妹みたいに可愛がっていた娘に婚約者を寝取られましたが、お父様と結婚できることになって幸せです。
結婚式を明日に控え、参列者への贈り物の準備を終えたシャルリアは、明日結婚式後に来客が泊まる予定の客間を確認するため部屋へ入った。
薄暗い室内を歩き、カーテンを開ける。
寝室からボソボソと声が聞こえ扉を開けた。
「何事ですか?」
シャルリアは話しかけると同時に、降ろされた天蓋の目隠しを開く。
「きゃぁぁぁぁ」
「ち、違うんだ!」
シャルリアに生まれたままの姿を晒したカトレア――妹とだと可愛がっていた娘は、悲鳴を上げ。覆い被さるように下半身を晒した婚約者ハリス――ベンジャミン侯爵家次男は、急いで自分の下半身にシーツを被せる。
(うわぁ……)
シャルリアにとって婚約者とカトレアが関係を持っていたことよりも、明日の結婚式が中止になるだろうことよりも、ハリスの雄々しい下半身を見てしまったことの方がショックだった。
(いくら婚約者のものとはいえ、結婚前に男性のアレを見るなんて……赤かったわ。まるでお猿さんのように……)
「お嬢様、大丈夫でございますか?」
家令に呼ばれ、見たものを頭の中から吹き飛ばしたシャルリアは数回の深呼吸を繰り返し「……えぇ」と返す。
出来うる限り冷静になろうと気持ちを落ち着けたシャルリアは、ぎゃぁぎゃぁと叫ぶカトレアと蒼白になったハリスを強めに呼んだ。
一瞬の静寂が訪れ二人が、シャルリアに目を向けている事を確認すると「……とりあえず」と前置きして身だしなみを整えるように告げる。そして、家令を呼び。
「ジルヴェノンお父様を」
「畏まりました」
厳しい目を二人に向けた家令は、一礼して部屋を出る。
(まさか母屋であんなことをするなんて……。
こうなってしまった以上、彼との結婚式は中止するほかないわね。いっそのこと結婚式をジルヴェノンお父様と出来ないかしら? って、何を考えているの。そんな事を考えてはだめよシャルリア!
ひとまず落ち着いて考えましょう。まずは、ハリス様のご両親に連絡してもらって。
明日の招待客――王都の方はいいとして、既に到着している遠方の方たちはどうしましょう。これは、ジルヴェノンお父様に要相談ね。
ただでさえ今回の結婚式に向けて忙しくしてらしたジルヴェノンお父様には申し訳ないけれど……こうなったからには、仕方ないわ)
落ち着きを取り戻したシャルリアは、ジルヴェノンの元へ向かう。
と、階段を一段降りたところで盛大な足音と共にジルヴェノンが「シャルリア」と呼びかけた。
「呼んでいると聞いたが、何かあったのかい?」
「お父様、ここでお話しすることではありませんから応接室へに参りましょう」
固い口調で告げる娘を見たジルヴェノンは、また姪のカトレアが関わっているのではないかと頭の隅で考えた。
「あぁ、わかったよ」
杞憂だったらそれでいいと思いながら後ろに控える家令に妹ウェルナを呼ぶ様伝えたジルヴェノンは、名を聞いたシャルリアの表情が陰るのを見てしまう。
またか、これで何度目だ。いい加減にしてくれと、怒りのまま壁を殴りそうになる衝動をなんとか堪える。
俯くシャルリアを支えソファーに座るなり「それで?」とジルヴェノンは話を切り出した。ぎゅっと唇を噛んだシャルリアは数拍の間を置き「……実は」と、見たままを話す。
(カトレアにハリス様を取られたからと言って、悔しいと言う気持ちすらわかないわ。だって、初めて会った時からずっとハリス様のことは好きではなかったから。
幼い頃からわたくしが本当に欲しい人は、ジルヴェノンお父様だけ。
カトレアのおかげで憂鬱な結婚が無くなって嬉しいと言う気持ちしかない。でも、ウェルナ叔母様の事を考えると浮かれる訳にはいかないわよね。どうせこうなるのなら、もっと早くにわたくしが婚約解消を言い出せばよかったわ)
「そうか、わかった。シャルリアは平気かい?」
「わたくしは問題ありませんわ。それよりも明日のことが気がかりで……」
「結婚式は、勿論中止する」
「ウェルナ叔母様のことは、どうされるのですか?」
「ウェルナへの説明は僕がするよ。だからシャルリアはただ座っていなさい。無理に見た事を話す必要はないからね?」
「申し訳ありません。お父様」
ジルヴェノンとウェルナは双子として生を受けた。双子が幼い頃に父が戦争で亡くなり、ウェルナが結婚後すぐに母が他界している。
ウェルナは十六歳で結婚し、二年後にカトレアを身籠った。だが、当時隣国との小競り合いのせいで夫が亡くなり、義父母に離縁を強要され僅かばかりの示談金を渡され家を追い出されてしまった。
肉親である兄ジルヴェノンは、当時兵役で戦地に赴いており戻るのは半年後。
婚家を追い出されたウェルナは、一人で生きる覚悟をするしかなかった。
あの家から唯一持ち出せた夫から贈られた指輪を売り、小さな借家を借りる。身重の身である彼女ができる仕事は、母から習った裁縫の内職だけ。
食べるものすらなくなる日もあった。
そんなウェルナが苦労なくカトレアを産めたのはシュリエ――シャルリアの母がいたからだ。
シュリエから一通の手紙がウェルナに届いたのは、貧しい生活に目途がつき兄が兵役を終える二週間前――後二か月でお産を迎える頃だった。
手紙には会いたいとだけ書かれていた。大貴族からの誘いに不安を感じたウェルナは、ジルヴェノンが戻るのを待ち、二人でシュリエに会いに行った。
双子を前に快活そうな笑顔を浮かべたシュリエは「会いたかったわ」と話、双子の母にいかに世話になったかを語った。そうして話すシュリエは、二人にある頼みをする。
『あなたたちのお母様にお世話になったのよ。だから恩返しがしたいの。夫が亡くなって二年経つわ。シャルリアも今年で三歳になるし、手が離れると見込んだ親族たちが、毎週のように見合いだ再婚だと言うのよ。わたくしに再婚する意思はないの。わたくしの唯一夫は、彼だけだから……。お願いしますわ。わたくしを手伝って下さらないかしら?』
シュリエはウェルナをシャルリアの乳母に、ジルヴェノンには執務を手伝う傍らシュリエの仮の夫――内縁の夫になって欲しいと頼んだ。
シュリエの豪快さに心惹かれた双子は、その日からシュリエとシャルリアを支えるため奮迅する。
シュリエが亡くなった後も、それは変わらず――現在に至る。
「ウェルナのことだけど。彼女には市井で暮らしてもらおうと思う」
できるだけシャルリアを傷つけないよう優しい言葉遣いで、決定を言葉にした。
美しく整った相貌を歪め首を振るシャルリアは、なんとか思いとどまって貰おうと、ジルヴェノンの腕を強く掴む。だが、ジルヴェノンの決意は固く、ゆっくりと否定的に首を振られた。
「これはね、ウェルナの願いでもあるんだ」
「叔母様の願い、ですか?」
ウェルナと過ごせなくなると考えただけで、シャルリアは涙がこぼれそうになった。
「どう説明したらいいかな? 元々、シュリエさんにも伝えてあったことだけど、カトレアが十歳を迎えたら市井に戻って親子二人暮らしたかったそうだよ。この家に今までいたのは、偏にシャルリアが可愛くて離れがたかったからだ」
美しい金色に彩られたシャルリアの頭に沿ってゆっくりと掌を動かしながら、ジルヴェノンは語って聞かせる。
「もう、会えないとかではないのですね?」
「勿論さ、いつでも会いに行けばいい」
「……わか、りましたわ」
ジルヴェノンの言葉に、ほっと息を吐いたシャルリアはそっと目尻を拭った。
二人の会話が終わるタイミングを計ったようにドアがノックされ、服を着たハリスとカトレア。そして、ウェルナが少し遅れて部屋へ入ってくる。
「とりあえず、話したいことがあるから三人とも座ってくれるかな?」
優しい表情を引っ込めたジルヴェノンが三人を促し、座らせる。二人の正面に腰を下ろした三人の前にメイド達が、紅茶を置き退出した。
「さて、どうしてこうなったのか分かっているね?」
「ジルヴェノン?」
何も知らないウェルナは、意味が分からず数回瞬きを繰り返す。ジルヴェノンの様子から、嫌な予感を覚えた彼女はカトレアとハリスを交互に見た。
今朝は出かけると言っていたはずの娘が母屋にいたこと。この時間に入るはずのない風呂へ入った形跡。シャルリアの婚約者であるハリスの腕に、娘の腕が絡んでいること。部屋の前で顔色悪く立っていたハリス。
まるでパズルのピースがカッチリハマる様にウェルナは、答えに辿り着く。
娘の犯した罪が思考を断ち、怒りという激情から娘の頬を強く打った。
パシン!
「きゃっ」
力任せに振り抜いたためにカトレアは、ソファーから落ちていた。
それに構わずカトレアの頭を手で押さえつけウェルナは、額を擦り付けるようにして心の底から謝罪の言葉を口にした。
「ジルヴェノン、シャルリア、本当にごめんなさい。良くして貰ったのに、こんな事になるなんて! 謝って済むことではないと分かっているけれど、どうか謝らせてちょうだい」
「お、お母様! 痛いわ。離して」
「黙りなさい! 己の分も弁えず、シャルリアの婚約者に手を出すなんて……なんて愚かな子! やっぱり、早く出ていくべきだったわ!」
「お母様、何を仰っているの? ここは、わたくしの家でしょう? どうして出ていくなんて仰るのですか? ジルヴェノン叔父様とシャルリアは、血の繋がりがないじゃない。出ていくなら養女である――」
カトレアは押さえつける力に抗い、身を起こすと叩かれた痛みも忘れて叫んだ。
だが、言いかけた言葉は全てを語り終わる直前、ウェルナによって塞き止められる。
「黙りなさい! この家を継ぐべき血筋はシャルリアであって貴方じゃない。この国は、血筋を継ぐ長子が継ぐ決まりでしょう! わたくしたちは、シュリエ様の思し召しでここに住まわせて頂いていたの。ただの居候だと何度も言い聞かせたでしょ? 何故、信じないの? シャルリアに迷惑をかけてはいけないと、我儘を言ってはいけないとあれほど、言って聞かせたはずなのに……」
「そんなの嘘よ! わたくしは生まれた時からここに住んでいたもの。この家の子はわたくしよ! シュリエお義母様が言ってたものシャルリアと同じく、わたくしも我が子だと」
大恩あるシュリエの言葉を引用して否定するカトレアの頬を、再びウェルナは叩いた。
同じ場所を叩かれたカトレアは子供のように泣きじゃくりながら「ぶったぁ」と、母を指差しハリスへ泣きつく。
が、いつもならカトレアを慰めてくれるハリスはカトレアの腕を払い、怒気を含ませた眼で睨みつけた。
「カトレア、お前は嘘をついていたのか? シャルリアは本当の子供ではないと言ったじゃないか! ……僕を、騙したのか? お前の嘘のせいで、僕は……くそ、なんて事をしてくれたんだ!」
憤慨し怒鳴りつけるハリスにカトレアは、ショックを受け大きく目を見開いたまま固まった。
「何故何も言わない! 事実を知っていて隠していたと認めるようなものだぞ! お前のせいで僕は……僕は」
「酷い……わたくしのせいにしないで! 最初に誘ってきたのはハリス様、貴方でしょう?」
「うるさい。僕はお前を誘ってなんかいない!」
「嘘つき! シャルリアよりわたくしの方が女性的で素敵だと何度も言った癖に!」
置かれた状況すら顧みず己のした事すら棚上げし醜い争いを続ける二人に、シャルリアもジルヴェノンもウェルナでさえも呆れかえる。
本来であればシャルリアに誠心誠意謝罪するべきであり、それすらできない――する気のない二人にジルヴェノンは激しく苛立ちを覚えた
怒れるジルヴェノンが机を勢いよく叩く。
ドン、ガツン!
突如上がった大きな音にハリスとカトレアが驚き、言い合いを止めてジルヴェノンを見る。
「黙れ! お前たちは何を勘違いしているんだ。まずすべきは言い合いではなく、シャルリアへの謝罪だろう?」
怒気を含んだジルべノンの声は二人を怯えさせるには十分だった。余りの恐ろしさにカトレアもハリスも揃って視線を彷徨わせる。
「ハリス。騙されたと君は言うけど、シャルリアがこの家の子ではないと言う事を信じる君が、おかしいと思うのだが?」
「それは――」
(――突然、父親が自分の了承も得ず勝手に決めてきた縁談だったから、知ろうとも思わなかったし、興味もなかった。シャルリアの見た目は好みだが、自分より出来のいい女なんか面白くも可愛くも無い。女は淑やかで馬鹿なぐらいがちょうどいい)
と、考えたところで言葉にする事の出来ないハリスは、押し黙る事でやり過ごす。
「カトレア、君もだよ? シュリエさんと血が繋がっていないのは君だと僕たちは何度も伝えたよね?」
ジルヴェノンの問いかけにカトレアは、初めて恐怖を覚えた。目と目が合うだけで、ぶるりと身体が震える。
漸く黙った二人を一瞥したジルヴェノンは、大きく息を吐き出すと家令を振り返りハリスの父――ベンジャミン侯爵を呼ぶよう命令した。
「お、お待ちください!」と父の名を出されたハリスは、慌てて止めた。
ハリスの声に扉に手をかけた家令がチラリとジルヴェノンを振り返る。
手を振ることで行けと伝えたジルヴェノンは、改めてことの重大さに気づいていないであろうハリスへ向き直る。
「ハリス君、君が二階の客間でカトレアと何をしていたか、私が知らないとでも? シャルリアが君を庇う理由があるのかな?」
ジルヴェノンはドスの利いた声で問いは、再びハリスを黙らせた。「ごめんなさいね」と再び謝った ウェルナは、カトレアを引き摺るように離れへ戻っていった。
シャルリアとジルヴェノンが夕食を終えた頃、ハリスの父であるベンジャミン侯爵が屋敷に到着する。
応接室で夕食を摂ったハリスを交え、その場でジルヴェノンが事の経緯を説明した。
腹にイチモツありそうな雰囲気のベンジャミン侯爵は、話の内容が進むにつれ顔面を青く染めた。
「……大変、申し訳ありません」
ジルヴェノンが話し終えた途端、ハリスの頭を押さえつけながらベンジャミン侯爵が頭をさげる。
謝罪されてたところで受け入れるつもりのないジルヴェノンは、冷ややかな眼差しを向けたままベンジャミン侯爵の言葉を待った。
「謝って許されることではないとわかっております。ですが……結婚式は明日です。準備もですが既に王都入りしている身内などもいます。結婚式を今更取りやめにすれば、両家共に傷がつきましょう。ですから、息子とシャルリア嬢の――」
「結婚式前日に、私たちが居るこの家で私の姪に手を出していたご子息とシャルリアを結婚させろと仰るのですか? 許される事ではないと言ったその口で?」
ベンジャミン侯爵の提案を最後まで言わせまいと眉間に深い皺を作ったジルヴェノンは、それだけはあり得ないと言葉を挟む。
「ですが……両家の事を考えれば、その程度の事流せないはずは――」と更に言い募るベンジャミン侯爵は、平民風情がと小ばかにしたような薄ら笑いを浮かべる。
彼の表情に怒りを覚えながらジルヴェノンは、ハリスが公爵家について何も学んでいないと告げる。だが、ベンジャミン侯爵は、軽く頭を振り「これから学べばいいだけでは?」と返す。
彼の態度、物言いにジルヴェノンの頭の片隅でプチっと何かが切れる音がした。余りの良いように怒りのまま、これまでずっと隠し続けていた感情を吐き出した。
「ふざけるな! 私の可愛いシャルリアを傷つけた癖に、その程度だと? そんなに結婚式をしたいならしようじゃないか! 私がシャルリアを妻に娶る! それなら我が家の問題は解決するだろう?」
「お、お父様!?」と、シャルリアは驚きながらも、仄かに頬を染めて立ち上がる。
ハリスは無言で目を見開き、ジルヴェノンを凝視。
唯一反論したのは、ベンジャミン侯爵だった。
「なっ! 幾ら血が繋がっていないとはいえ、年の差を考えればありえないでしょう?」
「十五歳差であれば、貴族婚の許容範囲内だろ?」
今更、引けないジルヴェノンはちらりとシャルリアに視線を向けた。俯くシャルリアの表情は見えないが、嫌がっていないことを願うしかない。
「確かに貴族婚ではおかしくはありませんな。ですが、貴方とシャルリア嬢は戸籍上親子でしょう? 戸籍が親子になっている以上――」
「その心配は無用だ。私はシュリエさんの内縁の夫扱いなだけで、結婚はしていない。そのため戸籍上、私とシャルリアは他人だ」
「ば、ばかな! ありえない」と驚愕を露わにしたベンジャミン侯爵は、悔しそうに唇を歪めた。弁の立つベンジャミン侯爵に弁で勝利したジルヴェノンは、勝ち誇った面持ちで本来の目的である婚約破棄を宣言した。
「今日、この日を以てシャルリアとハリスの婚約を破棄する。結婚式と披露宴の費用は私たちが使うことになるからこちらで負担します。ですが、シャルリアの受けた精神的苦痛、ハリス君の教育にかかった費用は、全てそちらから支払って貰う」
重いため息を吐き出したベンジャミン侯爵が「……わかりました」と言い、好戦的な薄ら笑いを止め項垂れた。
彼らがすごすごと屋敷を去る様を見て、ジルヴェノンはスッと胸がすいた。
部屋に戻ったシャルリアは、ジルヴェノンの「私の可愛いシャルリアを……私がシャルリアを妻に娶る!」と言う男らしい言葉を反芻していた。
(あぁ、どうしましょう? わたくしとジルヴェノンお父様が結婚!! お母様は、許してくださっていたけれど、まさか本当に実現できるだなんて! 嬉し過ぎて、明日死んでしまうかもしれないわ!)
シャルリアは幼い頃から父親としてではなく、一人の男性として心を寄せていた。そのことを知っていたのは、儚くなった母シュリエだけで他には悟られていない。
「はぁ、どうしましょう? じ、ジルヴェノンお父様は本気でわたくしと結婚してくださるのかしら?」
喜びを堪えきれないシャルリアは、ソファーに寝転びながらクッションをポスポス叩く。
ノックと共にジルヴェノンの「入ってもいいかい?」と言う優し気な声が聞こえ、シャルリアは慌てて起き上がると居住まいを正した。
「どうぞ、お入りになって」
「失礼するよ」
ジルヴェノンがソファーに座り、侍女が飲み物を置く。二人の間に流れる微妙な沈黙を察して、侍女が部屋の扉を少し開けて外に出る。
静かな室内でシャルリアは、どうかお父様に聞こえませんようにと願いながらドキドキと五月蠅いほどに鳴っている胸を押さえた。
「……あー、そのだな」
黒灰色の頭をガシガシ掻きながら所在なさげにシャルリアを呼んだジルヴェノンは、怒りのままに隠していた感情を晒したことを今更ながらに後悔していた。
どう言えばいいのか、何を伝えればいいのか……いつも以上に落ち着かない。
「はい」
「あ、明日の事だけど……。その、君が、い、嫌だったら、む、無理しなくていいんだよ? 私としては、その気持ちが先走ったと言うか……、はぁ、こう言うのは苦手なんだ」
煌めいていたアメジストの瞳が、ジルヴェノンの溜息と同時に暗く影を落とす。
そして、揺らめき今にも零れんばかりの透明な水が張った。
言葉の選択を間違えたと痛感したジルヴェノンは、慌てて「いや、私が嫌だと言っている訳じゃないんだ。私は勿論、シャルリアが望んでくれるなら君と結婚したいと思っている。君が十五歳の頃からずっと女性として――」と言ったところで、自分の失態に気付いた。これまでに感じた事のないほど体中が熱くなり、顔を上げていられなくなった。
(そうだったの。ジルヴェノンお父様は、わたくしを十五の頃から……。嬉しい)
ジルヴェノンの想いを知ったシャルリアは、心の中で喜びをかみしめ立ち上がる。
衣擦れの音がジルヴェノンの耳に届き、ふわりとバラの香りが漂うと骨ばった手に白く細い手が重なった。心臓が、ドクンと脈打つ。
ジルヴェノンの視界一杯に、月の女神と見紛うほど美しく微笑むシャルリアの姿が映った。
「おとう――いえ、ジルヴェノン様。わたくしは、ジルヴェノン様に望んでいただけるのであれば、喜んで妻になりますわ」
「っ、ほ、本当にいいのかい? 後悔はしないのか? だってシャルリアは、ハリスが好きだったんだろう? だから、あんなに落ち込んで――」
ジルヴェノンの言葉をシャルリアは、違うと否定する。
「ハリス様のことは好きでもなんでもありませんわ。婚約話を受けた理由は、おと――ジルヴェノンお父様がどちらがいいかとお聞きになったからですわ」
「私が、勧めた?」
「覚えていませんか? ハリス様とわたくしが婚約をする少し前に、ジルヴェノン様にも縁談がありましたでしょう? その時に、ジルヴェノンおと――様は、ユルクール伯爵家の三男かハリス様のどちらがいいかお聞きになったではありませんか」
「言い難いなら、今まで通りお父様で構わない」
「ありがとうございます」
シャルリアに諭しながらジルヴェノンは当時を振り返る。
ある伯爵家から、ジルヴェノンへ縁談が来たのはシュリエが儚くなって三年後の事だった。当時シャルリアは十四歳で、下級院と呼ばれる学園に通っていた。
伯爵家の次女を妻にと勧められたジルヴェノンは、自分がシャルリアの代行である事と平民である事、彼女が成人を迎えたあかつきには家を出るつもりである事を正直に話した。
すると話を持ってきた伯爵は、ジルヴェノンとの婚姻は諦めると言う。だが、その代わりにシャルリアの夫を自分の息子にして欲しいと言い出した。
だがシャルリアの婚姻に関する決定権はシャルリア自身のものである。ジルヴェノンとしては、シャルリアが自分で選んだ伴侶を迎えるべきだと考えた。
そこへたまたまベンジャミン侯爵家が縁談を持ってきたことからどちらがいいかを聞いた。
「あぁ、私は幼いシャルリアになんてことを……」
自分のせいで、シャルリアがハリスと婚約したと気付いたジルヴェノンは申し訳なさから深く頭を下げた。
「すまない。私が不甲斐ないばかりに、シャルリアを苦しめていたんだね」
辛そうに表情を歪めたジルヴェノンの手を取ったシャルリアは、そうではないと首を振る。
「いいえ、いいえ。そう言う意味でお伝えした訳ではありません。わたくしがハリス様との婚約を決めたのは、偏にジルヴェノン様を諦めようと思ったからです」
「諦める?」
「はい。その……とても言い難いことなのですが――」と切り出したシャルリアは、初めて会ったその日からずっと、ジルヴェノンを慕っていたのだと話す。
「ジルヴェノン様は、ずるいです。わたくしが一生懸命アピールしているのに、全てを躱すのですもの」
「私が? ……いつだ?」
「例えば、春の公園に出かけましたわ。珍しいスイーツを一緒に食べに行ったこともありましたわね。後は、一緒に寝たいと言ってベッドに入ったことも。それに、季節が変わる度ドレスを買い行ったことも。わたくしとしては全て、アピールだったのですわ」
「なっ、なんて、なんて――」
――可愛らしいアピールなんだ! と、ジルヴェノンはいいそうになった。
「――ハリス様との婚約話を受けたのは、ジルヴェノン様にアピールしても女性としてみて貰えないから、諦めようと……」
「そう、だったのか」
顔を赤らめたシャルリアが「はい」と頷き話を終える。赤裸々に語られた想いにジルヴェノンは決意を固めた。
隣に座る彼女の手を握り、ソファーから立たせる。
何が起こるのかと眼を白黒させて首を傾げるシャルリアの前に立ったジルヴェノンは片膝をつくと右手を心臓に当てた。
シャルリアの左手を取り、言葉を絞り出す度に痛いと感じるほど心臓が脈打った。
「シャル、シャルリア・アンガーソン公爵。聡明で、優しく、健気で美しい貴方を五年前からずっと慕っておりました。どうか、この私――ジルヴェノン・リスティアードと結婚してください」
どうか、私の想いがシャルリアに届きますように――と願いながら、募った言葉はありふれたものでしかなかった。
「はい。喜んで……」
とても小さなシャルリアの声が、ジルヴェノンの耳に届く。嬉しい返事を貰い、ジルヴェノンは勢いよくシャルリアを見上げた。
淡いランプの光に照らされたシャルリアは、空色の澄んだ瞳を潤ませ優しい月の光のような微笑みを浮かべる。
「ありがとう」
受け入れてくれた感謝の言葉を零したジルヴェノンは握った手の甲に唇で触れる。
唇が離れると同時に、ジルヴェノンの手をシャルリアはきゅっと握った。
全ての行動が可愛くて仕方がないジルヴェノンは、急いで立ち上がると愛しいシャルリアの腕を引き細い身体を両手で抱きしめた。
「愛してる。これからもずっと、可愛いアピールを続けて欲しい」
頭一つ分小さいシャルリアの耳元でジルヴェノンは愛を囁く。
ジルヴェノンを見上げたシャルリアは、夏の太陽と見紛う笑顔で「ふふっ。妹みたいに可愛がっていたカトレアにハリス様を寝取られましたが、わたくしはジルヴェノン様と結婚できることになって幸せです」と答えた――。