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第六話 深淵の王子様、髪を切る

 空を灰色の分厚い雲が覆い、今にも雨を降らせそうだった。

 教室の窓から見える空はどんより薄暗く、鈴乃はため息をついた。そろそろ梅雨入りなのだろうか。じめじめした梅雨の空気は、たびたび乙女の一大事を招くことがある。

 ここのところ、おろすと跳ねてしまう肩までの髪を、どうにか束ねて過ごしてきた。お洒落とは程遠い髪型だとわかってはいたが、髪が片方だけ外側に跳ねるのだけは寝ぐせみたいで嫌だった。

中学時代、やんちゃな男子から投げつけられた「お前、女のくせに寝ぐせあんのかよ! 信じられねぇ」という心無い一言を思い出してしまうのだ。確かにあの時、毛先は跳ねていた。だが、その日は水道水で濡らして、何とか体裁を整えて登校したのだ。それだのに、その甲斐もなく、無情にも寝ぐせは落ち着いてくれなかった。

朝はというと、何かと時間に押され、ゆっくりと髪を直す時間がない。寝ぐせを治す時間がなければ、いっそ結んでしまえば良い、そうすれば何とかごまかせる、そう思っていた。

 だが今朝、玄関で靴を履いている鈴乃に、母がずけずけと言ってきた。「そんなみっともない髪型はよしなさい」と。確かに、ヘアピンで留めないとこぼれ出てくる毛もあり、あまり良い髪形ではないことは十二分にも自覚していたが、《《みっともない》》と言われるほどだろうか。仕方なしに鈴乃は髪をほどき、手櫛で何とか体裁を整えてから、登校した。思っていたより、癖は出なかったが、梅雨空の下では時間の経過でどうなるかわからない。いつも癖の出る場所を抑えつつ、鈴乃は一時間目の教科書の準備をしていた。

 そのとき、教室にどよめきが起こった。女子の悲鳴にも似た声があがる。鈴乃は思わず顔を上げた。教室にいた者たちの視線が、一斉に教室に入って来たばかりの一人の男子へと注がれている。鈴乃も何の気なしに、そちらを見た。はっとした。そこには、どこか人とは違う空気を纏う男子生徒がいた。


(か、神谷くんっ……⁉)


 教室に入ってきたのは、神谷壮馬だった。だが、そこにいるのは先週までの彼ではない。印象的だった毛量の多い無造作ヘアは、すっかり影を潜め、目元を覆い隠していた前髪は消失し、しっかり目も眉毛も確認できる。惚れ惚れするような端正な顔立ちが、何物にも遮られることなく、表に出ている。

 印象をがらりと変えてしまった壮馬だったが、毛先が跳ねているのは健在で、少しだけ鈴乃を安心させた。

 今まで壮馬に興味を示していなかった者も、こぞって彼を凝視している。廊下からその姿を確認しようと、他クラスの女子たちも覗いていた。彼の出身である竹下中学の少数の者だけは、最初こそ壮馬を見やったが、すぐ何事もなかったかのように平然としている。


(髪型でこうもみんなの反応が変わるのね……唯ちゃんの言ってた通り!)


 先週金曜日のお茶会で唯が言った通り、鳥の巣頭が常なる髪型というわけではなかったのだ。


(うん、短い方がすっきりしてるし、前髪で視界を覆わないから明るく……)


 そこまで考えて、鈴乃の鼓動が急に早くなった。帰り際の駅で、安奈が壮馬に落とした爆弾を思い出したのだ。


『すずちゃんはね、髪の短いさわやか男子が好きなんだよ!』


 周りの声が耳に入らないのか、あるいは気にしていないのか、壮馬はいつもと同じように無表情で席に着いた。その姿を鈴乃はじっと見つめている。


(ま、まさか、まさかだよね⁉ あの言葉を真に受けてなんてこと……いや、そんな考えは自意識過剰すぎる! これは、唯ちゃんの言っていた切るタイミングで)


 思考がぐるぐる回って、鈴乃は授業がはじまっても、先生の話す内容が全く頭に入って来なかった。




 放課後になっても、他クラスから一目、真の《深淵の王子様》を見ようという者が後を絶たなかった。

 鈴乃の後ろの席で、部活に行く準備をしている智己がいかにも不機嫌そうに彼らを睨みつける。そのあと、壮馬にもさらに鋭い視線を投げた。


「ったくッ……」


 智己は吐き捨てるようにそう言うと、乱暴に鞄を担いで教室を出て行く。ドア越しに壮馬を見に来た女子生徒の腕に軽くぶつかったのだが、立ち止まりって謝ることもなく、そのまま無視して行ってしまった。

 壮馬は鞄を持って、鈴乃のところへやって来た。仕草はいつもの壮馬だ。だが、目元がばっちり見えているので、何だか照れくさくて、まともに顔が見られない。


「もう部室行ける?」


 今日は部室を案内する約束の日だ。文芸部部長である昴との初顔合わせの日でもある。鈴乃は予め昴に連絡を取り、了承を得ていた。昴からのメールの返信は浮かれたものだったので、新しい仲間が増えて心底嬉しいようだった。鈴乃は、壮馬を紹介する画を想像する。壮馬の王子様のような風貌に口をぽかんと開けて声も出せない昴を思い浮かべて、思わずくすっと笑う。


「うん、行こうか」


 二人は連れ立って生徒会室へと向かった。今までにない女子たちのチクチクした視線を感じながら。

 生徒会室に入ると、今日も生徒会メンバーはおらず、昴がいつものように窓際に置いた椅子に座って本を読んでいた。そして、二人に気が付くと顔を上げ、絶句する。


(あ、想像通りだ)


 鈴乃は苦笑した。昴は壮馬を見て、目をぱちくりさせている。ややしてから、はっと我に返って、急いで二人のもとへ駆け寄って来る。


「君が神谷くんだね! 歓迎するよ‼」


 昴は両手で壮馬の手を取って、ぶんぶん振り回す。大袈裟なくらい熱烈な歓迎だ。


「じゃあ、こちらへどうぞ。ここが僕たちのスペースだから」


 昴は用意しておいた椅子に二人を座らせ、ロッカーに部誌が納まっていることや、秘密の通帳について語った。秘密の通帳とは、文芸部に代々伝わる部費を蓄えた貯金らしいのだが、どこにあるのか誰もわからない、幻のお宝である。


「何だかミステリーですよね」


 鈴乃がぽつりと言ったその台詞に、昴が目を輝かせた。


「そうだ! 神谷くんって、どんなジャンルのものを書くの⁉ 気になってたんだよぉ!」


 先日、妄想を繰り広げていたことを知っている鈴乃は昴の気持ちが理解はできるが、前のめりで問うてくる姿に、壮馬が怯えないかを心配した。でもそれは杞憂で、壮馬は部長のテンションの高さに少なからず引き気味ではあったものの、戸惑う素振りは見せなかった。


「読むのはミステリーが多いんですが、書いたことはありません。僕が書くとしたら……詩でしょうか」

「おおお! いいね! OBの先輩にも詩を書く人がいたよ!」


 昴はにこにこと喜んでいたが、はたと壁掛け時計を見て、さながら『不思議の国のアリス』の白兎のように飛び上がった。


「うわあ! これから予備校なんだ! 僕はそろそろお(いとま)するよ! またね!」


 そう言うが早いか、鞄を抱えてそそくさと生徒会室から出て行った。

 しんと静まり返った室内で、鈴乃と壮馬は顔を見合わせ、くすくす笑った。


「嵐のような人だったね」


 壮馬が頭を掻いた。その仕草を見て、鈴乃はまた髪型の件を思い出す。非常に気になる。気になるけれど、聞いても良いものかどうか。と、しばし逡巡する。だが、やはり聞いてみようと、鈴乃は意を決した。彼女は、物事に白黒つけないと気の済まない気質である。


「あの、神谷くん……その、髪の毛切ったよね?」


 壮馬は不思議そうに頷く。


「それって、金曜日にあのっ……」


 決意したのに、結局言葉が出て来ず、もじもじして目線を落とした。

 壮馬は鈴乃の真意を察したのか、軽く笑った。


「いや、違うんだ。金曜日に髪の話が出たから、行こうと思っていたのを思い出して。決して、神崎さんの好みのために切ってきたわけではないよ。気にしないで」


 鈴乃はほっと胸を撫でおろしたあと、ふと駅で髪の話が出たときに、壮馬が暗い表情を浮かべていたのを思い出した。


「あの時、沈んでたのはどうして?」

「沈んでた?」


 それには無意識だったようで、壮馬は苦笑する。


「親戚の営む美容院に行くことになっているんだけど、行く度に変な髪型にされそうになるんだ。だから行くのが憂鬱なんだよね」


 壮馬は変な髪型にされた過去を思い出したのか、ため息をついた。唯が言っていた、人より美容院に行くタイミングが遅いのではという指摘は当たっていたようだ。

 壮馬はなるべくその親戚に会いたくないようで、ぎりぎりいっぱい耐えられるまで伸ばしているのだ。そうしてあの鳥の巣頭が出来上がる。

 それから、ふいに何かを思い出したように壮馬はぱっと顔を上げ、じっと鈴乃を見つめた。


「そういう神崎さんも髪型変えたよね?」


 鈴乃は何のことを言われたのか分からず、しばし視線を宙に彷徨わせていたが、ややしてからぽんと手を叩いた。

ゴムで束ねず、そのまま髪をおろしていることを指しているらしい。


「ただ、結んでないだけだよ」


「……何だか懐かしい」


 壮馬はぽつりと呟いた。


(えっ? 懐かしい……? おかっぱ頭だから昭和みたいで懐かしい感じがするってことかな……?)


 鈴乃がそんなことを考えていると、壮馬は鈴乃の顔を覗き込んだ。異常に顔が近い。


「神崎さんの好みに合わせるために切って来た、と言ったほうが良かった?」


 そう言うと、いたずらっぽく笑う。

 鈴乃は顔を赤くした。壮馬はその顔をしばらく眺めていたが、


「神崎さんはどんな本を読むの?」


 唐突に話題を変えてきた。

 鈴乃はひとまず窮地を脱したので、わずかだが安堵しながらも、好みの本を答えるのにしばし躊躇した。少女趣味前回の自分は、笑われないだろうか。


「……少女小説が好きなの。ファンタジーの」

「それって、どんな話なの?」

「お姫様が王子様や騎士と結ばれたり、剣と魔法の世界で冒険したり。基本的には、ファンタジー世界の恋愛みたいなものが多いのかな。あと好きなのは、童話とか。グリムとかアンデルセン。私が書くのも基本はそんな話だよ」


 全て話してしまうと、心がすーっと軽くなった。

 高校生になってまで王子様! と嘲笑されるのではと思ったのだが、壮馬はそんなことはしなかった。むしろ、真剣に知りたがっていた。


「例えば、どんな恋愛ものが好きなの?」

「どんな恋愛? うーん……私が好きなのは、幼馴染との恋かな。ずっと一緒だったけど、お互いに友達だと思っていて。でも、そんな二人がある日、何かのきっかけで自分の本当の気持ちに気がつく、みたいな」


 言葉にしてから恥ずかしくなる。自分は何を言っているのだと、口にしたことを半ば後悔しつつ、壮馬から目を逸らす。

 壮馬が顔わずかにを曇らせた。


「……土屋智己、みたいな?」


 突然出てきたクラスメイトの名前に、鈴乃は意表を突かれて驚いた。なぜ、ここに智己の名前が出てくるのか。今は本の話をしていたのではなかったか。鈴乃は混乱しつつ、


「え、えっと、土屋は私にとっては幼馴染に入らないよ! 幼馴染って、物心つく前から隣の家だったとか、そういうイメージで」


 壮馬が黙ったままなので、その場の空気をどうにかしたい一心で、話し続ける。


「あと、幼い時に一度だけ会ったことがあって、大きくなってから再会する、いわゆる運命の人みたいなパターンのお話も好きだよ!」


 その瞬間、壮馬の表情が一変した。目を大きく見開いたあと、もの問いたげな顔を向ける。


「覚えてるの……?」


 壮馬はか細い声でそう呟いたが、すぐにそれを打ち消すように頭を振った。


「ごめん、何でもない」


 その声は震えていた。

 何が起こったのかわからず、鈴乃は答えを求めて壮馬を見返したが、彼は彼女の目から逃れるように視線を逸らして立ち上がった。


「もう帰ろうか、今日は」


 足元に置いた鞄を引っ掴むと、さっと肩に掛け、鈴乃に背を向けるようにドアへ向かう。心なしか背中が弱々しく見えるのが不思議だった。

 一体何がきっかけで、壮馬は震えているのだろう。どうして、すぐに帰ろうなどと言い出したのだろう。その答えがわからないまま、鈴乃は壮馬を追いかけた。


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