第94話 目覚めの時 その4
クニヌシの話によれば、アレを拓海が持ち出すことが出来れば、ワカヒコを元の姿に戻すことができるはず、という不確かな話だった。誰も持ち出したことのない、冥界の都市伝説のような存在のため、その効力は明確ではない。
梓が拓海に持ち出させようとした物とは別物。
梓も拓海も同じ人の子ではあるが、霊力の差がありすぎた。その差を埋めるように、梓は香にも拓海にも話せないような所業にも及んだ末に手に入れた力。同じ力でも、拓海が生まれながら備えている高貴な龍の力を光とするならば、梓の力の源は闇でしかなかった。
闇の力では持ち出すことができない梓が所望する物というのは、拓海がクニヌシの話から連想した冥界の宝剣の一つ。拓海はまだ、ある物としか聞かされていない。
どちらにしても、冥界に渡るためには、仮死状態になるだけでなく、もう一つの条件があった。
「そろそろ頃合いだと、俺は見ているのだが。拓海、お前は龍になる兆候はないか?」
全くその兆しを感じない拓海は、父親にも聞かれた同じ質問に正直うんざりしていた。
「ないよ。それ父さんにも聞かれた。しっぽもないし火も吹かない。いたって普通の人ですよ、俺は」
缶ビールを片手にクニヌシは、まじまじと拓海を見る。確かに、クニヌシにも拓海からなんの気配も匂いも感じることができない。梓の話によると、拓海は生まれて間もなく、いっときの間だけだが小さな龍の姿になっていたという。であれば、拓海はいつ変化してもおかしくないのだ。
「拓海、お前の体を調べてさせてもらうぞ。そう怯えるな。変化できないように、何かが記されている可能性があるのではないか、と思ってな」
そう言われて、拓海は着ていたセーターの袖をまくって腕を見てみるが、毎日、風呂に入っても、体のどこにもそんな印を見たことがなかった。クニヌシが真面目な顔で言ったように、何かに抑制されていると考えるのは正しいように思える。
「普段は見えないものかもしれないってこと、ある?」
「ある」
自分が龍に変化するかもしれないという可能性に拓海は好奇心を煽られ、言われた通りに全て服を脱いで調べてもらうことにした。羞恥心を捨てた訳ではない。
「・・・全部?」
クニヌシは腕組みをして、拓海が脱ぐのをじっと待っている。
「そうだ。全部。眼鏡も外せ」
仕方なく拓海は上着から順に服を全て脱ぎ捨て、クニヌシに背中を向けたまま、その場に黙って立った。クニヌシは拓海に近づき、何かを呟くと、手のひらを体に触れないように、体の線に沿って動かし始めた。
(空港の手荷物検査で引っかかった時のような感じだな)
背後を調べ終わると、クニヌシは今度は拓海の前に移動し、頭から順に足の裏まで手のひらをかざした。拓海は一言も発しないが、顔はそこはかとなく赤い。
「ない。一体どういうことだ・・・」
クニヌシの身体検査が終わったことが分かると、拓海は急いで服を着た。クニヌシはおかしい、おかしい、何故だ、と繰り返し自問自答している。
「やっぱり俺には」
「そんなことはない。お前はすでに一度は変化しておるのだ。何かきっかけがあれば必ず変化する。仕方ない、この手は使いたくなかったのだが」
クニヌシはおもむろに立ち上がると、台所の戸棚の引き出しから、何を思ったか小さなソーイングセットを持って部屋に戻ってきた。その中から針を一本取り出し、自分の右手の人差し指をプスリと刺す。
指の腹に丸く血の球が浮かんできた。クニヌシは拓海に向かって、その指を突き出した。
「拓海、この血を飲め。舐めるだけでいい。俺の血は100%龍の血だ。普通の人間には毒にもなるが、お前であれば、良い起爆剤となるやもしれん」
(オレンジ100%みたいに言うなよ・・・)
拓海はクニヌシの思いつきに躊躇したが、説得力はある。と拓海は思った。神の指を舐めるというのは、少しご利益がありそうな感じもするが、毒でもある。恐る恐る、差し出されたクニヌシの指先に拓海は口を近づけ、子供が苦い薬を舐めるように、ちょろっと舌を出して舐めてみた。
「・・・何も起こらんぞ」
それでもクニヌシは黙って拓海を見ている。たった一滴のクニヌシの血の雫が拓海の唾液に混じって、喉を通過した時、異変は起こった。かつて感じたことがないほどの死ぬほどの苦しみがこみ上げてくる。まるで、溶けかけた熱い鉛を体に流し込まれたような。
「息がっ!・・・っつ、ぐっっ・・あうぁ・・」
言葉にならない拓海の押し殺されたような叫び。痛みに耐えようと床にうずくまるも、胸の熱さは今や全身を巡っているからたまらない。だが、拓海の中にあった龍の鼓動が聞こえてくるのに、そう時間は掛からなかった。
(ほう。これはまた・・・なかなか)
読んでいただきありがとうございます。私も一度でいいから変化してみたいものです。




