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俺にとって「好き」は「嫌い」で、「嫌い」は「好き」だ。
俺に向けられる感情や評価を表す言葉が、何故か俺の脳には逆の意味として捉えられてしまう。「好き」は「嫌い」、「やさしい」は「厳しい」や「怖い」、「えらい」は「頑張れ」や「努力が足りない」といった具合である。相手が何を言っているのか、音としては正しく受け取ることができるのに音と意味が結びつかないという奇妙な状態。言葉のニュアンスが変わると受け取り方も変わるように、相手の言い方や表情でも受け取る意味は異なってくるが、良い意味でかけられた言葉は大体悪い意味として頭に響いてくるのだから厄介でしかない。
日常生活に大きな支障はない。トロのように見目で判断できるものではないため、傍から見れば俺はどこにでもいる平凡な中学生だった。今日からは高校生なのだが。
圧し掛かるストレスは自分でも計り知れないため自然と人から距離を取るようにはなったが、そんなことは問題にすらなっていない。理解者も一人いるため、誰にも理解されないと蹲ったこともなかった。
「陸、あの」
俺の背後で控え目に戸惑いの声を上げるトロこそ、俺のただ一人の理解者だ。
トロはいつも俺が不快な思いをすることがないように言葉を慎重に選んで声をかけてくれていた。飛び抜けて明るい性格が幸いしてか、トロがみんなの前で俺に「陸はおバカだなー」なんて声をかけてもじゃれ合い程度にしか見えなかっただろう。俺としては助かっていた。かなり救われていた。
救われていたからこそ高校生になったら距離を取ろうと思っていたのに、初日からこんなザマでこれからどうなってしまうのだろう。
「ねえ、陸ってば」
先程よりも大きな声で呼ばれる。
振り返りトロを見下ろすと、彼女は相変わらずの赤面で「ずっとこのまま?」と俺を上目遣いに見てきた。
ずっとこのまま?
三拍程度何のことを指しているのか考えて、はっとした。左手の中に自分以外の温もりがしっかりと存在している。
「いや、さっさと振りほどけよ!」
急速に羞恥が込み上げ、俺はトロの細い手首から弾かれたように手を引く。空に晒された左手に残る温もりを思うと、トロに負けじと俺も頬の紅潮を止めることが出来なかった。
トロは俺に掴まれていた手首を余った手で大事そうに撫でている。心臓に悪いのでやめてほしい。
「トロだって途中振り解こうとしたけど陸の力に勝てなかったんだよ」
あ、振り解こうとはしたんだ。
恥ずかしそうに俯くトロの言葉に一喜一憂する俺はさぞ滑稽なことだろう。俺の内心なんて誰に見えるものでもないが、我ながらチョロ過ぎないかと先行きが不安になってしまう。
「でも、あのままあそこにいたら目立ちまくりだったもんね。助けてくれてありがとう」
“迷惑かけてごめんね。”
聞き取ったトロの言葉が脳内で瞬時に違う形に変換される。
何が迷惑なんだか。やれって言ったの俺なんだぞと内心ツッコむ。
トロと俺は同じ中学校で同じ時間を過ごした仲だが、友達ではない。中三の三学期なんて受験や卒業に向けての準備、その他諸々がありあまり関わることができず、またその間に、これもいろいろあってトロは俺への接し方を改めようとしていた。具体的には「言葉選び」を止めようとしていたのだが、今日の様子を見るにやめたらしい。
ただしその名残があるのだろう。高校初日の彼女の言葉には「彼女自身の言葉」と「俺への言葉」が混ざっていて、会話にぎこちなさがある。そこに開いた距離を感じて勝手に落ち込み出そうとしているのだから、俺はなんて自分勝手な奴なのだろう。
トロが隣にいない苦々しい日々が脳裏を過り、胸がツキンと針を刺したように痛んだ。
言わなければ。
トロが俺の言葉で告白したのなら、俺だってトロに伝わるように言わなければならない。
俺トロのことずっと避けてたし、高校になってもなるべく関わらないようにしようと思ってたけど、あんな、俺だけに分かるような形で、しかも本当にみんなの前で盛大に告白してくるとは欠片も思ってなくて、まずはそれを謝りたい。試すような言い方をして、お前にいらん恥じをかかせて本当に悪かった。でも本当に嬉しくて、今もどんな顔したらいいのか分からないし、正直お前の前に立ってるだけでも結構精一杯な所があるっていうか……。
内心ではこれでもかと言わんばかりに言葉の群れが踊り狂っていた。しかしいざ音に置き換えようとすると、喉に栓でもされたように一音も発声することができない。気ばかりが急いて呼吸まで苦しくなってしまう。
すると赤面する俺を見て何を思ったのか、トロはふっと目元をやわらげ小さな子どもを安心させるように笑った。
「今日、初めて陸に伝わるように告白しちゃった。今まで私『好き』『好き』ばっかりだったもんね。……ちゃんと伝わった?」
俺はしばしどう返答すべきか迷って、けれど結局無言で一つ頷いた。
「じゃあ信じてもらえたかな? トロの気持ち」
これにもまた頷く。
「そっかあ。よかった」
トロは眉をうんと下げて幸せそうに微笑んだ。その顔が陽だまりで気持ちよさそうに目を細める猫のようで、頭を撫でてやりたい衝動に駆られるのを拳を握り締めて阻止する。けれど心は自由だ。「可愛い」の文字が胸中を飛び交っているのを止める者はいない。素直に伝えられないのがもどかしくて堪らない。
「さっきので告白は最後にしようと思ってたから、ちゃんと伝わったみたいでよかったよ」
頭の中が白く塗り潰される。
今、何て言った?
その人畜無害そうな、小動物みたいな口で何を言った?
「は?」
こんな時ばかり喉の栓はなかったことになり、すんなりと不機嫌な低音が発される。
トロの瞳は磨き抜かれた水晶玉のようにくすみも曇りもない。それを認めた上で俺が恐る恐る「聞こえなかった」と言うと、トロは素直に同じ台詞を繰り返す。
「『さっきので告白は最後にしようと思ってたから、ちゃんと伝わったみたいでよかったよ』って言ったの」
「最後」
「うん。陸にトロの気持ちが伝わって、信じてもらえてもうトロは満足! 入学早々陸にはすごく迷惑かけちゃったと思うけど、言い出しっぺなんだから陸にもちょっとは責任あるんだからね。でも、トロの気持ちの整理はこれでついたからもう大丈夫。同じクラスにはなっちゃったけど、陸につっかかったりはなるべくしないから安心してね」
「じゃ、トロはバイトに行ってきます!」。何故か敬礼し、トロは快活に言い切るとあっさりと俺に背を向けて駆け出してしまう。元々小さな背中が桜色の髪をなびかせてみるみる小さくなっていく。いくつか先の曲がり角に入って、ついに彼女は見えなくなった。
いや待て。
俺、何も言えてないんだが。
何も伝えられてないんだが。
いや、今更悲しむ資格もないんだが。
これでいいはずなんだが。
「フラれた……?」
俺は生まれて初めて、頭を抱えて道端で蹲った。