第二十七話 深淵の王子様、未来の記憶を語る
翌日、顔を合わせた壮馬は明らかに元気がなく、鈴乃の問いかけにも簡単な返事のみ。
五時間目が始まるときには壮馬の机が空いており、早退したことを知った。
メールで連絡してもすぐに返事はなく、放課後にやっと「心配しないで」とだけ送られてきた。
その翌日も四時間目が終わると、ふらふらとロッカーに鞄を取りに行ってそのまま帰ってしまった。鈴乃の連絡には夜になってから「大丈夫」と送られてきて、それ以降送っても返事はない。鈴乃は壮馬とまともに対話することができないでいた。
さらに翌日、金曜日。
壮馬は青い顔で教室に入ってきて椅子に座る。
鈴乃が声を掛けに行こうとしたが、チャイムが鳴り、ホームルームが始まってしまう。
(今日こそは話さなきゃ)
鈴乃はそう決意し、席替えして廊下側の一番前に座っている壮馬の背中を見た。
授業が終わる度、壮馬に話すために席を立つが、壮馬はすぐ廊下に出て、ふらっとどこかへ行ってしまった。追いかけても、どこに行ったかわからない。電話をしても、メールをしても返事はなく、チャイムが鳴って席に戻ると、壮馬も教師が入る直前に席に戻って来た。
(体調も悪そうだけど……精神的なものが大きそう)
以前なら、姿勢良く黒板を見ていた壮馬が、今は背中を丸めて授業を受けている。
お昼の時間になり、鈴乃は壮馬のもとへ行った。
気だるげに壮馬は肩に鞄を掛けて、廊下に出ようとしていた。
「ソーマ、帰るの?」
鈴乃が声を掛けると立ち止まる。
廊下はお昼を買いに行く生徒たちで賑わっている。
「ちょっと具合悪くて。先生にはこれから言いに……」
「私も行く‼」
鈴乃は壮馬の隣に並び、彼の顔を見上げる。壮馬は戸惑いの表情を浮かべたが、力なく頷き、歩き始めた。
「ソーマ、具合の悪い時にごめんね。でも、話があるの。先生のところへ行ったあと、少しだけ時間をちょうだい?」
「……わかった」
二人は職員室へ行き、壮馬の早退の件を伝え、下駄箱に向かう。
そして、校門手前にある花壇と通路の間を仕切る、石の上に腰を下ろした。
今はまだ桜の葉は青々と茂っているが、本格的に秋が居座れば、すぐに色を変え、葉を落とすだろう。
「ソーマ、体調は大丈夫? 何かの病気なの?」
鈴乃が問うと、壮馬は首を横に振る。
「やっぱり、気にしてるの?」
壮馬は天を仰ぐ。空は秋晴れで、薄い雲がゆっくり流れている。
「すず、僕はね、君を傷つけたくなかったんだ。君を傷つけるものから、全力で守りたいと思ってここまできたんだ。だけど、その僕が《《君を傷つけた》》。それが僕には許せない」
壮馬はただただ雲の流れを目に映す。
「私、傷ついてないよ! 元気いっぱい! むしろ、ソーマが心配で」
壮馬は鈴乃を見た。その目はひどく寂しげだった。
「前に、僕が《未来の記憶》の話をしたのを覚えている?」
——未来の記憶
前に壮馬が言っていたことを思い出す。あれは確か、鈴乃の家でのことだった。
まだ部誌の原稿を完成させていない壮馬に、アイディアがあるのか聞いた時だ。
『……未来の記憶とか』
『未来はまだ来ていないんだから、記憶があるはずなんてないのに。未来の記憶って言葉が、何だかしっくりくるんだよね。予知みたいなものなのかな……』
壮馬はそう言っていた。
「詩のアイディアの話だよね」
鈴乃が答えると、壮馬は曖昧に頷いた。
「トウカエデの栞が水に落ちたあの日から、嫌な夢ばかり見るんだ。僕が、すずを傷つける夢。……僕さ、栞を失くすまで、夢を見るまで、自分がすずを傷つけてしまうなんて、可能性すら考えたことがなくて。僕は君を守るために、行動してるつもりだったけど……いつだって、傷つける可能性があるってことを思い知って、君にどう接したら良いか、この先どう行動すれば良いのかわからなくなってしまった」
壮馬は静かに立ち上がって、鈴乃に背を向ける。
「すず、僕が未来から来たって言ったら信じる?」
「未来から……?」
「確かなことは言えないんだけど……僕にはもうひとつ記憶があるんだ」
壮馬はまた天を仰ぎ、一息吐くと、校門を通り過ぎてから振り返った。
風が吹いてきて、桜の葉がさわさわと微かに音を立てる。
「四月に君に再会してから、僕は夢を見るようになった。それは、先々の記憶のようで……いつも断片的なんだけど、それを繋げるとこんな物語になる。僕は、すずを見つけた。君に話しかけて、僕がソーマであることを伝えたいと思っている。だけど、根暗で社交性ゼロの僕がそんなことできるはずもない。そんなある日、君の方から僕に話しかけてくれた。僕をクラスの輪に入れようと奮闘してくれた。僕はソーマだと明かしたかったし、君と仲良くなりたいという気持ちがあるけれど、すずの優しさをうまく受け入れることができなかった。それでも、すずは根気よく誘い続けてくれて、ついに僕をすずの仲間内に入れてしまった」
壮馬は微笑んだあと、話を続ける。
「僕はすずが好きだった。好きだったけれど、人付き合いも儘ならない僕にとって、君に想いを伝えることなんて逆立ちしたってできることではなかった」
そう言うと、壮馬は俯いて、声のトーンを落とした。
「そのまま高校を卒業して、別々の大学に進学した。そして、事件は起きた。すずが誰かに酷く傷つけられた事件。僕は詳細を教えてもらえなかった。すず自身が話そうとしなかったみたいで、共通の友人……須藤さんたちも何があったのかわからないと言っていた。ただ、初めてできた恋人がどうのってだけ」
鈴乃は立ち上がった。
壮馬の口から出る話がとても不思議だった。だけど、とても惹きつけられた。
「僕はすずを支えたかった。だから、ようやく僕はすずに近づいて、想いを伝えた。すずは驚いていたけど、嬉しいと言って僕を傍に置いてくれた。でも、時々泣くんだ。『大丈夫、私は大丈夫だから』って笑いながら、ぽろぽろ涙を流すんだ。そんな時、僕は黙って君を抱き締めることしかできなくて。それが歯がゆかった」
壮馬の目に怒りの色が浮かぶ。
「すずを傷つけた奴が許せないと思った。そんな奴と出会う前に、僕が君の傍にいたら、こんな顔をさせなかったのに。傷つくようなことなかったのにって。そんなことばかり考えて思い悩む……それが夢のすべて」
「それが、《未来の記憶》?」
「僕はそう思ったんだ。だから、その未来を変えたくて、僕は君に近づいた。君が僕に話しかける前に」
壮馬はまた空を見上げた。
「そんな僕が、君を傷つける……自分を許せるはずがない。でも、君から離れたくない。どうしたら良いのか、わからないんだ……つらくてしかたない」
壮馬は下を向いた。
言葉の通り、酷くつらそうで、鈴乃は壮馬に近づこうと足を踏み出した。
だが、ふいに誰かが鈴乃の腕を掴む。
驚いて振り返ると、そこには智己が立っていた。
智己は壮馬を睨みつけている。
「お前、何言ってんだ? 未来の記憶? そんなのただの妄想だろ! 気持ち悪い」
智己は話を立ち聞きしていたようで、壮馬にそう言い放つと、無理矢理、鈴乃をその場から連れ出そうとする。鈴乃は抵抗しようとしたが、智己の力に抗えきれず、ずるずる引きずられる。壮馬は鈴乃を見た。一瞬、縋るような瞳を鈴乃に向けたが、鈴乃はそのまま壮馬から引き離されてしまい、距離が離れていくにつれ、壮馬の姿が見えなくなった。
下駄箱まで来て、ようやく智己が立ち止まる。
「あんな奴、やめとけ。どう見ても、頭がおかしい」
智己の吐き捨てるような辛辣な言葉に、鈴乃は反感を覚えた。
それに、勝手に連れ出してどういうつもりなのだ。
やっと壮馬と話す機会を得て、大事な話をしていたというのに。
「土屋、言いすぎだよ。ソーマはそんな人じゃない。私、戻るから」
踵を返して、走り出そうとした鈴乃の腕を、またしても掴み、引き留める。
「何であいつなんだよ! あんな変な奴! お前を振り回してばっかりで、全然いい奴なんかじゃないだろ! やめておけよ。お前のこと全然知らない奴なんて、やめておけよ!」
鈴乃は智己の手を優しく振りほどき、振り返る。
「心配してくれてるんだよね、ありがとう。でも、何でもないから気にしないで」
鈴乃が微笑むと、智己は内から湧き出る感情に突き動かされたようで、鈴乃を見つめた。
その視線に鈴乃が戸惑っていると、
「俺は中学の時から、お前が好きだ。俺はお前のことを知ってる。あいつより、知ってるつもりだ。俺は……」
智己はそのあとの言葉を探していたようだったが、その先は言わず黙り込んだ。
あまりの状況に、頭が混乱する中、それでも壮馬のところに行かなければという思いが溢れそうになる。壮馬の縋るような瞳が思い出されて、居ても立っても居られなくなる。
「ごめん、土屋。ありがとう、でも、私、行かないと」
鈴乃は短くそう言って、頭を下げてから、踵を返して校門へと向かう。
自分の言葉に、一瞬たりとも心を動かされなかった鈴乃の背を眺めながら、智己は呆然と立ち尽くした。
鈴乃が急いで校門に戻ると、もう壮馬の姿はなかった。
携帯電話で電話を掛けてもメールを送っても返事はない。
チャイムが鳴った。昼休みが終わったのだ。
鈴乃は後ろ髪引かれる思いで、校門を背にして、教室へと向かった。




