔は脱力しきり、半ば白目を剥いて森を治めた優しい指導者とは思えぬ醜悪な面相を晒していた。まさしく悪夢と表すべき光景だが、老猿の股から徐々に広く濡れていく土と独特のツンとした匂いがこの恐ろしい捕食が現実に行われていることだと伝えていた。震え、しなり、叩き、うなり、叫び、理性を失った末期の大暴れが止んだ後、ひときわ大きく痙攣し、二度三度、鋭く息を吐いたきり賢者は動かなくなった。
さて、前代未聞の如何物食いを成し遂げた当の夢魔はというと、一心不乱に脳髄を食い尽くし、重くなった体を引きずりつつ死体の鼻から抜け出した。そのまま生き餌の余韻を味わうかのように死体の上でぼうっとしていたが、やがてこれまでの無軌道さが失せた、確かな意思を感じさせる動きで首をもたげ、周囲を探った。どこまでも皮肉なことに、知恵がないために老猿の脳を啜り殺す残虐を犯した夢魔はまさしくその行為によって彼の知慧をそっくり譲り受けたのである。にわかに夢魔は地に降りた。もはやその体は確かな形を持ち、知性の光が宿った目を人里の方へ投げかけていた。
次回未定