湖へお出掛け
翌日、使用人に頼んでピクニックの準備をしてもらい、お昼前に私とソフィー様は湖へと出掛けた。
ソフィー様も乗馬ができるということで、馬車ではなく馬に乗っての移動である。
荷物は付いてきてくれる使用人に任せて、私達はゆっくりと馬を歩かせながら湖へと向かった。
道中、畑仕事をしている領民に声をかけられながらも、無事に湖に到着する。
「水が透き通っていて綺麗ね。あ、魚がいるわよ」
「ソフィー様、覗き込んでいると危ないですよ」
「大丈夫よ。ねえ、ボートはないの?」
「ありますが、まずはお昼にしましょう。馬に乗っていて疲れたのではありませんか?」
こちらの予想以上に喜んでもらえて嬉しいけれど、体力を消費したままの状態でボートに乗るのは危ないと思うのよ。
まずは、一休みして体力を回復した方がいいわ。
興奮していたソフィー様も、そう思ったのか恥ずかしそうにこちらへと戻ってきた。
「はしゃいでしまって恥ずかしいわ。ここまで透き通った湖を拝見するのは初めてだったので」
「喜んでもらえて光栄ですが、バーネット侯爵領には、このような場所はないのですか?」
「バーネット侯爵領は王都の次に栄えている場所だから、あまり自然が豊かだというわけではないのよ。もちろん、郊外にはあるのだけれど、私は王都に滞在していることが多いから」
「用がないと、郊外まで出向くこともありませんものね」
バーネット侯爵領は広大だっていうしね。
それに、ソフィー様も言っていたけれど、彼女は領地よりも王都にいる期間が長いから、尚更かもしれないわ。
「それにしても、人気のない静かな場所ね。これだけ綺麗な湖なら領民達の姿があってもよろしいのに」
「ここら辺は王領地の隣ということもあって、領民の立ち入りを制限しているのです。森に狩りに行って、王領地に間違って足を踏み入れたら大問題なので」
「それで人がいないのね」
そうなんですよ、と答えつつ、私は屋敷から持ってきたサンドイッチを口にした。
うん。美味しい。
「ソフィー様もどうぞ」
「ありがとう。頂くわ」
そうして、湖を眺めてお喋りしながら、デザートのアップルパイを食べ終えたところで、誰かの話し声がかすかに耳に入ってきた。
もしかしたら、領民が来たのかしら?
でも、立ち入りは制限されているはずだから来るはずがないのに、と不思議に思っていると声が段々と大きくなる。
どうやら、複数の人がこちらに近づいているようだ。
「どなたでしょうか?」
「お嬢様方はこちらでお待ち下さい。私が様子を見て参ります」
すぐに使用人が近づいてくる人の方へと早足で向かっていき、私とソフィー様は顔を見合わせる。
「屋敷で何かあったのでしょうか? それで呼びにきたとか」
気になった私が使用人を見ると、彼女はやってきた人達に向かって大袈裟なくらいに頭を下げていた。
うちの使用人があの態度を取るということは、相手は上位の方なのかもしれない。
「あら、こちらにいらっしゃるわ。ということは、私達に用があるのかしら」
「かもしれませんね」
少しして、近づいてきた人達の姿を確認した私は叫びだしそうになるのをすんでのところで堪えた。
だって、そこにはルーファス様とマリオン殿下がお供を連れて歩いていたんだもの。
どうしてここにお二人が!? と混乱していると、さほど驚きはなかったのかソフィー様はすぐに立ち上がり、マリオン殿下に向かって頭を下げた。
慌てて私も立ち上がり、同じように頭を下げる。
「やあ、ソフィー。隣の王領地に旅行に来ていたら、こちらにソフィーが滞在しているって聞いてね。一度、顔を見せておこうと思ったんだ」
「まあ、そうでしたのね。わざわざ出向いて下さいまして、ありがとうございます」
「いいよ。俺が来たかっただけだからね。ソフィーの顔が見たかったってのもあるし。元気そうで良かったよ。最近、何か悩んでいるみたいだったから」
「そうですか? そのように見られていたとは思いもよりませんでした。ですが、悩みなどございませんのよ?」
ふふふ、とソフィー様は微笑んでいるけれど、夏休み前の態度を思い出した私は何も悩みがないというのは嘘ではないかという疑いを持つ。
些細な彼女の変化を見抜いていたマリオン殿下はさすがとしか言いようがない。
「それにしても、ルーファスが一緒なのに驚きました。屋敷では王領地に伺うことは話しておりませんでしたから」
「ああ、俺が急に誘ったんだよ。話し相手が欲しくてね」
「巻き込まれた僕はいい迷惑だなんだけど」
「ルーファス……。マリオン殿下に失礼でしょう?」
やる気のなさそうなルーファス様は今も帰りたそうにしている。
まあ、王領地まできたのは十中八九、ソフィー様がレストン伯爵領に滞在しているからでしょうね。
王都の貴族達の目を気にせずに、偶然を装って会えるんだもの。
それに、ソフィー様の動向はルーファス様を通して筒抜けのはずだし。
こんな田舎にくるなんて、マリオン殿下は本当にソフィー様が好きなのね。
「ああ、アメリア嬢。挨拶が遅れてごめんね」
「いえ」
マリオン殿下の目にはソフィー様しか映っていなかったでしょうから、私に気付かないのも仕方ないわ。
だけど、レストン伯爵領に王族がいるなんて、場違い感が半端ないわ。
これほどのどかな田舎の風景が似合わない方もそういないと思う。
やっぱり、きらびやかな人はきらびやかな場所が似合うのね。
「ということで、少しお邪魔してもいいかな? 挨拶だけして帰るというのも素っ気ないしね」
「私は構いませんが。アメリアさんは大丈夫?」
目立つ人が近くにいて平気? と聞かれているのだろう。
手紙の受け渡しで多少はマリオン殿下に慣れているので、問題はない。
ただ、彼の気持ちを知っているから、ソフィー様に対する罪悪感があるだけ。
「私は大丈夫です。我が領地に王族の方がいらっしゃることなど、そうそうございませんから。大変名誉なことだと思いますし。大したおもてなしもできませんが」
「それは構わないよ。当日に連絡をした俺が悪いんだから。今日はお忍びで来ているから、気にしないでね」
わあ、とても良い笑顔だわ。
ソフィー様に会えたらそれで良いんでしょうね。両親的には助かるだろうと思うけれど、胃が痛くなるんじゃないかしら。
「それで、何をしていたの?」
さり気なくソフィー様の隣を確保したマリオン殿下は、私にではなく彼女に話しかけている。
ここまでくるといっそ清々しいと思う、という感情が顔に出ていたのか、私はルーファス様に労られるように肩を軽く叩かれた。
彼を見ると、私と同じような表情を浮かべている。
私などよりも、ルーファス様の苦労の方が大きいですよねぇ。
視線だけで私達が会話をしていると、マリオン殿下とソフィー様は連れ立ってボートの方へと移動していく。
「お、お待ち下さい! どちらへ行かれるのですか!」
「どちらへって、ボートに乗るんだけど?」
それが何か? という表情を浮かべているけれど、何がどうしてボートに乗ることになったのですか!
「ソフィーがボートに乗りたいって言うから。なら、漕ぎ手は男である俺の方が良いと思ってね。小さい湖だし浅いところにしか行かないから。それにソフィーが乗りたがっているんだよ?」
「それはそうですが」
さっきまでのソフィー様の興奮振りを見ていたら、ボートに乗りたいのは嫌というほど分かる。
でも、何かあったりしたらどうするのよ、って! 話しているのに、さっさと行ってしまったわ。
後ろから慌ててソフィー様の侍女やマリオン殿下の侍従が追いかけて行く。
「ああなったら、マリオン殿下は人の話を聞かないんだよね」
「顔に似合わず、強引な方ですよね」
「本当だよ」
同時に私達はため息を吐いた。
ある意味、マリオン殿下の被害者ともいえるから、なぜだかルーファス様には親近感が湧いてくる。
「あの、ルーファス様はボートに乗らなくてもよろしいのですか?」
「……一人で乗って何が面白いの」
「そ、そうですよね」
「それに、姉さんとマリオン殿下の会話を聞きたくもないしね。だったら、ここであんたと話していた方がマシじゃないか」
た、確かに、お二人の会話を聞いていたら、きっと胃が痛くなってくるわよね。
私だってごめんだもの。
などと考えていると、ルーファス様が敷物の上に腰を下ろしたので、私も少し距離を置いて座る。
桟橋の方へ視線を向けると、笑っているマリオン殿下と何やら怒っているソフィー様の姿があった。
マリオン殿下が余計なことを言って、ソフィー様が文句を言っているのかも。
でも、ああしてみると、ソフィー様は年相応の女性に見えるわ。自然体で接しているのが分かる。
マリオン殿下は物腰が柔らかい方だから、ついつい本音を口にしてしまうのよね。
だから、ソフィー様もそうなんだと思う。
見目麗しいお二人はとても絵になるけれど、ソフィー様の思い人は王太子殿下というのが何とも言えない。
彼女の性格を考えると、王太子殿下よりマリオン殿下の方が良いのではないかと思ってしまう。
そんなことを考えながら、お二人を見ているとソフィー様がよろけてしまい、慌ててマリオン殿下が彼女の肩を掴み、声をかけた。
見つめ合った後で、少し頬を染めたソフィー様は恥ずかしそうに視線を下に向けている。
……失敗なんてできないとか言っていたソフィー様が、ああも簡単に躓いてよろけるということができるなんて。
いつもはバーネット侯爵家の令嬢として気を張って、完璧な令嬢を演じていただけなのかしら? もしかしたら本来の彼女の姿は、ああなのかもしれない。
だからといって、私のソフィー様に対する憧れや尊敬の念は揺らがない。
むしろ、新しい一面を知れて嬉しいと思っているくらい。
あれを、王太子殿下の前でもお見せすることができればいいのに。
すっかりお二人に夢中になっていると、隣から声をかけられた。
「にしても、本当にここって何もないよね。行けども行けども自然ばっか。あんた、よく退屈しないね」
「生まれ育った土地ですので、これが当たり前になっているのです。屋敷の近くにあるのが一番大きなお店というくらい田舎ですが、その分、人は良いのですよ?」
「ああ、ここに来るまでに領民から色々と質問されたっけ」
「い、色々? 何を質問されたのですか?」
相手が王族だとは知らないだろうから、何か粗相をしたのではないかと私は急に心配になってくる。
「ニコニコ笑って、どこから来たのかとか、ちょっと休憩していったらどうかとか言われた。見知らぬ他人を家に上げようとするなんて、どれだけ人が良いの? って呆れたよ」
「それは、とんだ失礼を……!」
「マリオン殿下は全く気にしてなかったから、大丈夫じゃない? あの方は他人の好意と悪意を瞬時に見分けるからね。純粋な好意だって分かっているから、何も言わなかったし。でも、侍従が側にいれば高貴な人ってのは分かりそうなものだけどね」
「ああ……。それは、うちの両親が貴族っぽくなくて、領民と距離が近いのが原因だと思います」
一応、領主と領民という線引きはしているけれど、他の貴族と比べたら仲は良いと思うのよ。
大体、レストン伯爵領に高貴な方が来ることなんて今までなかったもの。
馬車で通り過ぎる人がほとんどだったから、領民にとって貴族というのはうちの家族が基準なのよね。
目立つような立場じゃないから気にしなかったけど、今回のようなことが今後もあるかもしれないし、お父様に言って領民に話をしてもらったほうがいいかも。
「……まあ、悪い気はしなかったかな」
「え?」
「欲にまみれた奴らに囲まれているから、善意の塊みたいな人達に会えたのは新鮮だったってだけ」
ルーファス様はそれだけ言うと、思いっきり顔を逸らしてしまった。
多分、恥ずかしいのよね、これは。
なんとなく彼の行動パターンが分かるようになってきたかも。
きっと素直になれない方なのね。
「我が領地の領民が馴れ馴れしく接したことにお怒りにならなかった、お二人の気遣いに感謝致します」
「大げさ。あと、あんた人が良すぎ。それで次期レストン女伯爵が務まるの?」
「はい?」
「だから、あんたは一人娘でしょ? だったら、婿をとって跡を継ぐんじゃないの?」
まあ、娘しかいない貴族は婿をとって跡を継ぐのが、この国では一般的だものね。
でも、私は女伯爵という目立つ立場になる気はないわ。
その器でもないしね。私が跡を継いだら、領地が危機に陥ってしまう。
「あの、私は跡を継ぎませんよ? 恐らく父の弟の息子、つまり私の従兄弟ですけれど、彼が跡を継ぐと思います」
「……婚約者いたんだ」
本当に意外そうな顔をルーファス様はしている。
婚約者もいない地味な女だと思っているのね。事実だけど、ちょっと失礼だわ。事実だけど。
「婚約はしておりません。父の養子となって跡を継げばよろしいと私が思っているだけです。父からは私に跡を継いで欲しいという話は聞いておりませんから。ですので、父も従兄弟を後継者として考えているのではないでしょうか?」
「そうなんだ……。……って別に、どうでもいいけど!」
え~。自分から聞いてきたのに……。
さっきは行動パターンが分かるようになってきたかもって思ったけど、今ので分からなくなったわ。
やっぱり、現実の男性の考えることは私には理解できないのかもしれない。
う~ん、と考え込んでいると、近くの茂みからガサガサと音がし始めた。
周囲が警戒する中、現れたのは尻尾を物凄い勢いで振る大きな犬。
人懐こそうな顔で可愛い。首輪をしているし、どこかの家から逃げたのかも。
「猟犬……ではなさそうですね。首輪もしているので普通の飼い犬かもしれません。随分と人間に慣れているので逃げ出してきた可能性がありますね」
さて、どうしようかしらと悩んでいると、ルーファス様から何の返事もないことに気が付いた。
「ルーファス様?」
見ると、彼は犬を見て固まってしまっている。
犬が苦手なのかしら?
だったら、首輪を持って動かないようにした方がいいかも。
私は立ち上がって犬に近づき、そっと頭を撫でる。
嬉しそうに私の手を舐め始め、じゃれついてくるところを見ると危険はなさそうね。
そのまま首輪を握り、犬がルーファス様の方へ行かないようにした。
「ルーファス様。私は、この子を町長に引き渡して参りますので、マリオン殿下とソフィー様をお願いできますか?」
「え? は? 一人で行くの?」
「はい。町長に引き渡して、飼い主を探してもらいます。さほど時間はかからないと思いますが」
「……僕も行く」
え? 犬が苦手なんじゃ?
「無理はなさらずとも」
「い、犬なんて怖くないし! 大きいから驚いただけだし!」
「はあ」
いや、声が上擦ってますけど。
本当に大丈夫なのかと心配していると、ボート遊びから戻ってきたマリオン殿下とソフィー様が犬を見て驚いていた。
事情を説明すると、マリオン殿下がソフィー様を屋敷まで連れて行ってくれるということだったので、言葉に甘え、私とルーファス様は町長のところへと向かった。
しっかりと首輪を握り、遊べ! 遊べ! と全身で表現してくる犬を宥めながら、無事に町長に犬を引き渡す。
どうやら、猟犬には向かないということで猟師の家で飼っている犬だったらしい。
「無事に飼い主が見つかって良かったですね。あれだけ人懐こくて落ち着きがないと猟犬としては使えませんから」
「……がっかりしないの?」
「犬にも性格がありますからね。適性がないのは仕方がありませんよ」
「違うし! 犬如きに怖がる僕を見てがっかりしなかったのかって聞いてるの!」
そっち!? てっきり、犬の適正の話をしているとばかり。
いや、でも、あの子は割と大きな犬だったし、怖がるのも無理はないと思うわ。
大体、犬が怖い人を見てがっかりするわけないじゃない。
「飼い犬は平気ですけれど、私だって野犬は怖いですよ。人に慣れていないので噛まれる恐れもありますし。ルーファス様にとっては人懐こい犬が野犬のように見えるだけという話ではありませんか。何もおかしくはありません。誰にだって苦手なもの、怖いものはありますし、それでがっかりすることはないです」
言い終えると、急にルーファス様が立ち止まり、呆然とした様子で私を見ている。
二、三度瞬きをした彼は、ああ、あんたがそうだったんだ、と呟いた。
「私がどうかなさいましたか?」
「こっちの話。全部繋がっただけ。それですっきりしただけだから」
「それなら、よろしいのですが」
「あと、あんたの名前。確かアメリアだったよね?」
「はい」
「じゃあ、これからはアメリアって呼ぶから」
突然、名前を呼ばれてしまい、今度はこっちが呆然としてしまう。
ルーファス様の中で何があったのかは分からないけれど、どうやら私を一人の人間として認めてくれたらしい。
「言っておくけど、アメリアに拒否権はないから。嫌だって言っても……呼ぶし。困るけど呼ぶし」
「結局、呼ぶのですか?」
「呼ぶよ。僕の勝手でしょ」
「それは構いませんが……。あ、でも人前では止めて下さいね! ルーファス様を好きな方々に袋だたきにされてしまいますから!」
それだけは困るもの!
学院で人気のあるルーファス様から名前で呼ばれているなんて、ソフィー様と親しくしている以上に注目を浴びてしまう。
女子生徒から嫉妬されて攻撃されるのは、ごめんよ。
「女って面倒臭い」
「ええ、女性というのは面倒なのですよ」
よほど私の言い方が鬼気迫っていたのか、ルーファス様は神妙な顔をして頷いてくれた。