蝶
その日、私は勤務先の会社にいた。
後に東日本大震災と呼ばれるその地震を経験するまで、私は自分の死について考えたことなどなかった。それは今まで平凡で面白味がないと思っていた私の人生が、実はとても幸せで有意義なものだった証明かもしれない。
地震の長い揺れが収った直後、私はすぐに娘に電話をかけた。自宅にいるはずの娘が心配だったのだが、あいにく地震の影響で電話は繋がらなかった。
とにかく私は不安だったのだ。
我が家は海のすぐ近くにあった。
娘は出産のために実家に帰省していたのだが、車は私が通勤で使用していたので彼女に交通の足はなかった。
私は会社を飛び出すとすぐに娘の元に向かった。
途中、道路は大渋滞をおこしていて車はなかなか前に進まなかった。カーラジオから聞こえてくる大津波警報という言葉が私の不安を増大させた。まさか自分がこんな事態に巻き込まれるなんて夢にも思っていなかった。
それでもなんとか自宅に辿りつくと、私は娘の名を呼びながら家に駆け込んだ。
結論からいうと私の行動は徒労に終わった。娘は近所の方の車で安全な場所に避難した後だった。私は娘を助けてくれた方に心からお礼を言いたかったし、おそらく何度お礼を言っても言い過ぎることはないだろう。その助けがなければ娘はここで命を落としていたかもしれないのだ。
そして私は自分の行動に後悔はしていない。
もちろん誰のことも恨んでいない。
私の願いは叶えられたのだから。
★
とある春の日。
娘は母の背中を見ていた。
柔らかな日差しと心地よい風を感じながら、娘はこの時間が母にとって大切なな時間であることを知っていた。まだ小学生になったばかりの娘だったが、彼女は母の行動の意味をきちんと理解していた。だから娘は母の邪魔にならないように良い子にしていたし、二歳になったばかりの弟の手をしっかりと握っていた。弟は放っておくと勝手に走り回ったり大声を出したりする。姉にとって弟の手を握ることは自分の役割だと信じていたし、今日もその務めを果たそうと心に誓っている。
母は故郷に帰ると必ずこの場所でお祈りをする。
娘はずっと母の背中を見てきたので、これが母にとって重要な儀式であることを知っている。普段は陽気で話好きの母なのに、この時ばかりは近寄りがたい雰囲気を醸し出す。娘はそんな母の気持ちを察し、お墓参りの時には母の邪魔をしないようにしている。
一方、姉に手を握られている弟はこの状況を理解できずにいた。まだ言葉もたどたどしい二歳児にとって、姉の心中も母の行動も理解するには難しすぎた。
弟はただ無邪気にその状況を楽しんでいた。
先ほどから一匹の蝶が三人の周囲を舞っていた。
時には高く、時には低く、時には母の頭にとまりそうなくらいに近づくその動きは、弟にとっては楽しい興味の対象でしかなかった。
どうして母も姉もこれに気づかないんだろう? どうして暗い顔をして俯いているんだろう?
弟にはそれが不思議だった。
せっかくなので姉に教えてあげようと思い、弟は繋いでいた姉の手を軽く引っ張った。姉も近くで蝶が軽やかに飛びまわっていることを知れば、きっと自分と同じように楽しい気持ちになるだろうと思ったのだ。
しかし姉は弟の想いには応えなかった。
姉は母の背中を無言で見つめていて、一度弟の手を強く握り返しただけだった。その力が思いのほか強くて弟は驚いたが、それでも弟は姉に気づいてもらいたくて何度か姉の手を引っ張った。弟は楽しいことを皆で共有したかったのだろう。
そんな弟のアピールは姉が怖い顔で弟を睨みつけるまで続けられ、弟もそれ以上すると本気で怒られることを察して終了した。
そしてまた静かな時間が流れる。
蝶はしばらく親子の周囲をひらひらと漂っていたが、やがて何かを諦めたかのようにその場から離れていった。
飛び去っていく蝶を目で追っていた弟は、その蝶が少し離れたところで他の蝶たちと合流するのを見ていた。そこには何種類かの花が咲いており、おそらく蜜を吸いにきたであろう蝶たちが集まっていた。
その時にはもう弟も蝶に対する興味を失いかけていたのだが、それでも漠然と『仲間がいてよかったね』と感じていた。
そして弟は他に楽しいことがないか、あらためて周囲を見回し始めていた。《完》




