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晋三と猫

作者: 佐藤

彼にとってその日は珍しく、何もかもが上手くいっているようだった。午前中から繰り出したクラブでは当たりの子を引けたし、近所の酒屋では久しく棚から姿を消していた銘柄の缶詰が売られていた。つけ払いの請求額は例月の半分ほどしかなかった。

「こんな時は決まって誰かが裏で糸を引いている。」

部屋の主が口の端をむずがゆそうに歪めながら言った。部屋の主の第六感に敬意を表しながら、晋三はそこを後にした。何と言っても今日はマンスリーリポートの提出日なのだから、この手の小規模案件のフォローにいちいち時間をかけていられないのである。


事実、カンファレンスルームに着くと他のメンバーはとっくに着席していて自分の資料を丹念にチェックしているようだった。こんな時、遅かったじゃないか、などと自分に声をかける者はいないことを晋三はよく知っていた。

「すまない、猫の世話に手を焼いていてね。」

「猫ってどこの?」

「君も知ってるじゃないか、ほら、、」

隣に座っていた女との会話を妄想しながら時間をつぶしていると、都合よくミーティングの開始時間になったようだった。


3年前に晋三がこの生物多様性条約機構の第L層調査管理官として就職した時から、事態はほとんど変わっていなかった。生物多様性の問題が深刻なフェーズに差し掛かる頃には、自分は死んでいる。問われる責任の小さい仕事 ── それが、上の下の大学を上の下の成績で卒業した晋三の希望条件だった。生物多様性条約機構における調査管理官の職務は、下位の生物種の管理と保存、そして適度な範囲での生活の向上である。下位の生物種とは言うまでもなく猫のことだ。晋三の数少ない友人達による不躾な表現を借りれば「猫と戯れているだけで金がもらえる仕事」ということになる。


ミーティングが終わった。時計は15:40を指している。終業まで2時間ちょっとか。晋三は曲がった腰を伸ばすようにわざとらしく背伸びをした。袖机の一番上の引き出しに未精算の領収書が溜まっていることはもちろん知っていたが、晋三はまとめサイトを閲覧した。「敢えてそうした」わけでもなく「そうする道を選んだ」わけでもない。惰性の行動には精神的な責任が伴わない、晋三は自分に言い聞かせるようにその定理を反芻した。


誰かを管理する側と思っている者は、実際には社会システムによって管理される歯車に過ぎない。帰りの車の中で晋三はそのありふれた命題を吟味しようとしたが、その思考は靄のような眠気の中に溶けて消えていった。鳩がヌーを管理し、ヌーが我々エビを、我々エビが猫を、猫がヒトを、ヒトがそのまた一段下の生物種を管理する。現在では進化生物学的ブロックチェーンとして知られるこのシステムが考案されたのは、遥か数百万年前のことだ。少なくとも第K層にいる我々にはそのような歴史が伝えられている。我々エビは約10万年前に(予定調和にしたがって)文明的知性を獲得しているわけだから、このシステムの中ではそれなりに古参と言うことができよう。


晋三の休日は、朝帰りらしい大学生風の連中によって静穏とは言い難いスタートを切ることになった。狭い部屋でいいから世田谷区あたりに引っ越そう、そう思うだけで行動に移さないのが晋三の常だったし、そんな自分を隣で客観的に見ながら好意的に容認している自分もいる。

「やれやれ。」

しぶしぶ起きだして、昨日の晩にスーパーで買っておいた2個150円のおにぎりを食べようとした時、電話が鳴った。

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