第二十九話 深淵の王子様、お姫様に口づけをする
再び壮馬の家に着いた時には、少し薄暗くなっていた。
鈴乃はチャイムを押したが、やはり反応はない。
勇気を出して門を開けると、階段を三段上り、ドアの目に立つ。
そして、美里から預かった鍵を鞄の外ポケットから取り出して、二つある鍵穴に、差し込んで回すのを二回繰り返した。おそるおそるドアノブに手を掛け、ゆっくり引いた。
「お邪魔します」
囁くように小さくそう言って、鈴乃は中に入った。
いつものように靴を脱ぎ、音をたてないようにこっそり階段を上る。
泥棒にでもなった気分だ。
壮馬の部屋のドアは、細く少しだけ開いていた。
鈴乃はそこから中を覗き込む。薄暗くて、家具のシルエットしか見えない。
だが、人の気配がする。鈴乃は思い切ってドアを押した。ドアは音を立てずに、内側に滑っていく。
人ひとり入れるくらい開いたので、鈴乃は部屋に足を踏み入れた。
ベッドに紺色のタオルケットを被った大きなものが乗っていて、少し動いた。
鈴乃はそっと傍に寄ってしゃがみ込み、壮馬の肩だと思しき場所にタオルケットの上から軽く触れた。
それに気づいたのか、壮馬は身じろぎして、急に起き上がる。タオルケットが落ちて、壮馬の顔が現れる。
「すず……? どうして……?」
心底驚いたように、壮馬は鈴乃を見つめた。
「話したいの。聞いてくれる?」
壮馬はしばらく鈴乃を見ていたが、ゆっくり頷いて、ベッドから足を下ろして、鈴乃にも隣に座るようにと目で合図する。鈴乃は壮馬の隣に腰を下ろす。思いのほか沈み込むので、ふわふわした気持になる。
「ソーマ、今休みがちなのは、やっぱり、この間の話が原因なんだよね? 私を傷つける夢という……?」
壮馬は曖昧に俯く。
「あのね、私思ったんだけど……漫画でもドラマでも、付き合っていればいろいろあるでしょう? 誕生日すっぽかすとか、相手に刃物みたいな言葉を投げつけるとか……物語を盛り上げるためっていうか、二人に山あり谷ありの試練を与えて、強い絆を確かめるというか……そういうの。だから、恋人でいる以上は、ただ楽しいだけじゃないと思うんだよね。悲しいことや、つらいこともあると思う。だけど、それをひっくるめても、やっぱり二人で居たい、二人で居ることが幸せってことだと思うの。ソーマ、私たちもそうなんじゃないかな? この先、長く一緒にいれば、私がソーマに酷いことを言うこともあると思うし、ソーマが私に酷いことをすることだってあると思うの。でも、それを乗り越えて、もっとわかり合えれば良いんだと思う。恋人ってそういうものだと、私は思う」
鈴乃はベッドから降りて、壮馬の前に両膝をついてしゃがみ込んだ。そして膝の上に置かれていた彼の左手を自分の両手で包み込む。
「だから、傷つけることを怖がらないでほしい。私、そんなに弱くないよ? 未来の私には何があったかわからないし、その私は立ち直れてないのかもしれないけれど、でもね、ソーマが傍にいてくれればそのうち傷は癒えるんじゃないかなって思う。だって、ソーマだよ? 私のずっと想い続けた人だよ?」
鈴乃が笑いかけると、壮馬の瞳が揺らいだ。
「傍にいてほしいの。いつもみたいに、優しく微笑んで、いろんな話を聞かせてほしい。手を繋いで隣を歩きたい。読んだ本の話を聞いてほしい。ソーマと見たいもの、行きたい場所、たくさんあって時間が足りないよ。だから、一緒にいようよ。学校でも、放課後でも、休日でも。八年間会えなかった分も取り返さなきゃ」
壮馬の目から一粒の涙が頬を伝って鈴乃の手の甲に落ちた。
「すず……」
壮馬は右腕で涙を拭い、鈴乃を見た。
彼の瞳には柔らかい光があった。
「すず、僕も……君と一緒にいたい。こんな、女々しくて、暗くて、どうしようもないやつだけど……君といたい」
鈴乃は笑った。そしておもむろに立ち上がると、壮馬の手を取って立ち上がらせた。
「行きたいところがあるの。今から行ける?」
壮馬は自分の服装を確認してから、
「着替えるから、後ろ向いてて」
と洋服箪笥から服を取り出して着替え始めた。
鈴乃は背後で着替える壮馬を意識しないようにしながら、額縁の中のトウカエデを見つめた。真っ赤な葉っぱ。自分がソーマに渡した、まじないをかけた葉っぱ。
今思うと、ずいぶん適当なおまじないだった。おまじないのかけ方など全く知らなかったし、葉っぱに願ったのは自分の願望だ。だけど、その葉が今もソーマの手元にある。
でたらめでも何でも、やっぱり力があったのかもしれない。
「準備できたよ」
振り返ると、青いチェックのシャツと濃紺のスキニーパンツを履いた壮馬が立っていた。
目の周りと鼻の頭は少し赤いが、いつもの壮馬が微笑んで、鈴乃を見る。
「連れて行ってくれる?」
鈴乃は頷いて、壮馬の部屋を先に出た。最後にもう一度トウカエデの葉を振り返る。
(ありがとう、葉っぱさん)
電車に乗って数駅、二人は駅に降り立った。
遠くの空に残る最後の橙色の光も消えようとしている。
肌に当たる風はひんやりしていて心地よく、残暑が終わるのも目前だと思わせてくれる。
「すず、ここは」
帰宅する学生や社会人の流れに乗りながら、鈴乃は住宅街を目指す。
壮馬は鈴乃がどこへ向かっているのか察して、口を噤んだ。
すっかり暗くなってしまい、道路際に並ぶ電灯だけが頼りだった。
鈴乃は迷うことなく、ある場所に向かって歩き続ける。壮馬もその隣を黙って歩いていく。
「着いたよ」
そこは公園だった。
木々に囲まれ、滑り台とベンチだけの小さな公園。
昔と違って、滑り台は青から黄色になり、ベンチも新しいものが置かれているが、木々だけは変わらず、葉を茂らせている。
ふたりは公園に足を踏み入れ、ベンチに腰を下ろした。
鈴乃と壮馬が初めて出会った場所。
特別な思い出の残る公園。
背が伸び、ベンチから見える景色が昔とは違う。
だが、匂いが、空気が、昔のままだ。
「いつか、ソーマと来たいと思ってたんだよ」
鈴乃はしばらく木々を眺めていたが、急に立ち上がり、壮馬の前に立った。
「ソーマ、まだ不安なことある? 一人で抱え込まないで。全部吐き出して。もし、解決できなくても、ふたりで一緒に悩むから」
少し間をおいてから、壮馬はゆっくりと心の内を言葉にするように、ぽつりぽつりと話し始めた。
「もし本当に《未来の記憶》なのだとしたら、僕はタイムリープ? したということになって、いつかもとの時代の、もとの自分に戻るのかな……なんて考えも浮かんできて。そうすると、高校生の僕は、また、すずに話しかけられない人間に戻ってしまって、こうしてすずと一緒にいたことも忘れてしまうんじゃないかって……考えることもあった」
鈴乃は壮馬の言葉を反芻してから、良いことを思いついたというようにぱっと微笑んだ。
壮馬がもの問いたげな目をするので、
「その場合は、私が全部、ソーマに伝えるから大丈夫! だって、ソーマは七歳の私のことは知っていて、正体を明かそうと思っていたと言ってたよね? それなら、壮馬と仲良くなるまで、話しかけ続けるよ! そのうち、心を開いてくれるでしょう?」
と満足そうに言って、壮馬の目を見る。
壮馬は一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに破顔する。
「それなら安心だ」
ひとしきり笑ったあと、壮馬がふと真剣な表情になって、立ち上がった。
そして、鈴乃の前に立ち、地面に片膝をつくと、彼女の左手を取って顔を上げた。
「鈴乃、僕は頼りないだろうし、世渡りも上手くないと思う……だけど、君を想う気持ちは誰にも負けない自信がある。どうか……この先ずっと、君の傍にいさせてください」
壮馬はまっすぐ鈴乃を見つめた。
鈴乃は恥ずかしくなって、しゃがみ込む。
「ソーマ……えっと、私」
彼がまるでお姫様に王子様が愛の告白をするときみたいな恰好をするので、照れくさくて、鈴乃は立っていられなかった。だが、目の前には壮馬の顔がある。
壮馬は黙って、鈴乃を立ち上がらせ、自分もその前に立つ。
「返事は……?」
「……はい」
壮馬はそれを聞くと、照れくさそうに笑って、鈴乃を抱き寄せた。
そして、自分の額を彼女の額にこつんと当てる。
「二度と離さないからね」
耳元で囁くと、少し顔を離してから鈴乃を見下ろした。
鈴乃は息をのむ。
「目瞑って」
壮馬に言われるがまま鈴乃は目をぎゅっと瞑った。
くすっと笑う声がして、片目を薄く開けると、壮馬の顔がゆっくり近づいてきて、彼の唇が、鈴乃の唇に軽く触れた。
鈴乃は驚いて、壮馬から思いっきり体を離した。
壮馬は行き場を失った腕を見下ろす。
「い、今の……」
鈴乃は口をぱくぱくさせたあと、急に顔を赤らめ、両手で口を覆う。
壮馬は何度か目を瞬かせた後、目を細めてから、噴き出した。
「いや、もうわかってるのかと思ったのに。目を瞑ってと言われて、何されると思ったの?」
「え、わかんないよ! だって、はじめて……だったんだよ?」
壮馬は笑いすぎて涙の出た目を指で拭ってから、首をかしげて顔を真っ赤にした鈴乃の顔を覗き込む。
「じゃあ、今は準備できてる?」
壮馬は優しく口元を覆う鈴乃の手を外し、また唇を重ねた。
鈴乃は体の力が抜けてしまい、しゃがみ込みそうになるのを、壮馬が支える。
「すず、ありがとう。君が僕に力をくれた。昔も、今も」
壮馬は鈴乃を抱き上げた。鈴乃は驚いたが、落ちないように壮馬の首に手を回す。
「お姫様、どちらにお連れしましょうか?」
少し気取った調子で、壮馬が言うので、鈴乃は思わず笑ってしまう。
「お姫様?」
「だって、やりたがってたでしょう? お姫様ごっこ。あのときは王子様になれなかったから。今夜は、すずがお姫様で、僕が王子様だ」
照れたのを隠すように、生真面目な顔をして、鈴乃をベンチへ運ぶ。
鈴乃は壮馬の顔に抱きついた。
「前が見えないよ、すず」
「ソーマ、大好き」
「……僕も」
濃紺の空には星々が煌めき、大きな満月が浮かんでいる。
木々の根元の草むらからは、虫たちの美しい声が響く。
トウカエデの葉は、風でさわさわ揺れていた。




