6話
水汲みか。
小屋の裏手の納屋に回って、バケツほどの桶を両手に下げ、教えられた道を行く。
その水を汲むための沢はこの小屋を出て下った先にあると言う事だが、人が一人やっと通れるだけの細い道な上にろくな整備もされておらず、適当に削り取ったであろうと理解できる。
それにしても剥き出しになった岩肌とか、本当に勘弁してほしい。
何しろ底が薄い、靴もどきでは本気で痛すぎるのだから。
「はぁ・・」
立ち止まって、木々の隙間から除く景色に溜息が零れる。
「まるで日本の中央アルプスとか、そんな感じ?」
残念ながらTVでしか見たことはないが、視界に入る全てが雪冠を頂いた山の連なりで覆われている。その山々の中腹から緑を失い、荒々しい岩肌を覗かすその雄大な姿に、感動を覚えるというより絶句する。
そして、ここは人里離れたとんでもない場所!ということも理解した。
人が住むにはあまりにも険しく、そして深い。
それに婆さんも言っていたが、ここは霊験あらたかな山ということも判る気がする。
「確か今は初夏だと言ってたけど」
雪がびっしりと残っている様を見れば、標高の高さが分かるというもの。その割にはそんなに息苦しくもなく普通に生活できていたりするし、高山病はどこに消えた?
但し、かなり肌寒い。
「ううう・・」
思わず桶を置いて両腕を擦る。
「なんかもう1枚羽織るものでも欲しいよねぇ~・・」
何しろこの粗末なロングワンピの下は初期設定の下着だけ。
ほら、なんていうの?ランニングシャツじゃない、タンクトップにボクサーパンツだっけ?
ああ、両腿にも鳥肌が。
「う、動いて暖を取るしかないか」
桶を持ち上げ、ふらふらしながら崖道を下っていく。
それにしてもシューズは偉大だった。只の革を巻いただけの足元はあまりにもお粗末過ぎる。
「まぁ裸足よりはましだけど・・」
しかも足場が悪すぎて、ともすればずるっと滑るのも怖い。横の眼下は空間を覆いつくさんばかりの草木だが、かなりの急斜面なのは一目瞭然。足を踏み外したら、絶対にやばいと思わせる深いさがそこにあった。
ここは慎重に。慎重に。
それにして水場が遠い。もうだいぶ歩いているような気がする。
ふと振り返ってみても、背後には細い小道と高い木々ばかりでやはり小屋はもう見えない。
「いったいどれだけ遠いんだよぉ!」
ここをあのナル婆さんは毎日汲みに歩いていたわけか。
「はぁ・・」
本当に済まないことをしてしまったなぁ。これも自業自得ということで、頑張りますかね。
「はぁ・・やっとか」
水が流れ落ちる音が聞こえ、ちょっとだけ急ぎ足で下ると、目の前が少し開けた。
見渡せば上方から幾重にも細い滝が連なり、今目の前の高さ3メートルほどの滝へと続き、さらに下方に流れ落ちて行っている。
その滝の前にちょっとした水の溜まりがあり、道はそこへと誘う。
周りは大きな岩がゴロゴロしており、中でも少しだけ平らな岩が流れの留まった場所に突き出ているので、そこから身を乗り出して水を汲み上げる。
「よっと。危ない危ない」
中腰はバランスがとりにくいし、水を入れた桶はかなり重くて気を付けないと自らドボンだな。
それにしても、澄んだ冷たい水が実に美味そうだ。
「ついでに少し、水分補給しとこうっと」
両手で掬い、冷たい水を飲みこむ。
喉越し爽やか。水、最高!
何しろ、あれほど寒いと思っていたのに、ここに着くまでに少しばかり汗が噴き出していたのだ。疲労回復に天然水、ですかね。
ごくごくと何回も飲む。
「ぷはぁぁ~。やっぱうまいなぁ~」
口元を袖で拭い、沢の周りを今一度じっくり見渡す。
青々した木々に飛沫で濡れた草の葉。沢を駆け抜ける青い匂いを含んだ風に揺れる梢、その透き間から覗く青い空。ここには山の魅力が満載だ。
まぁ、ちょっとばかしザァザァと騒々しいが、それでもここは気持ちがいい。
「さて。行きますか」
但し長居は無用。
この気持ちよさが寒気に変わる前に戻るとしますか。何しろ、底冷えするほどこの辺りの空気は冷たかったから。油断したら凍える!
「よっこいっ正一!」
満杯の桶を両手に下げ、今度は軽く登りとなる道を進む。
これが意外にしんどい。
ただでさえ足元不用意なところにもってきて、時折桶の水が跳ね上がり、冷たい水が服を濡らす。
何が練習だ、くそばばぁぁ!
歩行訓練という割には難易度高すぎでしょ!両手に水の入った桶持っての、登りなんだから。
あああ~足痛い!
腰が辛い。膝ががくがくするぅーー。
「くっそ~・・」
ああ。また服が・・。
それに桶がぐんと重さを増したせいで、足に食い込む石やら岩肌やら、とにかく痛い。痛すぎる。
これは辛い。
かなりきつい。
ガサガサと、背後から草木をかき分ける音がし、不穏な感じがして思わず振り返る。
草葉の陰から、何かがぐっと顔を覗かせた。
「・・・はぃ?」
え?熊?!
それも・・。
「赤黒い・・クマ?!」
しかもでかい!
顔というか頭というか、それだけで直径1メートルはありそうな。
がさりと草木をかき分け現れたのは、象ほどありそうなバカでかい熊?!
「・・・・いーーーー?!」
思わず両手の桶を放り出して、走る。
背後で桶の転がる音。水が零れる音。そして何よりどすんどすんと地響きを立てる重量級の足音。しかも後からそいつが私を追いかけてくるのが分かる。
ただ、あまりに狭い道のために何度か足を滑らせているらしく、何とか追いつかれることはなかったがそれでも数度、背中に荒い鼻息がかかることはあった。
その獣臭というのか、熱量というのか。
恐怖で竦み上がりそうな体に叱咤するしかない。
右の脹脛に痛みと熱が襲う。何かがかすめたのだ。
痛い、痛い。
やばい!
ガリって言ったぁぁぁ!
背中にも軽い衝撃が襲う。熱い。何かが背筋を伝う。
痛い痛い痛い。
しかもあいつは巨体に物を言わせて、周りの木々をなぎ倒して追ってきている。木をへし折る音やなぎ倒され斜面を滑り落ちて行く音。草木の悲鳴が木霊する。
背後でその凄まじい音がする。
泣いたらだめだ、力が抜けてしまう。
やばいやばいやばい!
歯を食いしばれ、走るんだ。
死ぬ死ぬ死ぬ!
もう足がどうの痛みがこうのなどと言っている場合ではない、本気で、死ぬ気で駆けて上がっていく。全身に嫌な汗が流れる。息が上がり、呼吸する度に肺が痛い。
この服、走りにくい!
道が狭すぎる!
追いつかれそうだぁ・・。
再び頭に軽い衝撃を受け、くらっとするが気にしちゃだめだ!
まだ走れる。気張れ、まだ、まだ動けるはずだ。
歯を食いしばれ!
死ぬ死ぬ死ぬ!
血の匂いが、する。気にしちゃだめだ。
(た、たすけてぇーーー!)
悲鳴を上げる余裕さえない。
それどころか、声に出すと力までどこかに出ていきそうで怖い。
あ。
もつれた足で思わず前につんのめった時に頭上を風圧が襲い、ぞっとした。慌てて両手両足を使い這うようにまた走り出す。私のすぐ背後でうなり声が。
やばいやばい。
「ひぃー・・・」
掠れたか細い声が自分の耳に届く。
なんて情けない声なんだぁ・・。
額から流れ落ちる汗が目に入り、それが沁みて視界が狭まるがそんなことを気にしてはいけない。
死ぬよりましだ。
そうだ、追いつかれたら死ぬ。走れ走れ、走るんだぁぁ!
心臓が、今にも口から飛び出しそうだ。血管という血管が沸騰する。
怖い。怖い怖い。
耳元で風を切る音がし、嫌な音とともに左肩が焼けるように痛い。
足がもつれる。
だめだ・・もう・・。
いや、まだだ!こんなところで死ねない!死にたくない!だから死ぬ気で走れ!走れって!
(ああああ、小屋だ!)
小屋が見えた。
もうすぐだ。もう目の前だ。
早く!早く!あそこに逃げ込まなくては。
何とか転がるように小屋に入り、閉めた扉を抑えてガタガタと震える。ともすれば崩れ落ちそうなほど膝に力が入らず、心臓が飛び跳ねているのに手足がやけに冷たい。
そして焦げ茶色だった服が黒に染まり、裾からぽたぽたと落ちる赤い雫。
締め付けられたような肺からヒューヒューと空気が零れ、呼吸が苦しい。それでも生きてる。
ここまで、逃げ切れた。
「何、やって・・どうしたんだぃその怪我は?!一体何が・・」
いつもはいないはずの婆さんが何故?
というか、今はそれどころじゃない。ここも危ないかもしれない!
「ク、クマ!熊!赤っ、でで、で、でっかい・・」
凍えた舌がうまく回らない。
「とにかく、落ち着くんだよ!」
「来る!あ、あれ、あれが、来る!」
肩を抱かれ、身体が思わず跳ね上がる。
「いいから落ち着け!ここの周辺には結界が張ってあるんだ!何も入っちゃ来れないよ!」
「で、でも、くま!化け物、クマ!」
体の震えは止まらず、ナル婆さんにしがみつく。滂沱の涙でその姿すらはっきり見えない。
「しっかりおし!気を強く持つんだよ!大丈夫だから!」
「で、でも・・・」
もう完全に腰が抜けてしまい、ずり落ちた私はそのまま縋りついて泣いた。
本当に怖かったのだ。
どうしようもないほど、怖かったのだ。
本当に死ぬかと思ったのだ。
「水桶は私が何とかするから、あんたはそこで少し休んでな。・・酷い有様だねぇ。血だらけじゃないかぃ」
いまだに震えが止まらない。涙もずっと止まらない。鼻水もだらだら出ている。
ああ、確かに酷い様だよ。
でも、生きてる、生きてる。生き残れた。
「赤っぽいでかい熊なんだね?」
ナル婆さんに尋ねられ、何度も頷く。
「そかそか」
意外なほど優しい手が頭を撫で、少しずつ思考がまともになっていく。
「・・マグナベアだね。また、何だってこんな浅いところに。厄介な」
言いながら、しがみついていた手を払われ、一気にまた不安と恐怖が襲い掛かってくる。
いなくならないで!
私を見捨てないで!
足にしがみついて懇願する。
「そんな顔すんじゃないよ。何ちょっとそいつを退治してくるから。大丈夫だから。私にかかればちょちょいのちょいさ!だからほら、離しなって」
「ああ危ないよ!あれは、山みたいに、でででかくて」
「大丈夫だから。それに結界もあるからあいつはこの辺には入れないから」
「で、でも・・」
「大丈夫だよ」
私の視線にまで腰を落とし、頭を撫でながらナル婆さんが笑った。
初めて見たよ、婆さんの笑顔。
「後で傷を見てやるからね。その前にその泥だらけな顔とか手足とか、洗っちまいな。た、だ、し。こっちの大瓶のほうだからね!」
「は、はい」
ナル婆さんは戸口の横に立てかけてある長い杖を握って、もの凄い速さで飛び出して行った。
残された私はといえば、全身を襲う痛みと安堵からからか、座り込んだまま立つことさえ出来ないでいる。
ドクドクと動脈が打つ音がやけに耳につく。
目を瞑れば、さっきまでの恐怖が鮮明に思い出され、流し台の下で体を丸めてまた泣き出す。
あんな怖い思いは初めてだった。
怖くて怖くて・・。
「うう・・うう・・」
なんで、私はここに、いるのだ?
日本に帰りたい。
・・・帰りたい・・。
扉が開く音で体がまた跳ね上がる。
恐る恐る腕の隙間から覗くと、そこには仁王立ちのナル婆さんがいた。
「もう大丈夫!」
そう言いつつも、外のほうを睨んでいた。
「結界の外でまだうろうろしてやがったから、さくっと倒してきてやったさね!安心しな」
「‥倒した?」
「ああ。倒したよ、後で見てくるかぃ?」
思わず首を横に振る。
見たくない、怖い。
だが、ナル婆さんのその横顔はえらく締まって見えた。
それに比べて私ときたら、今でも震えが収まらない。それに思考がぼんやりしてて、張り詰めたものが一気に抜けてしまったようだ。
「なんだい、まだ洗ってなかったのかぃ」
腕を掴まれ立たせようとしてくれたが、腰が抜けてて。
「しょうがないねぇ。そのままじっとしているんだよ、今洗ってやるから」
何か呟きながら「ウォーター」というなり、私の全身は大きな水玉に覆われ、ぐるぐるを洗われて行く。たかが数秒の出来事だったが、ああこれが魔法なんだとぼんやり思った。
やがて赤黒く染まった水玉は婆さんが手を振ると霧散する。
「だが、ビタビタになっちまったねぇ。服も脱ぎな。もう、あっちこっちボロボロだ」
言われた通り濡れて重くなった服を脱ぐ。ついでにタンプトップも脱いだ。そのどちらも無数の裂けたような痕があり、その間体中にあちらこちらで引きつったような酷い激痛に襲われ、唸る。
「うう・・うううううう・・」
痛い。痛い。
それだけじゃない。もっと悲惨だったのは足のほうだ。
靴もどきの革を取ると、足の爪は割りたり半分剥がれそうになっているだけではなく、踏ん張る親指や小指は変色し2倍にも膨れ上がっていた。
そして足の裏も変色しこれまたパンパンに腫れている。細かな傷はともかく、激痛の正体がこれだったとは・・。
何より右の脹脛はぱっくりと抉られ、今でも血の海を作り続けていた。
「ああ。こりゃまた、酷い。背中と肩の傷は浅めだが、それでもよくもここまで走ってこれたもんだよ。だが、あいつに狙われてこの程度で済むとは、存外運がいい。さて。ちょっとばかり強めの神法掛けるからね。全身かなり熱く感じるだろうけど、大丈夫だから」
涙目のまま、頷く。
「・・・御神名はジアリアス。天に座し光輝たる生命育む癒しの手、偉大なる時の再生噤む力。我名はレ・ナル。我手に宿りて彼の者に下り、現世にその名を示せ。ハイ・ヒーリング」
「う・・」
熱い。まるで全身が火に焙られているかように熱い。でも痛みのほうはどんどん引いていくのが分かる。
「よし、もう大丈夫だろう。手足とかを欠損したら、さすがに元には戻せないからねぇ~。神法ってのは確かに便利じゃあるけどね。その分制約も多いのさ。本当に運がよかったよお前は」
「は、はい」
気が付けば痛みどころか傷もすっかり癒えている。
「さて。着替えがいるわなぁ・・」
ちらりと床の上の残骸を見て苦笑し、ナル婆さんは奥の自室に向かう。
その間に、この床の血溜まりを何とかせねばと。
傷は癒えたのだからと重い腰を上げ、流しで服を絞って血と残り水を拭き取ろうとして、え?と広げて裏表を確認する。
なんと。タンプトップに出来ていた裂けめが消えているのだ。
ええ?なんで?
まさか、さっきの魔法って下着まで直せるの?
それにしてはワンピの方は、確かにボロボロなんだけど・・。
「ほら。これでも着ときな」
またしても同じようなロングワンピースもどきをテーブル上に投げてよこしたが、今の私はそれどころではない。
「何やってんだぃ?下着なんか・・」
「だって、ほら」
「・・こいつは驚いた!こんな下着が神器だっていうのかぃ?」
「神器?」
「ちょっと見せてみな」
ナル婆さんが奪い取ったタンプトップを矯めつ眇めつ調べている傍で、私は床掃除を始める。
どうせ前の服は元からぼろかったのだ。十分、雑巾替わりにはなる。が、鉄さびみたいな生臭い血の匂いにちょっと気分が悪くなった。
でも自分の血だからなぁ。文句は言えないし。
「こんなものが、神器とはねぇ~・・。ほら、これも着とけ」
「あ、はい」
「そいつのおかげで背中の傷が浅かったんだな。下着に感謝しなよ」
「はい」
タンプトップを受け取り、まだ濡れてるが着こむ。というか何故か安心する。なんだろう、着慣れているせいか?
しかし驚きだ。こんなものが神器?ただの、初期設定の下着なのに。
「そういや、あんた。後頭部を見せてみな。そこも怪我してただろう?」
「ええ。でももう痛みはないし、多分治っているかと」
だが、婆さんに後ろを向かされた。
「ふむ。髪も再生したらしい。剥げてたら面白かったのに、残念だよ」
「なぁぁぁ?!」
何を想像してか、笑い出す婆さんをちょっと恨みたい。
「でも。まだ顔色が真っ青だね。さすがに失った血までは再生できなかったか。今日は休んでな。血肉になりそうなもん、何か取ってくるから」
「お、お肉ですか?」
これはもしや?!
「肉が食いたいなら捕って来てやるよ」
「おおお、お肉!」
「はいはい。分かったから、ぶっ倒れる前にもう休んでな」
「はい」
お言葉に甘えてそうさせて頂きます。
と言うわけで、早速ベットに転がると全身泥でも詰まっているかのような酷い疲れを感じる。
そうか。
そうだよね。
九死に一生、そんな出来事だったもんなぁ。
「ったく、獣臭いのは苦手なんだよ」
とぶつぶつ言いながら出ていくナル婆さんを見送り、重い瞼を閉じた。
駄文を読んで頂き、感謝に堪えません。