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第八話 深淵の王子様、本屋へ行く

 夕方の上り電車は、下りに比べて人が少ない。

 鈴乃はドアの脇に立って、壮馬はその近くのつり革に掴まった。ドア付近のつり革は、座席のそれより短く、鈴乃は腕を思い切り伸ばさないと届かないのに、壮馬にとっては何のことはないらしい。ちらっと見上げた壮馬の黒い髪はいつも跳ねている毛先が大人しくなり、白いYシャツも心なしか体に張り付いているように見える。降り始めの雨は容赦なく、彼の全身を濡らしてしまった。鈴乃は先ほどまで被っていた学らんを両手で抱えるように持っていたが、自分の胸に押し付けるようにぎゅっと抱きしめた。

 壮馬に誘われるままに、上り電車に乗ってしまった。窓の外に流れる景色は、毎日見慣れているものとは違う。買い物や映画に行くようなお出掛けの日に見たことのある風景だ。

 学校の最寄り駅から数駅行った先に、六階建ての大きな本屋がある。ひとフロアだけでも大きめスーパーマーケットよりも広く、全ての棚を散歩がてら巡るとしても相当の時間を要するだろう。

 

「降りようか」


 壮馬は何の躊躇もなく鈴乃の手を取って、アナウンスと共に開いた扉からホームへと降り立った。二人は先頭寄りの階段を下り、改札を通り抜け、更に地下通路へと下りていく。地下には、両側にお店が並んでいて、ケーキ屋さんやブティックなど小さなお店がところ狭しと並んでいる。鈴乃は早鐘をうつ鼓動をごまかすように、軒先に並ぶ商品をひとつひとつ目に映した。お店の並びを抜けると、今度はホールのように広い空間が広がり、地上に出る上り階段やエスカレーターへ続くと出口がいくつも点在していた。さながら迷路のようだと鈴乃は思う。階段を登りきるまで、どこに繋がっているのかわからない。行き当たりばったりで進む迷路。そんなことを考えている間に、壮馬は迷いなく左端にある出口を選ぶ。

 階段を上りきると、小雨が降っていた。二人は困ったように顔を見合わせる。


「あ、そうだ」


 壮馬は鞄を開け、底の方で押しつぶされたものをどうにか探り当て、鈴乃の前に差し出す。紺色の折り畳み傘だった。シンプルなチェック柄で、それが壮馬によく似合っていた。


「これ、使って」


 鈴乃は傘と壮馬を交互に目をやったあと、彼の後方に広がる雨の街を眺め、首を横に振った。


「神谷くんが使って。これくらいなら大丈夫!」


 壮馬は改めて雨の様子を観察し、しばらく黙り込んだ。そしておもむろに折り畳み傘のカバーを外しポケットにねじ込むと傘を広げ、空いた手で、鈴乃の腕を引き、隣に並ばせた。


「じゃあ、こうしよう」


  軽く笑って、壮馬は二人の頭が入るように傘をさした。

 そして、雨の街に一歩踏み出した。

 もう鼓動が早く打ちすぎて、それが正常な状態みたいになっていた。


(……次から次へと、どうしてこんなことができるんだろう。私なんてもうどうにかなっちゃいそうなのに)


 壮馬の顔を確認したかった。どんな顔をしてこの人は自分と同じ傘の下にいるのだろう、と。だが、見上げる勇気がなかった。時々、壮馬の腕に自分の肩がぶつかると、その度に体を強張らせ、少し距離をとる。そんなことを繰り返しているうちに、目的地に着いた。

 人が並んで三人は入れるだろうガラス張りの自動ドアが開いて、壮馬は置いてあった雨具用のビニール袋に折り畳み傘を入れた。長い傘の為のものなので、だらしなく袋が垂れてしまっている。それが気になるのか、壮馬は少しの間だが袋と格闘して柄の部分でビニールの口を結び、体裁を繕った。


「さて、神崎さんの好きな本は何階だろう」


 壮馬は入り口付近にあった案内図を眺める。


「あ、地下だよ」


 鈴乃はもう何度かこの本屋に足を運んだことがあるため、すかさずそう言って、地下へ続く階段を指さした。地上六階、地下一階建ての本屋は、この近隣ではまず最大の規模といって良いだろう。近所の本屋で物足りないときは、電車に乗ってここまで来るほどだ。

 地下は地上フロアと違って小さめだが、品揃えはさすがとしか言いようがない。鈴乃の好きな少女小説や、いわゆるライトノベル、コミックスなどがフロアを埋め尽くし、平積みになったカラフルな表紙を眺めるのが、何だかとても楽しいのだ。

 鈴乃が先に立って案内する。


「ここだよ」


 多種多様な男女の描かれた鮮やかな表紙が、蛍光灯の光を跳ね返して眩しい。

 改めてみると、王子様がお姫様を後ろから抱きしめていたり、騎士と少女が迎え合わせで手を握り合っていたりと、大胆な絵が多いことに気が付いた。はっとして壮馬を見やる。壮馬はひとつひとつ丁寧に眺めながら、鈴乃と目を合わせて笑った。


「少し刺激が強いね」


「あ、ごめんね、わたしっ……」


「違うよ、別に悪い意味ではなくて。そうだ、欲しい本あったりするかな?

 僕についていなくて良いから、好きに見ておいで」


 壮馬はそう言って、鈴乃の頭に軽く手を乗せた。

 もう何度も触れられているのに、鈴乃は反射的に飛びのいて「じゃあ、そうする!」と別の通路にそそくさと移動した。


 二人が本屋を出るころには雨は上がっていた。

 壮馬から少し遅れて鈴乃が歩く。


「ねえ、少し飲んでいかない?」


 壮馬は近くのカフェを指さした。大概の街やショッピングモール内で見かける有名なお店だ。鈴乃が曖昧に頷くと、壮馬はもう当たり前になってしまったのか、鈴乃の手を握ると、お店へ入っていった。

 香しい珈琲の香りが店内を満たしている。天井から吊るされた丸いお洒落な照明が、ぼうと橙色の温かな光を湛えていて、どこか安心する。耳障りでない音量でジャスが流れ、時折珈琲マシーンの大きな音が響いてきた。

 壮馬は窓際の丸テーブルに鈴乃を座らせた。


「飲みたいものはある?」


 鈴乃はさっとカウンター上にあるメニュー表に目を走らせるが、少し距離があるため、ここからでは文字が小さくて読めない。


「えっと、ココアとか……甘いものがあれば」


 鈴乃は恥ずかしくて俯いた。カフェに入るのは初めてで、メニューに何があるのかさえわからない。ココアなんてないのかもしれない。


「温かいので良い?」


 彼女がこくりと頷くのを確認してから、カウンターへ行ってしまった。


(神谷くんは珈琲が好きなのかな?)


 高校生になったばかりの鈴乃には、まだ珈琲の美味しさがよくわからなかった。

 家では、母がインスタントコーヒーを飲むときに一緒になってお湯を注ぎ、たっぷりの牛乳とお砂糖を入れて飲むことはあるが、冷蔵庫にジュースがあればそちらを飲むし、ほっと一息入れたいときは紅茶を飲んでいる。どこか“珈琲は大人の飲み物”という思い込みがあった。

 壮馬が乳白色のマグカップを二つ載せた盆を持って、戻って来た。白いクリームが淵から溢れだしそうなくらいたっぷり乗ったカップを彼女の前に丁寧に置き、向かいの席に腰を下ろす。立ち上る湯気と甘い香りが鈴乃の鼻をくすぐった。


「ありがとう。あ、お金」


 鈴乃が慌てて、足元の鞄から財布を出そうと屈みこむと、壮馬は手を伸ばしてそれを制した。鈴乃は顔を上げる。


「これは今日、付き合ってもらったお礼」


「え、でも、悪いよ」


「このくらいさせて」


 柔らかく微笑んでいるが、頑として譲る気のないのが伝わってきて、鈴乃はおずおずと「ありがとう」と頭を下げる。

 鈴乃はマグカップに手を伸ばし、口元に運んだ。とろけそうになるくらい甘く、苦みを感じない。ココアではないようだ。はじめて飲む味。おいしい。


「これは?」


 鈴乃の驚いたよう表情を見て、壮馬は顔を傾けて満足そうに笑う。


「ホワイトチョコベースの珈琲なんだって。気に入った?」


 鈴乃は美味しい珈琲に半ば感動して頷くと、壮馬は自分のマグカップに口を付けた。

 ただ、喫茶店で珈琲を飲んでいるだけなのに、その姿はうっとりするような美しさを持っていた。ふと視線を感じて、周囲に目をやると、壮馬を見つめる者が多数存在することに気が付く。気持ちはわかると鈴乃は思った。擦れ違ったら、思わず振り向いてしまうような、そんな容姿をしているのだ。


 壮馬の視線が、鈴乃の座る椅子へと注がれる。彼女の椅子の背もたれに自分の学らんが掛けてあることに気が付いたのだ。


「あ、ごめん、ずっと持ってもらっていたんだね。ありがとう」


 とテーブルの横から手を差し出した。


「洗って返すよ! あ、でも使うよね、どうしよう……」


 鈴乃が困ったように眉を寄せるので、壮馬は軽く首を振って、渡してほしいと頼んだ。鈴乃は渋々、背もたれから取った学らんを丁寧に畳んで、壮馬にお礼を言いながら返す。


「明日から衣替えだし、洗濯に出すから気にしないで」


「あー! それなら、私がクリーニングに出せたのにっ」


 壮馬は軽く笑った。


「言うと思ったよ。それより、普段、珈琲は飲まない?」


 話をごまかすためか、終わらせるためか、壮馬は唐突に話題を変える。

 学校でもこんなことがあった。釈然としない気持ちもあったが、鈴乃は気を取り直して、彼の質問に答えることにした。


「うん。カフェオレくらいかな。どちらかというと、紅茶が好きかも」


 そのとき、頭に何か引っかかった。紅茶、紅茶、紅茶、紅茶部――家庭科室。鈴乃は壮馬に聞こうと思っていたことを思い出した。


「先週の金曜日、どうして家庭科室に来たの? 私、家庭科室に行くなんて言ってなかったよね?」


 そのことが気になっていた。その場では、壮馬の登場が衝撃的だったので、あまりのことに動揺し、そのことを考える余裕などなかった。だが、帰宅してからはたと気が付いたのだ。紅茶部でお茶していることを、なぜ壮馬は知っていたのだろう、と。

 食い入るように見つめられ、壮馬は気まずそうに目を逸らす。


「小耳にはさんで」


「小耳に?」


 壮馬は少しばつが悪そうに、しばし視線を泳がせたあと、長いため息をつき、小声で白状した。


「……立ち聞きしました」


「立ち聞き!」


 鈴乃は呆気にとられ、二の句が継げない。

 壮馬は観念したように頭を下げた。


「いや、その、わざとではなかったんだけど、神崎さんが友達……えっと、須藤さんだったよね? 彼女と話していて、それで、僕はちょうど教室に戻ってきたところだったから」


 ああ、そういうことかと鈴乃は納得して、目の前でしゅんとして小さくなっている壮馬の姿を見た。何だか怒られた子犬みたいだと思う。


「別に怒っているわけではなくて。ちょっと、びっくりしただけ。そうなんだね、聞いてたんだ。それなら納得」


 鈴乃の様子を見て、壮馬は安堵のため息をついて、「よかった」と呟いた。

二人はしばらく言葉を交わさず、ただひたすら珈琲を飲んでいた。たまに視線が交わると、どちらともなく微笑んで、また甘い飲み物を口に運ぶのだった。

お店を出るときには、灰色の空は、夜を迎え入れようとしていた。二人は目に映るものに対して、とりとめもない話をしながら、駅にまでゆったりとした歩調で進んでいく。

 駅に着くと、壮馬は下りのホームへの階段の下で止まった。

そして、鈴乃と向かい合って、彼女の両手を取った。それまで、触れる度にひんやりしていた壮馬の手が、今はとても温かかった。大きな手が、鈴乃の手をすっぽり包み込む。


「今日はありがとう。また、一緒に……どこか、行きたいな」


 壮馬は顔を赤らめ、鈴乃の顔から目を背けた。その姿に、胸の奥がきゅんと痛んで、鈴乃は目を細めた。鼓動がどんどん早くなり、言葉が出ない。


 壮馬は不安そうに、鈴乃の瞳を覗き込み、また目をそらす。


「だめかな?」


「また、行こう」


 鈴乃は何とかそう絞り出した。

 それを聞いた壮馬はぱっと嬉しそうな顔をして、鈴乃の手を自分の顔に近づけたあと、目を瞑って「ありがとう」と呟いた。

  鈴乃は階段を上る途中、一度振り返った。そこには思った通り、まだ壮馬がおり、目が合うとこちらを見て手を上げた。

 その微笑んだ顔はまだ少し赤く、鈴乃もつられたように頬を赤らめた。



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