2
目は口ほどに物を言う。頭を過ったのはそんなことわざだった。
トロの瞳には何かとてつもなく大きな感情が渦巻いているように見えた。薄い皮膚に隠された声帯から、感情の乗った言葉が紡がれようとしているのが分かった。
なんだ、言ってみろ。
きりきりと締め上げられる胸の痛みに耐えながら、俺はひたすらトロの言葉を待った。睨み付け、威嚇するようにしながら待っていた。
お前本当はどう思ってるんだ。
「陸に、迷惑かけちゃってごめん」
ぽつりと落とされた声は揺れていた。
けれどトロは泣いていない。
可愛く綺麗に笑っていた。
「トロいろいろ下手だからその可能性を考えてないわけではなかったけど、またやってしまいましたな」
「たはー」とふざけた調子で言い、彼女は何かをごまかす様に頭を指先で軽く掻く。
そして一つ息を吐くと「でも」と続ける。
「陸が大切なのは本当。告白の回数は多いかもしれないけど、いつだって本当の気持ちをトロの言葉で伝えてるよ」
自信に溢れる瞳が真直ぐに俺を見つめてくる。その青色は偽物のはずなのに、まるでこれこそが彼女の本物の色彩なんだと錯覚してしまいそうな迫力がそこにはあった。
そんなものを前にしたら、俺は何も喋れなくなってしまう。
俺が喋らないとトロの独壇場だ。持ち前の明るさが彼女を誰よりも強くしてしまう。
「陸に迷惑をかけたのは謝りたいんだけど、トロの気持ちを陸に否定されるのは心外。ねえ、どうしたら陸は信じてくれる?」
「は?」
「陸にトロの気持ちを信じてもらえるように何度だって伝えなくちゃと思ってきたけど、それだと陸に迷惑がかかっちゃうでしょ? でも伝えなくちゃ陸は信じてくれないでしょ? ねえ、どうしたらいい? 解決策を教えてよ」
「なっ、自分で考えろそんなの」
「考えたよ。考えた結果失敗したんだからアップデートしなきゃ」
トロの「でしょ?」と小首を傾げる仕草に内心「何が『でしょ?』だ」とツッコむ。話が変な方向に進み始めてしまった。トロが暴走する前に話そのものを断ち切らなければならない。
熱量の増した脳をフル回転させる。今までトロに関わってきた経験というデータを頭の中で反芻し、対処法を捻り出そうと躍起になる。しかしなかなか妙案は浮かばない。そもそもトロが俺の意図で思うように動いた経験などありはしなかった。そのことに気づくのは帰宅後の話なのだが、そんなこと知りもしない現在の俺は「何でもいいから何か言え」と必死になって思考から言葉を掴み取った。
「皆の前で言ったら信じてやらなくもない!」
「ん?」
「アホらしい! 俺は帰る!」
きょとんと目を丸くするトロに向かって叫び、俺は全力で走り出す。
どうだざまあみろ。
そんなことお前にできるわけねえだろ。
脳内ではそんな台詞が踊っていたにも関わらず、心は萎んでいっそ泣いてしまいたかった。
酷い一日だった。いや、半日だった。
下駄箱の前でぐったりしながら外履きを取り出す。下したてのスニーカーは爪先を除いてぴったりと足を囲い込んでおり窮屈にすら感じた。
ふと隣を見やれば、女子数名が騒ぎながら昇降口を出る所だった。艶やかなローファーを履いている人もいくらかいるようで、「デザインが可愛い」だの「色が可愛い」だのとよく分からないことを言っている。
頭に浮かぶのは制服姿のトロだ。校則に則った膝丈のスカート、黒く長いソックス、靴はどんなのを履いていた――
いや、何でもいい。
頭をがしがしと掻き回し想像を引き裂いていく。
何でもいい。
あいつがどんな格好してようと関係ないね。
「腹減ってるんだ、きっとそうだ。帰る。即行だ」
呪文のように低く呟き足早に昇降口を出る。走っても良かったが、周囲を見回せば皆歩いている。入学式から全力疾走で帰宅する者など視界のどこにも居はしない。
変に目立つな。紛れこめ。人を隠すなら人の中。俺は人。そう、隠れるんだ。
この時俺は何故か酷く焦っていた。トロという嵐は振り切った。頭には先程の虚しいやり取りの余韻が残っているものの、たかが余韻だ。歩いているうちに薄れていくだろうからこれは放っておいても問題ない。
ならば一体何だと自問する。俺はこれから家に帰るだけだ。何も起こりっこないだろう。
そう、何も起こり――
“皆の前で言えたら信じてやらなくもない!”
唐突に、自分が発した最低最悪な台詞が脳裏を過った。
そして確信した。
これだ。
俺が焦っていた理由はこれだ。これ以外にあり得ない。
まずい。まずいことになった。
トロはあんな恰好をしてはいるが目立ちたがりではない。むしろどちらかと言えば「真面目に静かに穏便に」暮らしていきたいタイプの人間……だったように思う。見目の関係もありそれが叶わないことは本人が一番よく分かっていることを願うばかりだが。
つまり、俺はトロには絶対に無理な課題を提示した。そんなつもりになっていたが、本当の所どうなのだろう。
俺が出会った今日のトロは「高校生のトロ」だ。昨日までの「中学生のトロ」ではない。本人も言っていたが、トロは失敗したと思ったことに対してしつこくトライアンドエラーを繰り返し常々アップデートを進めている。今日のトロは昨日のトロに在らずというわけだ。
ということで、まずい。
俺の知るトロは人前で告白なんてできるような奴ではなかったし、そんな選択肢も持ち合わせてはいなかっただろう。
しかし今日のトロに俺は選択肢を与えてしまった。トロができると思えばきっと奴はやる。誰の前だろうと、「やろう」と思えば奴は俺に告白してくるだろう。自分の気持ちが偽物ではないと証明するために。
走ろう。思うよりも早く足が強くコンクリートを踏みつける。
真新しい制服を汗で濡らすことなど厭わない。速く。早く。奴の声の届かない所へ行こう。
そう思っていたのに。