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第十話 最初の記憶

 部屋に戻っても、どこかふわふわとした気持ちが抜けず、壮馬は電気もつけず、閉めたドアに凭れ掛かった。レースのカーテン越しに入ってくるわずかな光は、六時に灯った近くの街灯だろう。壮馬は虚ろな瞳で、室内を見回し、額に飾られたトウカエデに目を向ける。


(……彼女は覚えていた)


 先程まで、確かにトウカエデの葉の前には鈴乃がいた。

そして、彼女は言った。


——この葉っぱ……私も同じようなの、持ってるよ。

——私、この葉っぱね。思い出があるの。


 壮馬はトウカエデの前までつかつかと歩み寄り、ガラス越しにそっと触れた。


「覚えていたけど……」


 ガラスから手を離し、握りかけた手を壁に当て、体ごと寄り掛かる。


「きっと僕と同じじゃない……」


 絞り出した声は裏返り、それを聞いて彼は自嘲気味に笑った。

 もう一度、トウカエデの葉を見つめたあと、壮馬はベッドに身体を投げ出し、仰向けになった。目を瞑ると、微かに彼女の残り香のようなものが漂っているようで、胸の奥が痛んだ。


『ねえ、一緒に遊ぼうよ』


 思い出されるのは、優しげな少女の声。

 壮馬はその時のことを鮮明に覚えている。

 彼女の声も、その仕草も。




 壮馬が初めて少女に出会ったのは、七才の秋だった。

 道路沿いに等間隔で植えられた銀杏の木も、住宅の庭や公園に立つ木々も、冬を前にして、赤や黄色に色を変えるものも多かった。時折吹く風は、もう冬が来たかと錯覚するほど冷たくて、上着を羽織らずに出てきてしまったことを後悔するくらいだった。

 その日、小さな壮馬は、親戚の家に遊びに来ていた。

 叔母二人や従姉妹との小さな集い。

壮馬はこの女ばかりの集まりが苦手で、留守番を許されるなら、そうしたいと常々思っていた。母を含める大人の女性三人は、よくも話題が尽きぬものだと思うくらい途切れなく談笑しているし、壮馬より二つ、三つ年上の従姉妹も人形遊びに余念がない。

 親戚の家に滞在中は、部屋の隅でひっそり読書するのが習わしになっていた。

本を読んでいるかぎりは、多少煩わしさはあっても、平和だった。

だが、その日、唯一独身である三女の叔母が、知り合いからもらったという紺色の紙袋を開いたとき、壮馬の平和は崩された。

 紙袋の中には、子供用の古着が入っていた。

 女の子用のトレーナーやTシャツ、男の子用のズボンなど数着あって、呼ばれた従妹たちが服の上から合わせている。

 叔母が一枚のレース付き長袖ワンピースを両手で広げた。

 二人の従姉妹たちに合わせてみるが、丈がどうみても短い。

 そのとき、叔母の目が部屋の隅にいる壮馬を捉えた。

 散髪のタイミングを失い、耳を覆うほど伸びた髪が、可愛らしい顔も相まって、女の子のように見せている。

 叔母は、どたどたと無遠慮に壮馬のところへやってきて、長袖シャツと長ズボンの上から無理矢理ワンピースを着せてしまった。抵抗を試みたものの、この三姉妹の末っ子である叔母にはいつも好き放題されている。叔母は可愛がってくれているつもりらしいが、壮馬にとっては迷惑でしかなかった。

 美容師でもあるその叔母が、壮馬の髪にもアレンジを加えようとするので、恐ろしくなって、家を飛び出した。

 人気のない道をとぼとぼ歩いていると、壮馬は見たこともない公園に辿り着いた。

 そこは人気のない、小さな公園で、滑り台とベンチが一組ずつあるだけ。ただ、周囲を囲うように並ぶ背の高い木々が美しく、そこが印象に残る場所ではあった。

 壮馬は人がいないことを確認して、ベンチに座った。

 履きなれないスカートの裾を見て、顔を顰める。

 何でこんな目に合うのだろう。

 こんなもの着たくなかったのに。

 服を脱ごうにも、チャックが背中についていて、無理矢理脱ぐことができなかった。

 一人ため息をついて、行儀が悪いと思いながらも、両足をベンチの上に乗せて、膝に顔を埋める。風の音がした。風でかさかさと飛んでいく枯葉の音と、遠くから救急車のサイレンの音も。

 だが、近づいて来る少女の足音には一切気が付かなかった。


「どこか具合が悪いの?」


 突然声が降ってきて、壮馬は顔を上げた。

 少女が立っていた。

 年の頃は、壮馬と同じといったところか。

 肩までの髪を風に靡かせて、少女は心配そうに壮馬の顔を覗き込んだ。

 壮馬は首を大きく横に振って、否定する。


「そっか。良かった」


 少女はふわりと笑う。


「ねえ、一緒に遊ぼうよ」


 少女は壮馬に手を差し出した。

 壮馬はその手を凝視する。


「一人でかくれんぼしていたんだけど、つまらなくて。わたし、あそこに隠れてたの。気づいた?」


 少女は、滑り台の裏手側にある木々を指さした。


「ね、遊ぼう?」


 壮馬は自分の服を見下ろした。

 可愛らしい臙脂色のワンピース。

 襟周り、袖口、裾、全てに白いレースが縫い付けられており、ところどころ花の刺繍が散っている。スカートの下には枯れ草色のズボンを履いているので、ひどく不釣り合いなのだが、どこからどうみても女の子に見える。壮馬は自分の伸び切った髪を引っ張った。目の前の少女ほどの長さはないが、女の子と間違えられる長さではある。

 それに、壮馬自身、自覚しているが、自分の顔は女の子のようだと思っていた。周囲の人間も、「可愛い」「女の子みたいに綺麗な顔ね」なんて言うものだから、余計にそう思ってしまう。

 目の前の少女は、自分を女の子だと思っている、壮馬はそう確信した。

 面倒だと思う反面、一人でかくれんぼしていたという彼女が、少し可哀そうだと思った。


「いいよ。何して遊ぶ?」


 少女はぱっと顔を輝かせ、壮馬の手を両手で掴み、ぶんぶん振った。

 壮馬はたじろぐ。


「ありがとう! わたし、すずのっていうの。かんざき、すずの。あなたは?」


 壮馬は束の間沈黙したあと、


「ソーマ、ソーマだよ」


 そう答える。


「ソーマ? ソーマね! よろしくね! わたしのことは、すずって呼んで」


 すずと名乗った少女は、壮馬を立ち上がらせた。


「とにかく、最初はすべり台!!」


 ずずは、壮馬と手を繋いだまま駆け出した。

 壮馬は転ばないように、懸命に足を動かした。



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