第十九話 深淵の王子様、恋人ができる
学祭を目前に控えた七月の頭。
印刷室で大量にコピーした印刷物を運ぶのは、文芸部部長の三上昴と一年生の神崎鈴乃、神谷壮馬である。三人は、顧問の先生が印刷してくれた印刷物を両手に抱え、生徒会室の一角を間借りした文芸部スペースを目指す。
先頭を部長である昴が行くが、この中で一番年下に見える童顔が、紙の束で半分隠れている。
後ろを歩く鈴乃は水色と白の束を抱え、隣を歩く壮馬が一番たくさんの荷物を運んでいた。
生徒会室に着き、昴からどうまとめて、どうホチキス止めするかの指示を受け、二人はさっそく作業に入る。ずらっと並べた机の上に、印刷物が順番に並んでいる。これを一枚ずつ重ね、最後に水色の表紙で挟み、留めれば完成だ。百部+αはあるので、かなり時間が掛かりそうだ。しかも、最上級生である昴はといえば、
「じゃあ、あとは頼むね。今日も予備校があって」
申し訳なさそうな顔をしながらも、生徒会室を出る足取りには全く躊躇が見られない。部長を見送ってから、鈴乃と壮馬は黙々と作業を続けた。
壮馬がソーマだとわかってから半月近く経つ。
半月も経てば、二人が初々しいながらも、恋人同士になって、すっかりデートや長電話に明け暮れていると思われたが、現実はそう甘くはない。
あの日、それぞれが想いを伝え、めでたしめでたしとなるように思われた。
鈴乃の予想通り、翌日の壮馬は、子供みたいに顔を真っ赤にして照れていたことすらまるで幻想であったかのように、普段通り鈴乃に接した。ここまでは想定内。
だが、授業の合間に、ごくたまに部活や係の件で話すことはあったが、それ以外の壮馬はふらっとどこかへ行ってしまったり、机で読書していたりと、敢えて鈴乃と接触を図ろうとはしなかった。
帰宅後は、以前なかった、他愛のない内容のメールが来たりはするが、そこに恋のときめきや愛のささやきなどは皆無。それでも、何でもないようなことを報告し合う仲になったのだと、鈴乃自身は喜んでいたが、その話を聞いた、彩香や安奈は顔を見合わせるのだった。
応援してくれていた彩香や安奈には、想いを伝え合った数日後には、ことのあらましを話し、祝福してもらった。二人は「まさに運命みたいだね」と我がことのように喜んでくれたのだが、その後の経過を聞くと、納得いかないようだった。
安奈など珍しく眉間に皺を寄せ、いかにも不満というように、「それって付き合ってるの?」と言っていたし、普段あまり突っ込んだことを聞いてこない彩香でさえ、「人には人のやり方ってものがあると思うけど……一度、状況を確認してみれば?」と口にするのだった。
確かに、以前の壮馬の行動を見る限りでは、恋人になったとすれば、スキンシップや束縛などが激しくなると予想されたのだが、今のところそんなことは露ほども見られない。
(確かに、好きだとか、付き合おうって言葉はなかったんだよね)
今の関係が一体何なのかわからない。
好きだとか付き合ってくれという言葉がなくても、ずっと会いたかったとか必要としてほしいという言葉は、愛の言葉ではないのだろうか。
本人に確認しろと彩香は言うが、非常に聞きづらい。
「え? 好きとかそういう意味じゃないけど」とか「好きの意味が違うんだ。LOVEでなく、LIKEだよ」とか「付き合ってなんかいないよ?」なんて言われた日には、立ち直れる気がしないからだ。
今の状況がよくわからず、ずっとぐるぐるいろんな考えが回っている。
鈴乃は黙って製本作業を進める壮馬をちらっと見た。
(何考えてるのかな……? もしかして、あの日のことは私の妄想とか!? ソーマに会いたい気持ちが見せた幻想?)
壮馬が視線に気が付き、しばし目を合わせ、ふっと表情を緩める。鈴乃の心臓が跳ねた。
しかし、壮馬はすぐに作業に戻る。一瞬動きが止まってしまっていた鈴乃も、我に返り、再び作業に戻った。
「ふう、終わったね」
「お疲れ様」
完成したばかりの平積みされた部誌を眺めながら、二人はペットボトルの紅茶を飲む。
一番上から二冊取り、一冊は壮馬に渡し、もう一冊は鈴乃の手に残した。
水色の表紙に、『さくら』と太字で書かれ、その下に白黒の海岸の写真が印刷されている。『さくら』とは文芸部が出している部誌の名前で、創設以来ずっと守られている伝統の名前でもある。写真は、壮馬と二人で海へ行ったときに鈴乃が撮ったもので、昴もいたく気に入ってくれたのだ。でも、春を連想する『さくら』と、水を連想する水色という色は、どこかミスマッチのような気がしなくもない。
部誌の製本を終えた今、残る仕事は当日の朝に廊下へ設置された机上に積むだけだ。
場所は、三階の一年A組の教室前と一階の三年A組の部長である昴の教室の前、それから二階の階段を上ってすぐにある二年の教室の前だ。ここは紅茶部が使用することになっている教室で、彩香の取り計らいがあり、置かせてもらえることになった。
「じゃあ、もう星高祭の当日まではやることなしだね」
「うん、本当にお疲れ様。三上部長の分は、ここに置いておこう」
鈴乃は二列に高く積み上げられた部誌の横に、一冊だけ別途で部誌を置き、持っていたメモ帳に「三上部長へ 三上部長の分です」と書いて上に乗せた。
「ねえ、このあと時間ある?」
鞄を肩に掛けながら、壮馬が聞いてきた。
「え、うん。あるよ」
鈴乃も急いで鞄を肩に掛ける。
「そうか、じゃあ、少し付き合ってくれる?」
壮馬が優しく微笑むので、鈴乃はどきっとしながらもこっくり頷いた。
「よかった。行こう、すず」
そう言って、鈴乃の手を取り、ゆっくり歩きだした。
鈴乃は顔を赤らめ、下を向く。
壮馬が鈴乃の手を取って歩くのはあの日以来で、否が応にもあの時のお互いの台詞が思い出される。
《《すず》》という呼び名も、メールの文面上は目にしたが、教室で使われることはなかった。教室で話すとき、壮馬は鈴乃の名を呼ばなかったし、会話上でも出てこなかった。
(そうだよね、やっぱり、あの日の出来事は妄想でも幻覚でもない。本当にあったことなんだよね)
山ノ手駅から、上り線に乗って数駅。
前に二人で行った本屋のある関口駅だ。本屋へ行くのかと思ったが、壮馬は、本屋へ行く方向とは反対の改札へ向かった。
「どこへ行くの?」
壮馬と手を繋ぎ、隣を歩く鈴乃は、駅に出る直前、壁にある大きな地図をちらっと見た。
「公園。海が見える公園だよ」
鈴乃ははっとする。
あの、カップルだらけの観光スポットではなかろうか。
辺りは次第に暗くなってくる。道に沿って等間隔で並ぶ電灯に明かりが灯った。
まだ梅雨が明けない七月の頭。
空気はじっとりとしていて、肌に纏わりついてくる。
仕事帰りの会社員や、これからお酒を飲みに行く集団、同じように制服を着るカップルなどを横目に見ながら、鈴乃の歩調に合わせてくれる壮馬の隣を目的地に向かって歩いていた。
公園に着くと、綺麗に整備された草原と大きな木々がある。海に面した道沿いには、港が望めるようにベンチがずらっと並んでおり、そこには既に仲睦まじく座るカップルの姿が見える。鈴乃は内心叫び出しそうだったが、目を背け、壮馬の背中についていく。壮馬は公園中央辺りにある噴水の縁に鈴乃を座らせた。
「一度、すずと来てみたかったんだ。思ってた以上にカップルが多くて驚いてるけど。……僕も月並みだね」
壮馬は照れたように笑い、鈴乃のすぐ横に腰を下ろす。
そして、海の方に体を向け、遠くに見える橋やビル、観覧車などに灯る色とりどりで、眩しいくらいの光を眺めた。鈴乃も同じようにその景色を眺める。少し遠いが、遠いからこそ全体がよく見えた。
「綺麗……」
「ねえ、すず。最近、何か悩んでる?」
突然、壮馬は鈴乃の顔を覗き込み、彼女の手を握った。
鈴乃はびっくりしながらも壮馬を見返す。
「え?」
「いや、教室でも一人で考え事してたり、部活の時もため息ついたり。前はそんなことなかったから、何か悩みがあるのかなって」
壮馬は心配そうに眉を寄せ、じっと鈴乃の瞳を覗き込む。そこに答えが書いてあると思っているかのように。
全く自覚のなかった鈴乃は、目を瞬かせる。
だが、思い当たるのはただ一つしかない。
(ソーマのことだよね、明らかに)
意識はしてなかったが、もし思い悩んでいるような態度があったとしたなら、それは壮馬との関係についてのことだろう。ここのところ、そのことばかり考えているからだ。でも、あなたのことですなどと本人に言えるわけがない。
「何でもないよ、気にしないで」
とは言ったものの、納得してない壮馬の顔と、「本人に聞けば」という彩香の言葉が相まって、鈴乃は思わず口を開いていた。
「ソーマ、私たちは、つ、付き合ってるの?」
言ったそばから後悔したが、もう遅い。
口から出て、壮馬の耳に届いてしまったのだ。これはもう、相手の返事を待つより他ない。鈴乃は開き直って、壮馬の目を見返した。
一方、壮馬はきょとんとしたあと、電灯の明かりだけが頼りなので見えづらいが、みるみるうちに赤くなって固まってしまった。
しばらく経って、ようやく口を開いたが、その声はわずかに上擦っていた。
「すずは、どう思ってたの?」
質問に質問で返され、ずるいと思いながらも、鈴乃はおずおずと答える。
「私は、付き合ってると思ってたけど……? 違うの?」
上目遣いで壮馬の顔を確認すると、壮馬はさらに顔を赤くして、顔を背けた。
「僕は、付き合ってもらえるなんて思ってなくて。でも、すずが付き合っていると思ってたということは、付き合っても構わないってことだよね……それじゃあ」
壮馬は赤い顔のままだが、居住まいを正し、鈴乃を真正面から見た。
「すずが好きです。僕と付き合ってくれますか?」
一瞬、時が止まった。
まっすぐで、飾り気のない言葉。
だけど、それだからこそ胸を打つ。
鈴乃は泣き出したいような、胸の奥がじわりと温かくなるような感覚に襲われた。
「私も好きです」
鈴乃がそう言うと、壮馬は今にも泣出しそうな顔で笑って、鈴乃の頭に手を乗せ、優しく撫でた。
「末永く、よろしく……すず」
その声は、か細く、今にも消えてしまいそうなくらいだったが、鈴乃の胸の奥までしっかり届いて、彼女の心を温め続けた。




