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「陸!」
背後から高い声が懸命に張り上げられた。涼し気に風に揺れる風鈴を乱暴に振り回したらきっとこんな音が出るんじゃないかと想像する。
俺の思考は早速現実逃避にまっしぐらである。なにせ足は地に縫い留められてしまった。トロが名前を呼んだというただそれだけのことにさえ俺は逆らえない。逆らえていたら奴の告白回数はそれこそ一回きりで終わっていたかもしれないのに。
なのに俺はいつだって、何だかんだ言ってこの声にだけは逆らえない。
「青葉、陸君!」
はあ、と掠れた呼気が小さく空を震わせる。周囲には多くの生徒がいるが、緊張をはらんだか細い音色が誰のものかなんて確かめるまでもなく分かっていた。しかし俺は誰にともなく「念のため」なんて言い訳をして、ふらふらと誘われるようにして玄関を見る。
玄関にはもちろんトロがいた。俺から五・六メートル程離れた場所で内履きを履いたままの小さな足が砂を踏み締める。
僅かに震える細い足、布をゆっくり膨らませる胸元を押さえるように組まれた手、朱色の頬と潤んだ瞳――可憐で華奢な少女のその様は、これから少女が口にするであろう言葉を、感情を鮮明に表していた。
そう感じているのは俺だけではなかったようで、周囲も少しずつトロや俺を見てざわめき始める。
「ねえ、あの子」
「髪ピンクじゃん! やばっ!」
「なんこれ? 告白とか?」
「相手どこよ」
「あれじゃね? 見つめ合ってんじゃん、うける」
「いや他所でやれよ」
ひそひそと、くすくすと、観衆の声は波紋が広がるように静かに波打った。
嫌な汗が背中を伝い落ちる。別に誰かとつるむ気もエンジョイする気もなかった俺の高校生活は、まあこの際出だしで躓いても問題はなかろう。躓いた分静かにしていれば俺の事なんて皆すぐに忘れていくに違いないと思うから。
だけどトロは違う。見目の時点で既に目立ちまくりなのだから恐らく既に敵は多いし、これからだってどんどん増えていくだろう。躓けば躓く程、周囲はトロの反応を面白がるに違いない。一度の躓きで受けるダメージが俺とトロでは比べ物にならない。トロにとって目立つとはリスクそのものだ。それを俺以上に当然トロは理解しているはずだ。だから「そんなことできるものか」と高を括った。なのにトロは俺の思惑を堂々とけ破ってくる。捨て身で、全力で俺に立ち向かってくる。俺がどんなに逃げ回っても、トロは絶対に俺を逃がしてくれない。
すう。
小さな唇が大きく息を吸い込む。
ああ、言葉がやって来る。
確信すると、不思議なことに雑音が消え去る。観衆が静まり返ったのか、俺がトロに集中しているのかは分からない。
「トロは、……トロは、陸のことが」
顔の熱でとろけそうになっている彼女の青い視線を受け止め、こくりと喉が鳴った。
俺のことが、何だ。
次の言葉の訪れを待つ一瞬がこんなにも長い。
「陸のことが、トロは大っ嫌いです!」
一瞬の沈黙。
次いで、風船が破裂するように観衆が声高に「えー!」っと騒ぎ出す。
辺りは騒然としていた。混乱、困惑、仰天などなど、様々な感情があちこちで爆発しているのを肌で感じる。俺を憐れんでか、「ど、どんまい」なんて突然声をかけられたり、慰めるように肩を叩いてくる奴もいる。
すると返答がないのを訝しんだのか、声をかけてきた奴が俺の顔を覗き込んで――目を丸くした。
「お前どうした! 顔めっちゃ赤いよ!? 怒ってる!?」
「そりゃいきなり嫌われたら怒りたくもなるだろうけど押さえろよー。怒らんといてー」なんて声とともに体を揺さぶられるも、それに反応してやるだけの余裕が俺にはなかった。
俺の頭の中ではトロの告白が何度もリフレインしていた。
陸のことが、トロは大っ嫌いです。大っ嫌いです。大っ嫌い。大っ嫌い。嫌い。嫌い。何度も何度も繰り返される。その度に心臓が重い打音を全身に轟かせる。体が炙られたように熱くなり、汗がこれでもかと噴き出してくる。
こいつ本当にみんなの前で告白しやがった。
俺の言葉で、わざわざ言いやがった……!!
俺に「好き」って、確かに言った!!
そう思うともう駄目だった。
俺は脇目も振らずにトロに駆け寄り、震えるその手を強く握り締めた。
「帰る」
呟くように言って、人波を掻き分けとにかく走る。
驚愕に彩られた周囲の声には一切耳を貸さずに走る、走る、走る。
頭の中では、ただただトロの“大好き”が終わらない山びこのように響いていた。