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そうして今に至るのだが――
「俺結局トロと何も話せてねーじゃん」
駅に向かいながら呟き、溜息を吐く。
散々距離を取ろうとしておいて今更何をと自分でも思うが、入学式のトロの告白が全てを変えてしまった。自分が出した条件もぶっ飛んでいたが、それを実現してしまうトロも頭がぶっ飛んでいた。
そんな所も可愛いと思えてしまうのだから何も問題ないのだけれど。
分かっちゃいたけど、俺も末期だな……。
ぼんやりと考えていると、いつの間にか駅に着いてしまった。
次の電車まではまだ時間に余裕があったが、特に寄りたい所もない。そのまま人気のないホームに向かいベンチに腰かける。
と、見慣れた桜色を視界の隅に認めた。
勢いよく顔を上げると、二つ先のベンチにトロが座っていた。
「トロ」
思わず名前を声に出すと、彼女の肩がぴくりと震え青い目がこちらを捉えた。
「あ、陸だ!」
トロは声を弾ませ俺に駆け寄ると「久しぶりに話すね、元気?」なんて太陽みたいな笑顔で話しかけてくる。
奇跡かな?
目の前の状況が信じられず俺はパチパチと何度も瞬いてしまう。
あれ、でも確か放課後は――
「……図書館」
「ん? ……ああ、聞いてたんだね。咲ちゃん急に用事ができて、今日は真直ぐ帰ることになったんだよ」
「あー、そう」
「そうなのそうなの! 陸も帰り早いんだね。部活見学行かなかったの?」
そこからは、電車を待ちながら何でもない話をただただ続けた。主に話し役はトロで俺は相槌を打つ程度だったが、久しぶりに味わう賑やかな日常の感覚に胸が温かくなる。
電車が来ても、座席に着いても、自宅の最寄り駅に着いてもトロの話は止まらない。周囲を気遣って声量を小さくする場面はあったが、そんな会話も内緒話のようで俺の鼓動を早めるには充分だった。
「それでね」
「お前さ」
家まであと十分程の地点で、俺は漸く自分から話題を提示する。
今日はトロと久しぶりに話すことができた。もしかしたら明日以降もこのままなんとなく彼女と関わり続けることができるのかもしれない。そうであってほしい。そんな風にどこかで期待する自分がいる。
けれど、トロと話す途中で気づいてしまった。きっと今日は俺からトロに話しかけたから彼女は関わってくれているのだと。彼女の名前を呼んだのは偶然の出来事だったが、それがなければこうして彼女と並んで帰ることはできなかっただろう。今の彼女には俺と関わる意志がないのだから。
”同じクラスにはなっちゃったけど、陸につっかかったりはなるべくしないから安心してね”。
告白された日、トロに言われた言葉が脳裏を過る。
トロはやると決めたらやる。どこまでも徹底的にやり切る。俺はそのことをよく知っているはずなのに、毎度彼女の無茶な行動を目にして思い知らされるばかりだ。
トロは変わらない。
俺が動かないと、この状況は一生動かん。
だから俺にしては勇気を振り絞って、脳内で必死に言葉を選んで声を絞り出す。
「俺と話さなくなったよな」
「え、そうかな? うーん、あー、でもそうかもしれない。なんか教室騒がしかったし」
「あー」
軽やかなトロの声に曖昧に頷くことしかできない。教室が騒がしくなった原因は俺でありトロだが、九割方俺に非がある。しかし事情を知らないクラスメイトの目には、トロが奇行に走ったとしか見えなかったことだろう。
当事者の中で告白の話題に明確な反応を示すのはトロだけだ。トロが「私がやらかしたんだよ」と言えば周囲にはその通りに伝わってしまう。トロが実際にそう伝えたことがあるのかは分からないが、教室内の雰囲気はそういう方向として落ち着こうとしていた所が、実際あった。
それが嫌だったのに、そのことも俺はトロに伝えられていない。周囲にも発信できていない。我関せずの姿勢で時間が過ぎるのをただ待とうとしていた。一番狡い手段だと思う。けれどトロ以外に事情を知る者はいない。当然誰も俺を責めなかった。
「お前、さ……あの」
「ね、陸の頭にゴミ付いてるよ。取ってあげるからちょっと頭下げて」
唐突にそう言われ、思考をぐるぐると回していた俺は素直にトロにつむじを見せる。その間も考える。トロに謝らなければならない。謝って、教室でも普通に話したい。でもあんなことがあった後だ。きっと俺達が話していると教室はまた騒がしく――
「楽しそうな顔してるね」
トロの細い指先が短い俺の髪を梳くように、頭の形を確かめるようにそっと押し当てられる。
難しそうな顔してるね。
彼女の言葉が頭の中で別の形を取っていく。
途端、全身の筋肉が硬直した。
「何かあった?」
鈴の音を思わせる声が普段よりずっと近い距離で囁く。
何かあったじゃねーわ!
くわっと目を見開き、弾丸の様な速度で頭を上げてトロから距離を取る。
「わっ」と驚きの声を上げると、トロは瞳をきらきらと輝かせた。
「本当に頭下げたからびっくりした! 明日で地球は終わりだね!」
「ついに脈絡捨てたんか! ってか、え、何したお前!」
「ゴミ取るついでに頭触った」
「ついででやっていいことじゃねーよな!?」
「え、許可制だったの? 『そなたの頭に触れてよいか』とか訊いた方がよかった?」
「変な言い方しよる」
「あはは、元気そうでよかった。元気ないのかと思っちゃったじゃん!」
「お前なあ……」
晴天を思わせるトロの爽やかな笑みが、楽器のように声を生み出し弾ませる。
溜め息を吐く俺の顔を小さな背に覗き込まれると、たっぷりと光を蓄えた彼女の青い瞳とばっちり目が合う。
「陸はいろんなこと考え過ぎ。大丈夫だよ、何事もなるようにしかならないって!」
「それ励ましてんのか?」
「励ましてるように聞こえたの? これはただの真理ですよ?」
「ますます意味分からん。あーもう」
不意打ちに言いたいことが頭から飛び出てしまった。しかも帰って来ない。
乱雑に髪を掻き回し細くやわい彼女の指の感触を掻き消そうとしていると、「トロはさ」と言って彼女の白い頬が朱に染まる。
「元気な陸を見てると安心する。安心してトロも元気になるんだ」
「は」
「今トロは安心して元気になったので、陸も元気になったってことかな?」
「え」
「いいや、めんどくさいしもうそういうことにしちゃいましょう」
「はあ?」
「じゃ、また学校で!」
「あ、こんにゃろ!」
言うだけ言ってトロは走りだす。桜色の髪を揺らし遠ざかる後ろ姿はあの日そのもので、俺は少し苦い気持ちを味わいながら彼女の背中をのろのろと追いかけた。
そうしてしばらく歩いていると住宅街に差し掛かる。
そのまま歩く。
ひたすら歩く。
ある家の前まで歩くと――
「おいこら」
「あれ、陸じゃん。さっきぶり」
年季の入った、けれど清潔感を感じる白い一軒家。その庭の花壇に如雨露で水を撒くトロに再会した。
「何がっさっきぶりだ」
「まったく」と悪態をついて、俺はトロの家の隣の家へ。玄関に鍵を差し込む。開錠とほぼ同時に扉を開け、勢いよく閉めた。
次の瞬間。
「え、本当何言おうとしたんだっけ!?」
俺は玄関に蹲り頭を抱えた。悔しさのあまり唸りを上げたり「トロに頭撫でられた」と感慨深く呟いたりしながらひたすら考える。思い出す。俺は何を言おうと――
「……っ、だからさあ」
やっとのことで思い出し更に深く項垂れる。
また何も言えなかった。