第90話 カンテラの中へ
「はい、おしまい」
モノカミによる儀式について一通りの説明が終わった。
結局のところ、夏樹の最後を看取るのはモノカミの仕事。
説明したモノカミは意外にも淡々としているのが、夏樹はやはり違和感を覚えた。
これから我が身に起こるであろうことを考えると、屍人の身の上とはいえ、やはり不安になるのは仕方ない。
夏樹はその場に座り込んで呆けた顔をしている。
話を聞く前までは、穏やかな光が差し、岩清水の心地よい水の音が心を満たしてくれるような感覚が心地よかったのだが。
「淳之介達が戻ってきたら、なっちゃんはここで支度を始めてもらうよ。それまではここを動かないように。あと、この世のものは何一つ持ち出せないから。そのつもりで」
夏樹はうん、と頷くとモノカミの飄々とした様子を見ていた。
姉妹が淳之介が帰るのを外で待つと言って、また灯篭の灯りだけの暗い森へと消えていった。
にこやかに姉妹に手を振るモノカミ。
「ねえ、モノカミ?」
姉妹を見送った後、モノカミは足元に座り込む夏樹に振り返った。
「なあに?」
裸足で草の上に立つモノカミの華奢だがキュッと上がったふくらはぎがアスリートのようだ。
つい夏樹の目に映ってしまう。
とても綺麗だから。
「正直に言うと、やっぱり怖いって言うか、ちょっと不安なんだ・・・」
モノカミはゆっくりとしゃがみこみ、俯く夏樹の顔を覗き込むように言った。
「平気だよ。眠るだけ、それだけのことさ。怖いのは、全ての記憶を失うことなんじゃないの?」
夏樹はゆっくりと視線をあげ、モノカミのきょとんとした顔を見た。
「そう、かもね」
「君は生まれ変わって、また新しい自分の歴史を一つ一つ作ればいい。永遠の別れじゃないんだし、そんなに心配する必要ないよ。儀式もあっという間に終わるはず」
あちらとこちらを行き来しているクニヌシやモノカミ、そして夏樹との間にある違和感。
それは互いに違う死生観のせいであろう。
「新しい・・・私の記憶か。良い子に育ててね、モノカミ」
モノカミはにんまりと笑い、任しておけ、と夏樹の頭をぽんぽんと軽く叩いた。
傍で二人を見守るようにクニヌシが手のひらにナギを乗せたまま座っている。
辺りはとても静かで、時折、どこから吹いてくるのか優しい風が木々を揺らす音だけが聞こえた。
そうして、夏樹の覚悟も定まってきた頃、淳之介と文乃が学校を早退して戻ってきた。
ナギと文乃は清浄すぎるほど浄化され尽くした岩清水で夏樹の全身を清め、拓海のために買った服はナギの小さな吐息一つであっという間に燃やされた。
「さあ、夏樹さんはこれを着てくださいね。私とお兄様はここでお別れです」
文乃は神社で禊をした後に着るために用意した真っ白な着物を夏樹に差し出した。
淳之介と文乃は、これから夏樹たちが儀式を行う森のさらに奥には行くことができない。
ここでナギとともに結界を張り、万一に備えると言う。
「着るの手伝ってもらえる?」
文乃は微笑むと、一度は手渡しした着物をまた夏樹から受け取り、生まれたままの姿で泉のほとりに立つ夏樹の背後に回り、肩に着物をかけてやった。
文乃に着付けを手伝ってもらい準備が整った夏樹は少し涙目で文乃とナギ、そして禊と着替えが終わるまで背中を向けていた淳之介に深々と礼をして、クニヌシとモノカミが待つ岩場の背後にある森の奥へと歩いて行った。
背の高い木々に囲まれた場所に二人は並んで立って夏樹を待っていた。
大きさは丸い手のひらで包めるくらいで、大小の光る玉がそこら中に浮いて漂っている。
光は淡く、ホタルのように光ったり消えたりしていた。
「じゃあ、始めるよ」
この幻想的な空間のど真ん中にある光の円に向かい、夏樹は恐る恐る歩き出した。
円の中心にはモノカミが両手を広げ待っている。
夏樹がモノカミの腕に中に入ると、二人は沈み込むようにそのまま中心に座った。
向き合うように座ると、モノカミは声に出さずに詠唱を始めた。
夏樹の胸の中にある赤い煉獄の炎で作られた玉を取り出すために、モノカミは夏樹の胸をゆっくりと押すように両手を体の中へと沈ませていく。
一度だけ夏樹は目を大きく見開いたが、モノカミの腕が引いていく時には、その瞼を閉じ、成長し続けた偽物の体はただの器に戻っていった。
モノカミは夏樹から取り出した炎の玉を、そばに置いて置いたカンテラの中にそっと入れる。
カチャ。
モノカミは慎重にカンテラの小さな扉を閉めると、大きく息を吐いた。
「なっちゃん。樫の国でまた会おうね」
カンテラの中には青白く、そして力強く火が燃えている。
あっという間に、夏樹は意思を持たないかがり火となって、今はモノカミが持つカンテラの中に収容された。
「戻ろうか」
大事そうに夏樹の魂が入ったカンテラをクニヌシに手渡した。
「はい、クニヌシ様。入れるより出す方が何倍も疲れました・・・。あとはよろしくお願いします。僕はこのまま戻ります」
モノカミはいつものようにクニヌシの背中に体を預けると、そのまま姿を消した。
周囲を照らしていた光の玉も消え、あたり一帯は真っ暗な闇と化している。
「俺も行くとするかな」
クニヌシはカンテラの中の炎を見つめながら、夏樹とともにその場で姿を消した。
「どうやら終わったようだな」
文乃と二人して祈っていた手を下ろすと、光が消えた森を見据えて淳之介が言った。
兄の言葉で文乃も瞼を開ける。
岩の上に腰掛けるナギが神妙な顔つきで兄妹を見て、二人に声をかけた。
「あやのん、淳之介。お勤めはこれにて終了。ありがとう」
兄妹はナギの優しい声に顔を向けて微笑んだ。
反対にナギは苦笑い。
「近々、あなたたち二人のことも話し合いましょう。でも今日はこれでお帰りなさいな」
淳之介はナギの言わんとすることを理解したのか。
なんとも険しい顔をして、文乃の手を取り立ち上がらせると、ナギに礼をした。
兄妹は肩を並べ、灯篭が並ぶ薄暗い森の中へゆっくりと消えていった。
その後姿にナギの目には涙が浮かんだ。
読んでいただきありがとうございます。